幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【未成線】稲荷山鋼索鉄道を歩く(京都)

伏見稲荷に計画された幻のケーブルカー ~

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京都を代表する名所の一つである、伏見稲荷大社

全国の稲荷神社の総本社であり、壮観な千本鳥居が特に有名なこの神社は、近年では外国人に最も選ばれる日本の観光地ともなっているようで、今日では日々、境内は外国人で埋め尽くされている。

また、背後にそびえる稲荷山も伏見稲荷観光の主要な要素を成しており、千本鳥居が山中に連続しているだけでなく、山中の数々のお社を巡る点や京都の眺望を楽しむ点でも、観光客に人気を博しており、山中に数多くの茶店が営業していることからも、この地を訪れる人が如何に多いかが分かる。

 

そんな屈指の名所となっている伏見稲荷界隈だが、これだけ人気の観光地にもかかわらず、稲荷山に登る手段は専ら徒歩のみとなっている。訪れる人も多い人気の山でありながら、徒歩以外の交通手段が無いというのも、何だか不便に感じてしまう人も少なくないのではないだろうか。

このような稲荷山にも、かつては鞍馬寺や男山と同じように、ケーブルカーを敷設しようとした計画があった事は、著名な伏見稲荷界隈といえど殆ど知られていない事であろう。今回紹介するのは、そんな稲荷山の交通の便の向上を図った、稲荷山鋼索鉄道の計画である。

 

★ 概要と歴史 ★

先述の通りこの計画は、伏見稲荷大社の裏手から稲荷山の頂上までを結ぼうとしていたもの。

大正11(1922)~15(1926)年頃の計画である。

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伏見稲荷大社のすぐ裏手である(稲荷山)登山口駅から、ほぼ一直線に山頂へ向かい、稲荷山頂上付近に一ノ峰駅を設けるという計画だった。

 

接続路線および駅は、国鉄(現JR)奈良線稲荷駅や、京阪電車伏見稲荷駅、さらに計画当時なら京都市電稲荷線の稲荷電停となる。

いずれの駅も山麓側の(稲荷山)登山口駅からはやや離れているが、全て徒歩圏内にあるので、路線の接続においてはほぼ問題ないと考えて良い。

 

-路線データ-

●形態:鋼索鉄道(ケーブルカー)

●距離:約1.1km(56チェーン)

軌間1067mm

●駅数:(起終点)

 

この他にも運営会社は付帯事業として、娯楽機関の経営土地家屋の賃貸その他これらに関連した事業を営むことも目論んでいた。

 

 

一つ注目すべき点があるとすれば、その路線距離がおよそ1.1km以上と、比較的長い点である。

徒歩での登山に問題が無ければ、稲荷山は登りやすい部類の山に入り、山頂までもそれほど難なく辿り着くことが出来るだけに、この長さは少々意外な感じもする。

 

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上は鉄道省文書内に収録されている、当時の図面。

モノクロで線がやや薄くて分かりにくいが、赤丸の中に路線のルートが書き込まれている。

 

これを見ると、ケーブルカーの計画線はほぼ一直線状に描かれている。地形などの関係も考えると、少々いい加減な路線の引き方にも見えてしまうのだが、あくまで予測平面図として、敷設免許取得後により精密なルート設定をするつもりだったのだろうか。それとも、このまま本当に一直線状のケーブルを造るつもりだったのだろうか。

 

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また、上の図面は同じく鉄道省文書内に封入されている、当時の縦断面図。

 

確かに図面はあくまで「予測」ではあるのだが、これも図面としては地形の描き方がかなりいい加減な印象を受けてしまう。やはりこれも、より正確なものは敷設免許取得後に実測の図面を作ることで、取って代えるつもりだったのだろうか。

 

-略史-

大正11(1922)年:敷設免許を申請

大正15(1926)年:出願が却下される

却下理由として「本出願線は稲荷山遊覧者の便益に資そうとするものではあるが、成業の覚束が無い上に適当な計画と認められないため」と文書内では説明されている。

 

