幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【未成線】二条~和邇の国鉄予定線の一部を歩く(京都)

京都市内は北野天満宮金閣寺付近を通る予定だった ~

 

かつて山陰線・二条駅から、湖西線和邇駅付近まで計画されていた、国鉄予定線。

この路線計画自体は、現在では鉄道ファンの間では知る人ぞ知る存在となっているが、当時の具体的なルートを示す資料は一般には殆ど出回っていないため、大まかな経由地以外は長年、謎に等しい状態となっている。

そのため具体的なルートは、未成線が実現した場合の予想地図を作っている鉄道ファン達にとっても、彼らの自由な発想力に一任されている。

 

しかし、自身が他の未成線の資料を当たっていたところ、偶然、その路線の具体的なルートの一部を示す図が見つかった。

今回は、そんな予定線の新たな一面を紹介する。

  

★ 概要と歴史 ★

そもそもこの鉄道計画は、(一部では周知の通り)かつて存在していた「鉄道敷設法」において規定されていたものである。

 

その中の別表に記載されている、七十七項(前略)高城ヨリ分岐シテ京都府二条ニ至ル鉄道」がそれである。

 

この予定線自体は、正式には1922年(大正11年)の(新)鉄道敷設法制定と共に登場し、1986年(昭和61年)の同法廃止と共に消滅した事になっているが、調査線または工事線への昇格などといった目立った動きは特に無かったと思われ、正式に消滅するよりかなり前から、計画に対してはあまり本気ではなかったと推測される。

 

『鉄道未成線を歩く 国鉄編』(森口誠之、2002年)の巻末リストによると、滋賀県側の分岐点に当たる「高城」は、現在のJR湖西線和邇駅付近であり、なおかつ大まかな経由地は「途中」「大原」(比良山地の裏側)とも記されている。

 

これらの位置関係を概略図に示すと以下のようになる。

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(「今回のトピックの範囲」については、後ほど触れる本題である。)

 

ただ、現在出回っている資料や情報から把握できるのはせいぜいここまでで、では具体的かつ正確なルートは何処と定められていたか?となれば、多くは半ば謎に包まれている。

和邇(高城)から途中地区や大原地区となれば、ある程度範囲が限られているため、大まかでも何処を通りそうかというのは大体絞れる。

だが、大原以南~二条の京都市内となれば、様々なルートパターンが考えられてしまうため、皆目見当も付かなくなる。

そのため、京都市内は正確にはどの場所を経由するか、については、もはや自由な発想に基づく想像に任せるしかなかったのである。

 

― 新たな資料の発見とルート ―

しかし、その不明確な部分は、意外な場所に掲載されていた。

 

ある時、「高雄鉄道(元高雄電気鉄道)」と呼ばれる他の未成線について調べるため、その資料である鉄道省文書「工事竣功期限延期願却下並免許取消ノ件」(1935(昭和10)年)という行政文書に当たっていた。

 

その巻末に付属していた図面(未成線のルートマップ)を見てみると・・・

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上の「 同(注:国有鉄道)敷設法予定線」という凡例と共に、右下の二条駅から、蛇行しながら北東方向へと別れていく、色付き(モノクロだが)の路線が描かれているではないか。

 

偶然にも、二条~和邇国鉄予定線の、京都市内の具体的なルートの一部を見つけたのである。

 

(※上記資料については、本稿文末の参考文献の項にリンクを貼っておく。)

 

その見つかった図に描かれたルートを、現代の地図に落とし込んだのが、以下の図である。

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図によれば、予定線は二条駅北部の山陰線カーブで分岐したのち、北西方向へと進路を変え、丸太町通を横切る。

次に進路を北方向へ戻し、白梅町の東側をかすめる。

その後北野天満宮のすぐ西側をかすめ、やや北東寄りで北上。

そして千本北大路交差点の北西角を通過しながら進路を北東へ切り、大徳寺の左上を通過し、また緩やかに北方向へカーブするように堀川北山交差点の西側を通る・・・といったルートを描いている。

 

ここから読み取れることは、この付近の予定線は、千本通周辺の市街地を避けるルートをとっているということである。

 

戦前、いくら強制的な権限を持っていた国といえども、市街地を無造作に横断するような乱暴な真似はせず、昔からの市街地を回避するよう配慮された、とも推測することが出来る。

 

果たしてこのルートがどこまで正確な情報かは厳密には何とも言えないが、国との行政手続きの書類において書き込まれていたものであり、地形や当時の町割りを利用してルートが引かれていることから、ここでは十分信憑性のあるものと見なすこととした。

 

それでは、この予定線が実際にどのような場所を通る予定だったのか、現地の写真と共に見ていこう。

 

未成線を歩く ★

現地踏査時期:2017年8月

写真中の赤い破線矢印は、予定線が通るおおよその位置と方向を示している。

 

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【ア】山陰線との分岐地点。予定線は北側へ分岐し、山陰線より緩やかなカーブで北西方向へ進む予定だった。

 

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【イ】丸太町通との交差地点。通りを斜めに横断する予定だった。昭和初期当時には既にここを市電が走っていたため、実現していれば立体交差になっていたのだろうか。

 

