幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【未成線】別府遊覧電気軌道を歩く(大分)

~ 別府の2大地区、市中心部と鉄輪温泉を結ぶ電車計画 ~

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日本有数の温泉の街、大分県別府市

その中でも別府駅周辺の中心市街地と、2番目に賑やかな鉄輪(かんなわ)地区は、別府の街や温泉観光の基軸を成している。

 

この別府、海側(東側)には鉄道が通っているものの、山側(西側)には、鉄輪地区も含め、歴史上一度も鉄道が通ったことがない。

しかし、かつてそこに鉄道を通す計画は存在した。その代表的なものの一つが、今回紹介する、別府遊覧電気軌道である。

 

★ 概要 ★

別府遊覧電気軌道――この計画は、大正13(1924)年 ~ 昭和10(1935)年頃に存在していた。(※前者は軌道敷設特許出願年、後者は特許失効後の会社解散年。)

 

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(※参考のため昭和47(1972)年まで走っていた別大電車の経路も掲載。但し最盛期のルートと当電車計画当時の開業区間は異なる。)

戦前まで別府一の繁華街だった流川通を起点とし、そこから鶴見地獄方面に向かって急勾配を登り、鉄道網の行き届いていなかった別府の西側エリア(山の手)を縦断し、鉄輪に至る、というのが主なルートである。

 

実際この電車計画、元々はこのルートのみならず、当時の別府港~流川7丁目までの区間(上図左下の赤い破線部分)と、鉄輪~亀川間(上図の鉄輪から先の破線)も含めたもので、現在の別府市域の西側を半周する計画だった。そのうち前者は、流川7丁目~8丁目の間にある日豊本線の踏切の所で、線路を分断することになっていた(詳細は後述)。

だが後に、この2区間の工事施工申請は見送られている。

 

今回は、工施申請が行われ、計画が具体化し、豊富な資料が残されている、流川通八丁目~鉄輪間の区間についてピックアップすることとした。

 

なお、本記事図中の停留場の位置については、一部停留場において元の図面が不鮮明だったため、当時の鉄道省文書の他のページに記されている、起点からの距離データを基に、計測して割り出したものもある。

 

- 路線データ -

●距離
 ◎特許区間総計:10.6km
 ◎工事施工申請区間約6.04km

●車両
 ◎両数:10
 ◎足回り:単車
 ◎定員:40人
 ◎出力:40馬力
 ◎その他仕様:空制付き

軌間1067mm

●動力:電気(直流600V)

●線数:全線単線

●停留場数:11(起終点含む、工施申請区間のみ)

●備考
 ◎併用軌道:3ヶ所
 ◎専用軌道:2ヶ所
 (工施申請区間のみ)

 

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さて、この未成線の特徴として特筆出来るのは、図面を中心として、当時の詳細な資料が豊富に残されているという点である。

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ルートの平面図や縦断面図のみならず、多いのは、軌道設備の細部にまで渡る、幾つもの設計図。

路盤、軌道、レール、橋脚橋台、電気設備…… その種類を挙げれば、枚挙にいとまがない。

 

通常、このような詳細な図面は、鉄道省文書の場合、戦前に鉄道省が簿冊として整理した際に、添付の図面や地図などが大量に処分された経緯もあり(森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』2001年、p.173)、ここまで細かで豊富なものは現存していないケースが多いようである。

そのような中で、大都市圏ではない一地方の鉄道計画において、ここまで豊かな資料が幾多にも渡って残されている点では、この鉄道計画における資料の残存状態は極めて良好であると言えよう。

 

これだけ数多くの図面が残されていると、ルートのみならず、軌道各所の細かな設計も明らかになり、幻に終わった当時の電車路線像が、鮮明に甦ってくる。

 

本記事においては、そのような詳細な路線像は、後述の「未成線を歩く」の項で、停留場・区間などの部分ごとに、詳しく紹介・解説している。

また、「参考文献」の項に貼ったリンクより、原資料を閲覧することが出来るため、本記事に掲載していない分の図面についても、そこから閲覧していただくことが出来る(各種図面は主に巻末寄りに集中している)。