これには、当時の京都府知事の「伏見稲荷大社の裏手に起点があるため、同社参詣線としては効用が無い、(ゆえに)単に稲荷山に登るだけの遊覧線である、(敷設の場合)境内の森林を損傷し神社の尊厳を害する、(この他にも)風致上至大の関係がある」などといったネガティブな副申も大きく反映されているものと考えられる。

 

全国の稲荷神社の総本社という性質もあってかひときわ神聖視され、当時のより保守的な傾向も加わったのか、戦後にケーブルが出来た鞍馬寺石清水八幡宮のある男山のようにはいかず、伏見稲荷に登山交通を整備するという計画は、ここで幻に終わってしまった。

 

ちなみに、稲荷山にはこの他にも、稲荷山鋼索電気鉄道(原資料リンク)という別の計画も存在していた。

出願は大正10(1921)年と本記事の計画線よりも1年早く、ルートもかなり酷似している競願路線だったが、本記事の路線と同じ大正15(1926)年には敷設免許申請が却下され、共倒れとなっている。

(こちらの路線は原資料の図面が不鮮明で判読が難しかったため、当ブログではひとまず割愛することとした。)

 

未成線を歩く ★

・現地踏査時期:2018年2月

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【ア】伏見稲荷大社の本殿付近。今や日本で最も有名な観光地の一つとなり、外国人が押し寄せる日々が続いているが、この本殿の裏手辺りにケーブルカーの計画は存在していた。

 

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【イ】山麓側の(稲荷山)登山口駅予定地。神事などに使われる場所のためか立入禁止となっているが、右手の階段もケーブル乗り場に通じる道になっていたかもしれない。

 

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【ウ】駅予定地の少し上に上がった辺り。左が山麓方、右が山頂方を望む。おおよそ矢印の辺りをケーブルは通る予定だった。

 

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【エ】途中、線路予定地は千本鳥居を1ヶ所横切ることになるが、地形的に決して不可能ではないように見える。この辺りに参道を跨ぐ橋梁を架ければ、十分立体交差は出来るように思える。

 

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【オ】右手から矢印奥に向かって、直進するようにケーブル計画線は山頂を目指す。ここからしばらく、山道はケーブル計画線から離れることになる。

 

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【カ】稲荷山へ向かう道中の池から計画線を遠望。木々が茂っているずっと向こうの辺りで、ケーブル計画線は谷を越え、左上に若干見えている稲荷山に向かって、真っ直ぐ登っていく。

 

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【キ】頂上に近づく辺りで、山道は再び計画線へと接近する。右写真が山頂方。斜面の下辺りを登っていく予定だった。

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(↑撮影位置の参考。)

 

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【ク】奥の赤丸内の斜面を少し降りた辺りに、山頂側の一ノ峰駅が予定されていた。実現していれば社殿様式の駅舎が建っていただろうか。

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(↑撮影位置の参考。この場所から左方向へも、ケーブル駅へと通じる道が出来ていたかもしれない。)

 

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【ケ】現在の一ノ峯こと稲荷山頂上。お社と茶店がある以外は特にこれといった物は無いが、ケーブルカーが通じていればもう少し状況は変わっていたのだろうか。

 

********************

 

戦前の鉄道敷設ブームや電鉄ブームにおいては、日本各地に星の数ほどの計画線が立てられ、寺社仏閣への参詣を目的にしたケーブルカーも幾多も企てられた。

そのうち京都においては、叡山ケーブル比叡山延暦寺)や愛宕山鉄道(愛宕神社、戦中に廃止)、男山ケーブル石清水八幡宮)や鞍馬ケーブル(戦前は未成、戦後鞍馬寺の手で開業)など、実現したものも数多い。

いずれも有名な寺社仏閣への参詣の便を図ったもので、それなら京都屈指の神社である伏見稲荷大社や稲荷山にも~、となったとしても、十分不思議ではない。

 

しかし、世の中はそう単純ではないもので、神社というものが現代よりも神聖視されていた戦前のこと、大神社の敷地内となれば、鋼索線の敷設にはその壁があまりにも高かった。

 

だが、現代になって考えてみると、寺社仏閣へのケーブルカーの敷設は、必ずしもその寺社の雰囲気を俗っぽくしてしまう、というわけではないようだ。

鞍馬ケーブルに至っては、路線自体が鞍馬寺自らの手で敷かれたためか、境内もケーブル周辺もそこまで観光地然とした陳腐な雰囲気を漂わせている感じはしない。むしろ、寺本来の雰囲気が比較的保たれている印象がある。

男山ケーブルに関しても、現在は京阪電鉄が運営するやや大型規格の路線ではあるものの、特段観光地っぽい感じになっているかといえば、意外におとなしい雰囲気が保たれていたように記憶している。

このように、寺社にケーブルを敷設する場合であっても、やりようによっては、陳腐な観光地的雰囲気に変えること無く寺社本来の雰囲気を保つ、というケースも、決して有り得ない話ではないのである。

 

昔から登山手段が専ら徒歩のまま現在に至る稲荷山も、常に沢山の人が押し寄せる日本屈指の一大観光地となった。

これだけ多くの人が詰めかける有名名所でありながら徒歩しか移動手段がない、という現状を見てみると、神社の雰囲気を限りなく壊さずに、という条件付きで、何とかケーブルカーを実現できなかったものか、と思えなくもない。

現代のバリアフリーの観点から見ても、足腰の弱い人や身体障がい者の人ですら、稲荷山登山・観光を楽しめるようになっていただろうし、今日多くの外国人が訪れている以上、その人たちをよりスムーズに輸送できる上、かなり多くの利用者を見込めたであろう、とも思えてくる。

伏見稲荷大社が全国の稲荷神社の総本社である以上、神聖で厳かな領域であること自体は現在も変わらないので、その領域内に鉄道を敷設するとなれば、当然現代ですら物議を醸しそうだが、鞍馬寺のような形で実現出来た可能性もあるのでは…と、やはり少々惜しい気持ちにもなる。

 

★ 参考文献 ★

鉄道省文書「稲荷山鋼索鉄道敷設願却下ノ件」(大正15(1926)年、国立公文書館蔵)https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000384873

(記事中の原資料は全てこの文書より引用。)

 

その他資料等若干

【未成線】叡山電鉄の延伸計画を歩く(京都)

~ 出町と八瀬、本線両端に存在する幻の延伸線 ~

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京都・洛北地域を走る、叡山電鉄

鄙びたローカル私鉄でありながら、比叡山貴船、鞍馬などの観光地を結んでおり、出町柳から京阪電車により大阪方面へ連絡しているため、日々生活や観光の重要な足として活躍している。

 

この叡山電車、路線構成は出町柳八瀬比叡山口叡山本線、宝ヶ池~鞍馬が鞍馬線となっているのだが、うち前者の両端駅からは、かつて延伸計画が存在していた。

今回は、知る人ぞ知る存在で、かつて工事にも着手されたという出町柳からの延伸計画と、現在は殆ど知られていないと思われる八瀬(比叡山口)からの延伸計画を紹介する。

 

出町柳からの延伸線 ★

この計画線は出町柳~三条間で計画されていたもので、現在の京阪鴨東線区間同)の原型となる計画である。

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(↑※途中駅については不詳なため、図中では割愛している。「[新]出町柳(予定)」については後ほど解説する)

 すなわち、鴨東線も計画当初の段階では、叡山電車を三条まで延伸する予定だったのである。

 

現在の京阪鴨東線が開業したのは ちょうど平成の世に入った頃だが、その原型となる計画は大正13(1924)年まで遡る。

 

この頃の叡電延伸計画は、

出町柳~三条は鴨川沿いの地上に敷設

京阪電車との相互直通を前提

といったように、現在の京阪鴨東線とは(当然かもしれないが)幾らか形態の異なるものであった。

 

路線距離は2.4㎞軌間・動力・電圧等は既存の叡山電車と同一と考えて良い。

 

そして、この計画線で特筆すべきことは、計画されてから京阪鴨東線に計画変更されるまで、敷設免許を取得しただけで終わり、ではなかったという点である。

免許取得後、戦前に一度建設工事が行われているのである。

 

詳しくは後項の略史で説明するが、着工されたにもかかわらず この時実現しなかったのは、他の未成線と同じように、戦前社会のゴタゴタの煽りを受けてのものである。

 