 

★ 歴史 ★

大正13(1924)年広島ガス電軌が軌道敷設特許を出願

大正15(1926)年特許が下付される

昭和2(1927)年特許を別府遊覧電気軌道に譲渡

元々この計画の原型をつくったのは「広島ガス電軌」(原表記:廣島瓦斯電軌)と呼ばれる会社で、最初にこの会社が敷設特許を取得し、のちに新会社である「別府遊覧電気軌道」に特許権を譲渡している。但し、両社とも社長は同じだったようである。

昭和3(1928)年流川通八丁目~鉄輪間の工事施工を申請

●同年:以下区間の工事施工の延期を申請

 ◎流川1丁目(旧別府港)~ 7丁目

 鉄輪~亀川

昭和6・7・8(1931・32・33)年工施認可申請の延期を申請

特許権が新会社に譲渡されて以降、工施認可申請の延期そのものの総回数をカウントすると、およそ6回にも上るようだ。主な理由としては、地主との利害調整や電力供給契約の難航、急峻な地形による設計変更の必要性、地元の協力が得られなかった、などがあるという。

(※紛らわしいようで恐縮だが、国に対しては『この区間の工事を行う予定』という報告こそしているものの、実際に工事を行うための認可を貰うプロセスを、一度も踏まず先延ばしを繰り返している、という趣旨の説明である。)

昭和9(1934)年敷設特許の取消・失効

上記のように何度も工施認可申請延期を繰り返したがために、国からもついに「誠実さが感じられない」と愛想を尽かされ、とうとうここで敷設計画をストップさせられてしまった。

昭和10(1935)年会社が解散

 

未成線を歩く ★

当時の文書内には、各停留場一つ一つの概略を記した、詳細な図面が残されている。

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この図も参照しながら、当時のルートを現地の様子と共に辿ってみよう。

 

※現在関西在住で別府までなかなか足を運びにくいため、現地状況はストリートビュー埋め込みで代用した。

 

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※[停]=停留場

 

流川通八丁目[停]

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当路線の(事実上の)起点。右が鉄輪方面。

停留場部分は2線で、左は行止り式を想定していたようだ。終端部の先には、当時地上を走っていた日豊本線の踏切があった。

 

この先東方面(図の左)、工施延期が申請された、流川通一丁目方面まで延びる区間は、ここからそのまま線路を延ばせば日豊本線との交差で問題が生じるため、ここで一旦線路を切り、日豊本線の踏切を渡ってもらい、踏切の向こうから別線として分離した区間に再び乗り換えてもらう、という方式が考えられていた。

 

現在の同地点の様子。正面が鉄輪方面、この反対側で日豊本線が交差している。

日豊本線も現在は高架となったため、流川通とも立体交差となっている。

 

別府公園前[停]

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単線のシンプルな停留場。左が流川通八丁目方面、右が鉄輪方面(以下同)。

現在の町の状況からすれば、別府公園からは随分離れた場所に位置するが、昭和14(1939)年の航空写真を(国土地理院の空中写真閲覧サービスで)見てみると、別府公園は当時この辺りまで範囲が広がっていたようである。

 

【ア・イ・ウ・エ】別府公園前[停]~研究所前[停]間のカーブ

かつて電車が通る予定だった道路の、【ア】~【エ】の場所には、下の写真のようなカーブ(細い赤線で囲った道路)が存在している。

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何も知らなくても、いかにも電車を通しやすそうに見える、緩やかなカーブ…

しかもそれらは全て、かつての電車計画が向かう予定だった方向に向かってカーブしている……

 

道路に電車計画を引いたのだから、路線計画の形と一致しているのは当たり前ではないか、とも思えるかもしれないし、実際該当道路は全て、県道52号別府庄内線、通称「地獄循環道路」に当たっている。

 

しかし、路線計画の図面と照らし合わせて、上記のようなこのカーブの具合を考えてみると、どうも、単なる偶然とも、道路が先→電車計画が後、とも思えない。

 