-歴史-

大正13(1924)年:敷設免許を取得

この計画が始動したのは、まだ現在の叡電(当時は京都電灯の路線;以下同)が建設中で、開業する前からのことである。

昭和3(1928)年:レール調達、用地買収等に着手

(↓以下年代不詳)

建設工事に着手

この時、京都市電丸太町線との交差問題などがまだ解決されておらず、京都市との協定も結ばれていなかったが、叡電側は着工を急いだため、問題該当箇所を除いての工事着手となった。

工事が中止される

波乱の多い昭和前半の時代のこと、建設途中で工事が中止となった主な要因としては、

昭和恐慌の襲来

室戸台風や鴨川大洪水(建設資材が災害復旧資材として流用されたという)

第二次大戦の勃発

だという。工事にも着手された叡電による三条延伸は、事実上ここで未成に終わる。

昭和25(1950)年:京福・京阪両社間で鴨東線に関する協定を締結

この時に定められた計画では、叡電(この時の運営会社は京福)の出町柳駅を加茂大橋の南東部分に移転するというもので(出町柳の新駅移転は後の「未成線を歩く」の項でも触れる)、まだ鴨川堤防上の地上を走る事になっていた。

昭和28(1953)年:京都市から地下線での建設義務が課される

この年の京都市会で鴨東線建設決議がなされたが、景観問題や今出川・丸太町・二条各通りとの交差による交通問題から、当初の地上線での建設は認められなくなった。これにより、地下線建設費の捻出が難しい京福は、毎年免許の更新を続けるだけに留まる、という状況が長く続く。

●昭和47(1972)年:鴨川電気鉄道が設立される

このまま再び停滞しかねなかった鴨東線だが、昭和46(1971)年の都市交通審議からも、早期建設路線との答申が上がり、京阪の既存線(七条~三条)の地下化計画の進展とも合わせて、その実現に向けて進めるべく、京阪・京福両社出資の下で当社が設立され、建設・経営を任せることになった。

このときはまだ、京阪と叡山線を相互直通運転させる事が前提となっていた(叡山線側は200形300形車両を中書島まで、京阪側は岩倉や八瀬遊園(当時)まで乗り入れる予定だったという)。

昭和49(1974)年:京福叡電)側の敷設免許が失効

それと入れ替わるように、同年の免許失効5日後、鴨川電鉄が同区間の免許取得となった。

昭和59(1984)年:鴨東線が京阪の路線として着工

京阪と叡山線の直通運転が断念されたのはこの頃と思われる。理由としては、叡山線の大幅な改良が必要なことと、両路線の輸送需要の差が大きすぎるためだという。

平成元(1989)年:京阪鴨東線が開業

叡電の手による延伸や京阪との直通運転こそ叶わなかったが、長らく鉄道ネットワークの空白だった路線は、最初の計画から実に65年の時を経て、京阪の延伸という形で実現した。

 

このように当初から大きく形を変えた鴨東線だが、実は当初の叡電による延伸工事の痕跡や名残は、現在でも僅かに見る事が出来る。以下の項で詳しく見てみよう。

 

未成線を歩く-

・現地踏査時期:各写真により異なる(撮影年を併記)

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現在の出町柳駅北端。手前の1番線と真ん中の2番線の2線から、三条方面へ向けて線路が延伸される予定だった。(2015年9月)

 

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現在こそ1番線(図の一番上の配線)は1両分の長さに後退しているが、かつては開業時の図のように2両分の長さがあり、一つ下の2番線と同じだけの長さだった。

つまり、先への延伸には十分対応していた線路配置だったということである。

 

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開業時からある出町柳駅の上屋。寺社様式の立派な物にも見えるが、こちらも実は三条延伸までの間の仮設物として建てられたものだという。(2015年9月)

 

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戦前の出町柳駅の写真を見てみると分かりやすい。屋根部分は随分立派に見えるものの、それを支える柱たちは華奢なようにも見え、仮設物であるというのも納得がいく。よくぞ現在まで残ってきたものだ。

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(↑上の写真の抜粋元。2015年11月の駅構内の掲示

 