そのようなわけで、実際に、この道路形状と電車計画の関連性を少し調べてみた。

 

文書内を調べてみると、やはり該当する記述があった。

それによると、昭和7~8(1932~33)年頃、計画線沿線で当時計画されていた、都市計画と路線計画との兼ね合いについて、最初の頃は、併用軌道を通す都市計画道路の整備と、電車路線の整備は同時に行う方が良いとの記述があり、後に諸事情により、これを同時に着工・整備するのではなく、道路を先に整備した上で、後から電車の整備を行う方が良いだろう、との方針に変わっている。

また、この記述がある一連の部分の中ほどに、以下のような「(路線計画の)都市計画街●との異条図面」と銘打たれた図面も封入されている。

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すなわち、昭和8(1933)年の時点では、【ア】~【エ】のカーブを含む道路というのはまだ出来上がっておらず、なおかつ道路と電車を当初は同時に整備するつもりで、後に両者の着手のタイミングをずらす形をとる、という経緯を辿ったようだ。

ここから、この電車計画が、既にあった道路に後から引いたわけではなく、当時の道路計画と一体で進められようとした事が分かる。

 

また、別府遊覧電気軌道の特許失効後の昭和14(1939)年の航空写真を見てみると、この頃には既に道路は完成している様子が伺える。

 

簡単に調べただけなので推測の域を完全に出ることは出来ないが、ここから、【ア】~【エ】のカーブを含む道路は、電車計画と一体で整備を進めるという方針から、電車を通すことを考慮して道路引きが行われ、後に電車整備が後発になったり特許が失効した後も、都市計画の大きな変更を行うことなく、そのまま道路だけが整備されたのではないか、と考えることが出来る。

ゆえに、この4つのカーブは、電車を通すことを見越して企てられ、特許失効後もそのまま造られた、別府遊覧電気軌道の数少ない「未成線の痕跡」である、という可能性も十分あるということだ。

 

併用軌道の構造①

数点添付されていた併用軌道の構造図のうち、架線設備付きの構造図は以下のような感じ。

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流川通八丁目~研究所前間は、現在も当時とほぼ同じ2車線道路のため、当時このような併用軌道が造られる予定だったと、面影を感じることが出来る。

 

研究所前[停]

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流川通八丁目から来て最初の行き違い設備付き停留場。

当時からこの近くには既に、現在で言う京都大学 地球熱学研究施設が存在していた。

 

ちなみに余談にはなるが、この京大の研究施設の敷地はかつて、別の電車計画の本社を建てるために造成された用地であった。計画が頓挫し会社が解散したのは大正5(1916)年頃、本社社屋が実際に造られることはなく用地は京大の研究施設用に譲渡され、大正12(1923)年、現在の研究施設建物が完成している。

別府遊覧電気軌道の敷設特許の取得(元となる計画に対して)は大正15(1926)年、失効は昭和9(1934)年と年代が違うので、別府遊覧電気軌道とは別の路線計画だが、それでも当路線の予定ルートの隣には、別の未成線の痕跡も残されているということになる。

(この情報の出典となる書籍の書名・著者が不詳なのだが(該当ページのコピーの際、書名のメモを忘れてしまった)、確か別府の郷土史だったように思う。134~136ページにかけて「山の手廻りの電車会社」「実現しなかった高原電車」という見出しで詳細が記述されている)

 

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鶴見園前[停]

この停留場の図面だけは、何故か独立した立派なものである。

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カーブの途中に停留場が設けられている。研究所前から一つ隣だが、ここにも行き違い設備を設けることになっていた。

 

現在の同地点の様子。鉄輪方面を望む。道路の形状は変わっていないが、道幅は大幅に広くなっており、きっと昔とは様変わりしていることだろう。

 

観海寺口[停]

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ここは単線式の簡素な停留場。

現在、最寄りには杉乃井ホテルが存在している。

 

鶴見地獄下[停]

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ここは行き違い式の停留場。

道路から外れた専用軌道内に設けられる予定だった。

 

専用軌道の構造①

鶴見地獄下[停]の前後、計約280mの軌道敷は、専用軌道が予定されていた。

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上は専用軌道の図面の一つ。この辺りが全くこの通りに造られる予定だったかは定かではないが、計画における専用軌道の姿はイメージしやすい。

 

【オ】下は西側(鉄輪方)の専用軌道出入口が予定されていた場所。

右奥から進んできた線路は、中央の空き地付近で90度カーブを描き、道路上に合流して、左奥の鉄輪方面を目指す予定だった。

 

阿賀変電所

また、この辺りには変電所も予定されており、下の送電系統図にはその大よその位置も書かれている。

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図面によると、住所は「南立石下板地」。

しかし、現在は全く同じ地名は残っていないようで、変電所の具体的な位置は特定出来なかった。近くには類似の地名「板地町」が残っているが、上の図の位置とは反対側に当たり、位置的にも地名的にもやや一致しない。

 

この変電所に関しては他にも、配線図や機器・器具配置図などの図面も残されている。「阿賀変電所」の名は、そこに書かれていたものである。

 

【カ】境川併用橋

境川を渡る部分では、道路鉄道併用橋が予定されていた。

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やや不鮮明ではあるが、上の図はその全体図。橋の下に橋脚2本を配置し、このような橋を架ける予定だった。

 

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上の図は更に詳細な設計図。橋の欄干の形や路面の構造、橋桁の断面が描かれており、詳細な橋の姿が分かりやすい。

これによると、橋脚の上に5本のガーターを乗せ、その上に板を敷き、中央のガーターに線路を乗せるという、当時らしいシンプルな構造とするつもりだったようだ。

 

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橋の路面がどのようになるか、前の図面では少し分かりにくいと思われたので、独自に路面部分の図面を合成し、もう少し見やすくした。

このような感じで、中央に線路を持ってくる予定であった。

(合成図面に多少の歪みがあるのはご容赦頂きたい)

 

現在の同じ場所に架かる橋の様子。鉄輪方を望む。当然だが、全く違うコンクリート橋が架かっている。現橋の下の橋脚は1本である。

 

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扇山[停]

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鶴見地獄下[停]から一つ隣ではあるが、停留場間の距離が比較的離れているためか、ここにも行き違い設備が設けられることになっている。

 

併用軌道の構造②

この辺りの現在の道路も、電車計画で描かれた状態に近い2車線道路なので、もう一つの併用軌道図面に触れておく。

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ここでは、車両の概略図付きで、軌道の断面構造のみならず、軌道からの排水設備の構造についても描かれている。

 

実相寺山[停]

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ここにも行き違い設備が描かれている。図面を見る限り、現在の原(はる)交差点の南側に設置される予定だったとみられる。

昭和14(1939)年の航空写真を見る限りでは、この周辺の人家の量は現在よりもはるかに少なかったようだ。

 

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【キ】専用軌道出入口(南側)

ここから専用軌道にそれる。手前の辺りでやや右にカーブして、中央奥の黄色い建物に向かって直進する予定だった。

 

新別府[停]

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専用軌道内の停留場。鶴見地獄下[停]から4つ連続で、行き違い設備付きの停留場が続いている。

現在のこの付近には類似名のバス停があるが、この場所からは外れている。

 

現在の様子。右が鉄輪方面。中央の建物、あるいはその背後の辺りが、かつての停留場予定地。右か左どちらかの道を付け替えるか何かしない限り、行き違い設備を設けるには随分手狭な感じがする。

 

【ク】春木川橋梁

この路線最大のハイライトともいえる箇所。単線分の専用の鉄橋を設ける予定であった。

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上は電線路構造図の抜粋。架線柱や橋脚などが描かれているため、この図が一番橋梁のイメージが分かりやすい。

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鉄橋の全体像はこのような感じ。「亀川方」と書かれている方が鉄輪方面。全長はおよそ50m、中央(川中)に4本の橋脚が建てられることになっている。

上の図面以外にも、橋脚・橋台などの個別の設計図も、文書内には残されている。

 