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駅の終端部。この部分から三条方面へ線路が延ばされようとしていた。一見すると延伸構造にはなっていないようにも見えるが・・・

 

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よく見ると、上屋の柱と梁が2線分を収められるだけのアーチ状になっており、架線の終端部も基本的には天井吊りとなっている。先程の線路配置とも合わせると、前を塞ぐ物さえどかせば、十分路線が延伸できるようになっている。(2015年9月)

 

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【ア】叡電による三条延伸工事の唯一の痕跡ともいえるのが、こちらの塀。タクシープールや駐輪場のある敷地に対して、斜め向きに建っている。(2014年9月)

 

【ア】航空写真で見てみると分かりやすい。中央の十字印の右に、先ほどの斜めの塀がある。上の出町柳駅から線路を伸ばした一直線上の向きに建っている事が分かる。

 

【ア】やや不鮮明だが、昭和20~25(1945~50)年頃の航空写真を見ると更に分かりやすい。同地点で延伸工事が行われた痕跡が、よりはっきりと見て取れる。

 

【イ】昭和25(1950)年の計画では、加茂大橋南東のこの場所に出町柳駅を移設し、叡電の線路をここまで延ばした上で、三条まで延伸するとしていた。つまりここには、叡電の未成新駅が「存在」していることになる。

この計画も、京都市から地下線での建設を義務付けられたことにより、流れている。

 

★ 八瀬からの延伸線 ★

昭和61(1986)年の『レイル No.17』P.28には、こんな興味深い記述がある。

本来の形で鴨東線が建設されたならば、京阪電鉄がここから比叡山にトンネルを掘って、琵琶湖々畔の堅田まで直通電車を走らせる計画だったとか。

比叡山への玄関口として造られた八瀬(比叡山口)駅。最初から終着のままを前提にしていたのかと思いきや、驚く事に、堅田方面への延伸が構想されていたのである。

 

【18/8/16追記

ごく最近アクセス解析をしていると、ツイッター上で以下を始めとした連続ツイートを偶然見つけた。

恐縮ながら、その一部を引用させて頂こう。

 

画像の出典として示されているのは以下の通り。

 

八瀬(比叡山口)駅から線路を延ばし、京阪電車堅田まで直通させようとしていた延伸計画

実は、どうやら 戦後の計画だった ようである。

 

京阪電車およびその系列の路線拡大計画といえば、戦前の「京阪王国」と呼ばれていた拡大方針が有名である。

現在では小ぢんまりとした八瀬比叡山口駅から、比叡山にトンネルを掘って滋賀県側の堅田まで路線を延ばす…といったくらいのスケールの大きな話を聞くと、その壮大さから「戦前の『京阪王国』時代の計画かな…」とも思い込んでしまう。しかも、戦前に造られた八瀬(比叡山口)駅が延伸構造のような造りになっている(後述)となると、尚更それで正しいと思えてしまう。

しかしよく考えてみると、「八瀬から堅田までの延伸構想=戦前の計画」を裏付ける明確な根拠は、上に示した物以外には無い。どうやら、自身の頭の中で思い込みが独り歩きしてしまったようである。

 

本記事では戦前の構想である前提で話を進めてしまったが、根拠や資料の乏しい中での憶測による、ズレた内容を大々的にこの記事に書き込んでしまったことは反省したいところである。だが、かといって内容を全て正しいものに直そうとなると、本項目の内容をほぼ全て書き換えなければならないことになる。

そのため、従来の内容はあくまで「過去の記述」として敢えて残すこととし、その手前(「八瀬からの延伸線」項目の冒頭付近)にこの追記を示すことにより、読み手の方々に最初に正しい史実を知っていただこう、ということにした。

項目の冒頭から追記を加えたのは、内容の根幹に関わるこのような理由からである。追記部分から後の記述(従来の内容)と追記とでは内容が噛み合わない部分が多々出てくるが、「八瀬からの延伸線」項目においては、追記が最新の正しい情報であり、それ以外は過去に書いた訂正前の内容であると理解して頂きたい。

 

話を延伸構想の中身に戻すことにするが、連続ツイートの中では以下の説明(下半分のツイート)も付けられている。もう一つツイートを引用させて頂こう。

 