現在の様子。左側が鉄輪方。右の白い家の背後辺りから、左の体育館の後ろ寄り辺りまでが、橋梁が架かる予定だった場所。

綿密な設計図が豊富に残されていながら、現在は何も無いものの、実現していれば、別府湾を背後に壮観な鉄橋を電車が渡る姿は絵になったことだろう。

 

専用軌道の構造②

先にも触れてきたが、【キ】~役場前[停]の間は、専用軌道の敷設が予定されていた。

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上はもう一つの専用軌道の図面。軌道設備が架線柱付きで描かれているため、これもイメージが分かりやすい。

実際、現地付近を通りがかったことがあるのだが、特に春木川橋梁~役場前[停]間の当地の感じからすれば、実際にこの通りの専用軌道が造られる予定だったのだろう、と実感しやすい。

 

役場前[停]

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久方ぶりに登場した、単線式の停留場。

現在もこの近くには、市役所の朝日出張所がある。

 

現在の停留場予定地の状況。流川通八丁目方面を望む。道路は奥で右にカーブしているが、線路はこのまま直進し、奥の建物の辺りで専用軌道に入る予定だった。

 

鉄輪[停]

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この路線の(事実上の)終点。ここでひとまず行止りとなるはずだが、何故か上の図面右には「鉄輪方」と書かれている。

終着点らしく、2線式の停留場。ここから更に亀川方面へ延びる路線計画は、工施見送りが申請されている区間

 

現在の停留場予定地。亀の井バスの鉄輪バスターミナルからはやや離れた所に位置しており、みゆき坂・いでゆ坂との交差点の南側が乗り場の場所に当たる。

図面によれば、線路はここから更に少し先まで延び、鉄輪バスターミナルの辺りを線路の終端部とするつもりだったようだ。

 

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別府駅周辺の市中心部や、鉄輪地区といえば、現在でも別府では特に栄えている温泉地区。その2ヶ所および別府市西部(山の手)を通る鉄道は一度も通らないまま終わったが、実現していれば、生活の便に供していただけでなく、高台・山の手からの別府湾の眺望の良さでも、きっと好評を博していただろう。

たとえ、仮に実現して後世の道路事情で廃止されてたとしても、絶景車窓含め、一度は別府の名物となっていたはずだ。

 

今回の路線計画のリポートにあたっては、実際、過去に現地を歩いたことはあるにはあるのだが、あいにく当時は写真を撮らなかったため、今回はストリートビューでの代用となった。また別府を訪れる機会があれば、現地踏査を行った上で加筆したい。

 

★ 参考文献 ★

鉄道省文書『別府遊覧電気軌道(一)・自昭和二年至昭和十年』(1927~35年、国立公文書館蔵)https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000556479&ID=&TYPE=&NO=

※記事中の当時の資料は全てこの文書より引用。また記事中の現代の地図も、全て文書内の図面を基に作成。

●田尻弘行『大分交通別大線』(ネコ・パブリッシング、2006年)

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(JTBパブリッシング、2001年)

 

その他ウェブサイト、書籍若干

 

※記事中の地図はOpenStreetMapのものを使用。

【未成線】京神急行電気鉄道を歩く(京都・神戸)

~ 大阪を経由せず、京都-神戸を直結しようとした ~

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関西圏といえば、主に京都・大阪・神戸の「京阪神」3都市で構成されている。

それらを結び合わせるのに、京都~大阪なら京阪本線JR京都線阪急京都線、大阪~神戸なら阪急神戸線阪神本線JR神戸線、といった都市間鉄道が直通している。

 

ならば京都~神戸間はどうか。大阪を経由せず両都市を直結する鉄道は、一路線も存在しない。

確かに両都市の直通需要は上記2ルートの乗継あるいは直通で満たされているため、ダイレクトに結ぶ路線は実際、現時点では不要である。それでも、トライアングルの発想でいくと、「もしも京都~神戸を(大阪を経由せず)直結する鉄道が~」と考えたくなったとしても、不思議ではないだろう。

 

そのような発想に基づいた鉄道計画も、かつては実在したのである。その一つが今回紹介する「京神急行電気鉄道」である。

 

★ 概要 ★

京神急行電気鉄道――「京神」は「けいしん」と読む。

計画は昭和3~6(1928~31)年頃に存在していた。

 

実のところ、京都~神戸間を直結しようという鉄道計画は、他にも幾つか存在していたのだが、この路線の場合は、京都から丹波地域を経由して神戸を目指すこととしていた。

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駅数は起終点含めて17駅

四条大宮から保津川沿いの山中を回り込み、亀岡を通り、現在の摂丹街道に沿って川西、伊丹と出て、神戸の山地に沿いながら、現在の王子動物園付近に至るルートが予定されていた。

 

ここで特筆すべきことは、駅位置や駅名までもがちゃんと想定されていた点である。

免許申請時の鉄道省文書に折り込まれた図面に、それらがしっかり書き込まれており、当時の具体的な計画像が非常に分かりやすい。

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そしてもう一つ特徴として読み取れる事は、カーブや山中を通る区間が随分と多いことである。

「急行」の名を冠した都市間鉄道だけあり、確かに駅数は少なめに設定されているものの、このような路線条件の下で高速運転を目指していたのかどうかについては、少々疑問が残る。

地方鉄道法に準拠するといった趣旨が鉄道省文書にも記載されており、路面電車のような路線ではないことは間違いないが、同じくカーブの多い、現在の京阪電車のような路線形態を目指していたのだろうか。

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その他の路線データは以下の通りである。

 

  • 距離:約71.3㎞(44マイル24チェーン)
  • 線数:複線(全線と思われる)
  • 軌間1435㎜(文書には“4尺8寸2分の1”と記されていたが、数値的に“4フィート8と2分の1インチ”のことであろう)
  • 電化方式:直流1200V(架空単線式)
  • 備考:貨物輸送も想定

 

なお、路線名を「京神急行電鉄」と略してしまうと、同時期に存在した全く別の鉄道計画を指すことになってしまうので、厳密には略すことは出来ない。

 

★ 歴史 ★

  • 昭和3(1928)年:敷設免許を申請。

当時の発起人の人数は総代含めて11人、資本金は当時の額で2000万円とされていた。

 

この発起人たちの住所を見てみると、東京市(当時)の人たちが多数を占め、その他に大阪市名古屋市山口県と続いている。

関西の人は数人ほど混じっているものの、それ以外は関西圏外の人たちで構成されていることが分かる。

 

また、申請書類には予想旅客輸送量は296万5561人と記されている。但し、1日当たりについてなのかどうかが特に明記されておらず、厳密に解釈する上ではやや曖昧さが残る。

 

このようにして路線計画が出願されたわけだが、国により審査されていく過程で、計画は幾つかの壁にぶつかることになる。

 

  • 並行路線の問題

この計画は、営業線だけでなく他の計画線も含めると、幾つもの路線とルートが被ることになっていた。これについては後ほど詳しく述べる。

 

路線計画の手続きが行われていく中で、上記2知事から国に向けて次のような意見が出されている。

 

京都府知事からは、計画線が風致地区や急峻な山地を経過する箇所があるため、敷設は困難を極めるだろうとしており、加えて、経過地及び終点の地名に相違がみられたり、電力受給者名の記入漏れがあったりするなど、書類に不備があるとも指摘している。

 

・一方兵庫県知事からは、最初の方では計画線に対し一定の理解を示す趣旨の事を述べながらも、終着駅は他の交通機関との連絡に問題があるため変更の必要があるとしており、なおかつ、路線が経由する神戸市東部の住宅地は発展の著しい地区であり、都市計画道路との関係もあるため、線路の移設/高架化/地下化のいずれかを行う必要があるとしている。

 

計画者側にとってはウィークポイントを突かれたり、追加の手間や負担を求められたりした格好となる。

 

  • 鉄道大臣の交代

出願から免許の是非が決まるまでの手続き中に、計画を審査する国側での動きの変化も、この路線計画の風向きを大きく変えることになる。

 