話を総合するとこの路線構想は、京阪の影響下にあった江若鉄道湖西線転換による廃止の後も、京阪の沿線への影響力を保つため、現在の小野駅近くに住宅開発計画を立て、そのアクセス路線として俎上に上げられたもの…ということだそうだ。

うち京阪の鉄道は実現しなかったが、同地での住宅開発の方は実現している…というのは、上のツイートでも書かれている通りである。

 

なお一連のツイートの中では、八瀬~堅田間の経由地は大原経由ではないかという言説が上がっているが、本項目の冒頭に示した『レイル No.17』P.28の引用文には「比叡山にトンネルを掘って」と書かれている。

仮にこの書籍の記述の方が正しいとして、八瀬~堅田間は「比叡山トンネル」経由…というのが事実だとすれば、下の図のようなルート設定も想定されるのではないだろうか。

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最初に引用したツイートの画像(路線のイメージイラスト)の描かれ方や、ツイッター上で書かれていた事と併せて勘案すると、現在のJR小野駅より南から路線は一旦西進し、山にぶつかる前に南へと進路を変える。しばらく南進したのち、比叡山北東の山麓付近から「比叡山トンネル」に突入し、そのまま八瀬(比叡山口)駅まで直行する…といった感じだろうか。

あくまで上の図は自身による大まかな個人的予想図に過ぎず、小野駅付近以外は一部史実とは異なっている可能性もあるが、本ブログに於いてはこのような見解である…と理解して頂きたい。

 

追記についてはここまでとするが、もし鴨東線叡電・京阪直通の形で実現し、この路線が造られていれば、叡電は京阪に吸収合併され、京阪の路線の一部となっていただろう…と考えると、ロマンが湧いてくる。

 以下は追記により「訂正」する前の過去の内容 である。

追記終わり】

 

上の記述を大まかに地図に落とし込むと、以下のような感じ。

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先の引用の通り、構想区間は八瀬(比叡山口)~滋賀県堅田付近、なおかつ比叡山内は長大なトンネルで貫く事としていたようだ。

 

なお、路線距離や経由地などの詳細は不明なため、本項においては路線データや略史は割愛するが、『鉄道未成線を歩く 私鉄編』の免許線リストを見る限り、該当区間は掲載されていないので、少なくとも敷設免許の取得は行われていなかったようである。

 

このように、一見すると単なる漠とした構想のようにも思えてくるが、実体に現れていない机上だけの計画かといえば、どうやらそうではないようである。

 

実は、開業時とほぼ変わらぬ姿を見せる現在の八瀬比叡山口駅を見てみると、「延伸構造」になっている のである。

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上の図は一般的な行止り駅と八瀬比叡山口駅の大まかな構造を比較したもの。

一般的な終着ターミナルと言っても、あくまで大雑把な平均傾向であり例外も沢山あるが、大体の終端ターミナルと言えば、ホームは櫛形の突端式、その行き止まりの先に駅舎があるというパターンが多い。

つまり多くの終端駅は、完全な行き止まりを前提とした構造になっており、延伸はまず不可能な造りとなっている。

 

しかし、八瀬比叡山口駅の場合はそうではない。

ホームが櫛形という点こそ変わらないものの、駅舎は駅に横付けする形を取っており、現地状況も付加すれば、車止めの先を塞ぐような大きな構造物も殆ど無い。

上屋に関しても、車止めから先を閉塞するようなことはせず、終端部の先でも大きな口を開けているのである。

 

これらのことから、八瀬(比叡山口)駅は、将来の路線延伸にも対応した造りとなっていると考えられるのである。

 

その様子を実際に現地の写真と共に見ていこう。

 

未成線を歩く-

・現地踏査時期:各写真により異なる(撮影年を併記)

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車内より八瀬比叡山口駅を望む。先に線路が延びていれば、そのまま通り抜け出来そうな造りである。

イベント時に撮影したため、右にデト1001が停まっている。(2016年3月)

 

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夜間の写真で恐縮だが、八瀬比叡山口駅の全景。地元人にとってはすっかりお馴染みの光景だが・・・(2015年11月)