先述の通り、この路線の出願は昭和3(1928)年。この当時、鉄道計画の免許認可を行っていた鉄道省の大臣は小川平吉(昭和2(1927)年就任)であった。

この大臣は、当時5年ぶりであった政友会政権(田中義一内閣)の下で、各地の鉄道計画に対し、免許認可の大サービスを行っている。民鉄資本を懐柔し、政友会内閣のためにも尽くそう、ということだったらしく、既存路線と競合しようがしなかろうが、次々と免許を交付し、その総路線距離は多い時で1683㎞(昭和2(1927)年)。この姿勢は大臣辞任の直前まで続いた。

しかし、満州(当時)での張作霖爆殺事件の件で、田中内閣が昭和天皇の不興を買い退陣したことにより、昭和4(1929)年、大臣の職を辞している。

 

そしてこの後を継いだのが、民政党政権の江木翼浜口雄幸内閣、同年就任)であった。

政権党が交代したこともあり、この大臣の下では鉄道免許の認可が大幅に抑制される。財政緊縮政策の一環でもあったようで、その認可総距離は多い時でも21.6㎞(昭和5(1930)年)。前大臣の時と比べればかなりの落差である。

 

この路線の免許について是非が決まったのは、昭和6(1931)年のこと。まさしく出願後の手続き中に起こった交代劇であり、計画者にとってはここで雲行きがかなり怪しくなってしまう。

 

このようにして様々な問題や壁に当たり、この計画にとっては形勢が不利になってしまうわけだが、状況は特に変化することはなく、ついに以下のような結末を迎える。

 

  • 昭和6(1931)年:敷設免許申請が却下される

国側から示された理由としては、山陰線の一部、京畿鉄道(未成)、能勢電伊丹延伸線(未成)、阪急神戸線、京神高速電鉄(未成)と並行しており、当時の交通状態ではさらに路線を敷設する必要性は低いため、というものだった。

 

当時の関係者たちは、どれほど無念な思いをしたのだろうか。

こうして、京都~神戸間を直結するという都市間鉄道の夢の一つはここで止まり、計画は幻と消えたのである。

 

ちなみに、上記で並行線になると示された当時の鉄道計画のうち、現代において実現しているものは、既知の通り一路線も無い。

実現しなかったがゆえに、現在まで終始鉄道空白域だったり、鉄道が一路線しか存在しなかったりする地域もある。現代における結果および基準で考えれば、上に示された並行線を問題にせず実現させても良かったのでは、とも思えてきてしまうのは、何とも皮肉なものである。

(※なお、能勢電伊丹延伸線については、阪急陣営が自社のテリトリーへの他社の進出を防ぐために、能勢電と協働して用意しておいた、とも言われている。未成線や鉄道計画の事情というのは複雑である。)

 

未成線を歩く ★

現地踏査時期:2017年9月

写真中の赤い破線は未成線のおおよその位置を示している。

 

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【ア】起点が予定されていた四条大宮。右側のビルの場所が駅位置として想定され、四条通沿いに(奥に向かって)しばらく西行するとされた。

 

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【イ】西大路三条付近で一瞬、嵐電と並行する。この辺りは京都市街地を北西に向かい斜めに進むことになっていた。

 

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【ウ】太秦駅予定地。JR花園駅からやや西に行った所に想定されていた。

 

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【エ】JR嵯峨嵐山駅のすぐ横に上嵯峨駅を想定。

 

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【オ】鳥居本の街並みの横をかすめ、奥の山でトンネルに突入することになっていた。この近くにはかつて愛宕山鉄道も走っており、その路線とも並行する予定だったことになる。

 

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【カ】水ノ尾駅予定地は何もない山中であり、ケータイですら圏外になってしまうが、ここから水尾集落までは3㎞弱ほどである。

 

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【キ】当地点より北東方向、計画線が山から出てくる予定だった山間部を望む。こうして見ると、この路線の急峻さがよく分かる。

 

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【ク】亀岡駅予定地もJR駅よりやや離れた場所に想定されていた。

 