 

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同アングルの開業時の写真。当時から変わっていないこの駅は、この時の写真で見ても、大きなホーム屋根こそあるものの、先に線路を延ばすことを考えれば、2面2線の途中駅に改造出来そうである事が分かる。

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(↑上の写真の抜粋元。2015年11月の車内の掲示

 

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駅の終端部。こちらも構造をよく観察してみると・・・

 

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車止めの先で上屋が2線分を通せるだけのサイズでポッカリと開いており、架線の終端も天井吊りとなっている。このまま容易に線路を延ばせそうなので、延伸を見越した造りになっている可能性は高い。(2003年)

 

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これも夜中だが、駅舎に相当する駅入口部分。こちらも駅に横付けされるように設置されている。(2015年11月)

 

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開業時の写真。右に八瀬駅舎が見える。微妙に位置が違うようにこそ見えるが、基本的な配置は変わっていない。

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(↑上の写真の抜粋元。2015年11月の駅構内の掲示

 

駅終端部の先を横切る道路。実はプラットホームと同じレベルであり、右の駅から延伸するなら掘り下げる必要がある。しかし、決して難しい事ではないと思われる。

 

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川より眺める八瀬駅の古写真。左に八瀬駅の建物が大きく口を開けている。延伸すれば左から道路を横切り高野川を渡ることになるが、流石に橋梁の準備工事まではされていなかったようだ。

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(↑上の写真の抜粋元。2015年11月の駅構内の掲示

 

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【ウ】八瀬比叡山口駅から一直線上の先にある地点。この場所から比叡山へのトンネルに突入する予定だったことになる。実現していればどのような姿のトンネルになっていたのだろうか。

 

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最初に開業した区間のままで、延伸線が実体として現れることは無かった、叡山本線

 

仮に未成区間が実現していたとすれば・・・

出町柳~三条なら、予定通り京阪との直通運転が行われていれば、現在の叡山電鉄は、阪急グループでいう能勢電鉄のような姿になっていたかもしれない。

叡電の沿線も、能勢電同様に住宅開発が更に盛んに行われていたかもしれない。

八瀬~堅田なら、予定通り比叡山を長大トンネルで貫き、直通列車が琵琶湖湖畔までレジャー客を乗せて駆け抜けていただろう。

 

また、堅田といえば、かつて現在の京阪石山坂本線が、坂本から先の延伸先として計画していた場所。

この路線と叡電の延伸線が両方とも実現していれば、きっと以下のような路線ネットワークが実現していた事だろう。

もちろん、これらほぼ全ての線路が繋がるという形で。

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(※他社線や他の未成線は省略している。)

 

ただ、琵琶湖畔の堅田と言えば、これまでも江若鉄道湖西線が通ってきたものの、観光地やレジャー先といったイメージは、さほど強くない。

現在でも関西圏の郊外の街といった感じで、そこまで人が訪れる感じはしない。

果たして京阪が莫大な資金を投じて長大トンネルを掘り、堅田の開発を行ったところで、採算が取れただろうかと考えれば、疑問に思えてきてしまう。

 

鴨東線こそ重要な幹線的新線として長く位置付けられてきたものの、琵琶湖畔の閑散地帯とも思えそうな所まで、わざわざ長大トンネル掘削という大掛かりな事を成してまで進出しようという発想があったとは、いかにもかつての「京阪王国」らしい、夢に溢れた時代であるなと実感させられる。

 

★ 参考文献 ★

●プレス・アイゼンバーン『レイル No.17』(昭和61(1986)年、エリエイ出版部)

※上誌の特集「京福電車の歴史と現状」を参照。

※上誌内では参考文献として『鉄路五十年(京阪電鉄50年史)』『京都電灯50年史』『京福電鉄30年史』なども挙げられている。

Wikipedia『京阪鴨東線

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%98%AA%E9%B4%A8%E6%9D%B1%E7%B7%9A

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(平成13(2001)年、JTB出版事業局)

●高山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔II』(平成14(2002)年、JTB出版事業局)

Wikipedia『京阪石山坂本線

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%98%AA%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%B7%9A

 

その他ウェブサイト若干