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【ケ】穴太寺駅が予定されていたのは田園地帯のど真ん中。人家までは少し離れており、現在でもこの周囲は田んぼと未舗装の農道しかない。

 

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【コ】奥の山に向かって、ひたすら田園地帯を直進する。この辺りには京都学園大学もあるが、実現していれば更に便利になっていたのだろうか。

 

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【コ】同地点より遠望。赤線が曲がる辺りから山間部を縫い始め、山の向こうの集落、西別院地区を目指す。

 

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※【サ】~【ス】は交通アクセス等の事情により、現地踏査を省略し、ストリートビューの埋め込みで代用した。

 

【サ】西別院駅が想定されていた辺り。実際の集落からは少々外れた場所に当たる。

 

【シ】野間口駅予定地付近。この辺りは妙見山の裏側に当たり、東側の玄関口となっている。

 

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【ス】止々呂美駅が予定されていた付近。この辺りもかつてはのどかな山間部であっただろうが、グリーンロードトンネルや箕面森町が近くに出来、都市化が波及している。

 

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【セ】細河駅予定地。「細河」という地名自体も、今は近くの郵便局等に僅かに名を残すのみとなったようだ。

 

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【ソ】現在の絹延橋駅付近で一瞬、能勢電鉄と並走する。

 

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【タ】川西駅予定地。駅が出来ていればこの辺りにも駅前商店が軒を連ねていたのだろうか。

 

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【チ】この辺りは府道13号線とおおよそ重なっており、かつての能勢電伊丹延伸線計画とも並行している。

 

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【ツ】小河川と並行した建物の辺りが、かつて伊丹駅が想定されていた場所。

 

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【テ】ここで武庫川を渡る。ここから西へ少し行った所に、甲東駅が予定されていた。

 

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【ト】この辺りは地形の関係か、奇遇にも計画線ルートと町割りの形状が一致している。

 

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【ナ】ここから甲山の裏側を回り込むように、再び山間へと突入していく。

 

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【ニ】左の森の辺りが、明礬温泉駅予定地。かつて苦楽園を賑わせたラジウム温泉も、今は過去のものに。かつてはその「温泉リゾート」を目指して幾つもの鉄道計画が立てられたので、この路線もそのアクセスを目指していたのかもしれない。

そしてここは驚くほど標高が高く、眺望が望める。実現していれば絶景車窓が眺められたに違いない。

 

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【ヌ】対岸の山の斜面に、山芦屋駅を予定。標高といい路線条件といい線形といい、完全に山岳鉄道の様相である。

 

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【ネ】中央右寄りの白いマンションの辺りを、高い橋梁で渡る予定だったのだろうか。ここから西(写真左)へしばらく行った所に、上住吉駅を予定。

 

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【ノ】終点の神戸に向けて、高台を駆け下りていく。ここは六甲ケーブルにも少し近い。

 

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【ハ】終点・神戸駅予定地は、王子動物園の北、王子スポーツセンターの場所。神戸側のターミナルとはいえ、繁華な場所より少し離れており、最寄りのJR灘駅や阪急王子公園駅よりも高台に位置している。

 

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結局は一路線も実現することはなかった、京都~神戸間の直結鉄道。

それでも、並行するとされた他の計画線も未成となった以上、この路線が出来ていれば、その存在意義を十分に発揮できたのでは、と思えるような地域も多く存在する。

とりわけ、現状として山陰線一本しか鉄道が存在しない亀岡なら、山陰線が止まった場合のバックアップとして十分機能するし、亀岡から川西にかけての鉄道空白域は解消され、亀岡や南丹地域から大阪方面へのアクセスも山陰線以外に確保される。

今この現代においてこの計画線をまた復活させるのは流石に無茶ではあるが、それでも、計画された当時に実現していれば、ひょっとしたら「京神特急」という言葉もまた、関西の日常の一部として定着していたかもしれない。そんな特急電車に乗ってみたかったような気もする。

 

★ 参考文献 ★

 

その他幾つかの文献・ウェブサイト等

 

※記事中の地図はOpenStreetMapのものを使用。