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【ウ】碁盤の目の市街地をしばらく斜めに突っ切ったのち、北方向へと進路を変える。

 

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【エ】北野天満宮付近。昭和初期はまだ今出川通は白梅町まで延びておらず、当時門前町まで達していた嵐電がここを横切っていた。実現していれば、もしかしたらこの辺りに「北野天満宮駅」が出来、嵐電との乗換駅にもなっていたかもしれない。

 

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【オ】北野天満宮の西側、天神川沿いに北上する。工事は恐らく行われていないが、両岸とも鉄道を通すには丁度良さそうなスペースがある。

 

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【カ】北野天満宮北西角付近。この通りや住宅群に沿って北上する予定だったと思われる。

 

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【キ】道路はここで二手に分かれるが、予定線は中央の建物に向かって直進する予定だったと考えられる。

 

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【ク】ここで天神川を跨ぐことになる。写真には無いが、この辺りは天神川の深い峡谷となっており、両岸に崖と言えるほどの激しい高低差があるので、予定線は河岸崖の上を走り、ここには高い鉄橋を架けるつもりだったのだろうか。

 

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【ケ】千本北大路交差点。中央の白い建物の裏側を通るルートを採っていた。この辺りにはかつて古くから市電が通っており、金閣寺にもほど近いので、ここにも駅が出来ていたかもしれない。

 

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【コ】経路図上ではこの辺りを北東に向かい進んでいるのだが、そのまま行くと大徳寺の境内に突っ込んでしまう・・・。いくら戦前とはいえ、寺社の境内まで無造作に突き進んでいく事など有り得るのだろうか。

 

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【サ】もしかしたら大徳寺を避けるように、境内のすぐ北側を、奥に続く通りを緩やかに斜め横断するようなルートを、実際は採る予定だったのかもしれない。

 

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【シ】ここは昔からの道が南北に横切っており、丁度“逆くの字”で折れ曲がる地点で予定線が交差しているので、この辺りは昔からの町割に従いルートが引かれている事が分かる。

 

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【ス】堀川北山交差点より西に入った所。北山通が出来たのはここ数十年のことだが、予定線はここでも通りを斜めに横切る。今回ルートが判明した区間はここで終わりとなる。

 

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1974(昭和49)年に湖西線が開通し、関西圏と湖西路、敦賀方面が結ばれた。一方、同じ七十七項線であった若江線(近江今津~上中)は、後世まで長らくその計画が生き続けたものの、開業には至っていない。

そのため、大阪や京都から湖西・敦賀・北陸・若狭方面への連絡において、この予定線の存在意義は、既に数十年前から大きく薄れてしまっていたと見てよい。逆に言えば、京都市内北西部や洛北、大原、途中地区などの局所連絡の役割を持つ、ローカル色の強い路線だったとも言えそうだ。

 

それでも「もし実現していれば…」と少し惜しまれるのは、北野天満宮および白梅町や金閣寺まで、当線を利用して「JRで直接乗り付ける」ことが出来たかもしれないこと、市電の廃止で鉄道空白地帯となった京都市内北西部が完全に空白化せずに済んだかもしれないこと、そして、大原地区まで鉄道で簡単アクセス出来たかもしれないこと、などが挙げられる。「歴史にもしもは無い」とはよく言われるが、あながち無視は出来ないこのようなメリットを考えると、やはり夢想したくなってしまう。

 

何はともあれ、他の未成線のリサーチにより、今回偶然にも一部の明瞭なルートが分かったわけだが、それが一部に留まった、というのもまた少し惜しい点である。一体このルートの元の情報源はどこなのか、突き止めるのは非常に難しいと思われる。昔の資料にちゃんと載っていたくらいなのだから、何とかして何処かから他の部分の情報も引っ張り出すことは出来ないものか・・・と悩ましいところだが、現段階では雲を掴むような話であり、歯がゆいものである。

 

★ 参考文献 ★

鉄道省文書「高雄鉄道 工事竣功期限延期願却下並免許取消ノ件」(1935年)http://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000000390201

●『鉄道未成線を歩く 国鉄編』(森口誠之、2002年)

 

※記事中の地図はOpenStreetMapのものを使用。

【未成線】東西線「駅カラー」未使用色が意味するもの(京都)

~ 垣間見える幻の未開業駅の光景 ~

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京都市内の東西と東部の郊外を結ぶ、市営地下鉄東西線

山科から六地蔵にかけての住宅地および、観光地・東山地区や市内中心部の御池通りをカバーする重要な交通機関として、日々、多くの人に利用されている。

 

この路線の計画段階での原型は、市内の御池通りを基軸に、東は山科・醍醐地区、西は洛西・長岡京方面を結ぶもので、当初から逆U字型のルートが想定されていた。

そのうち、公共交通が乏しく、渋滞が深刻化していた山科・醍醐地区を結ぶルートから早急に着手される事になった。醍醐~二条間の方が先に開業したのはこのためである。

 

その後、醍醐~六地蔵間が延伸開業し、二条~太秦天神川間も延伸され、「いずれは洛西方面へも必ず到達させる」とは言われていたが、かねてから知られている通り、文化財の発掘調査等で高騰した建設費が仇となって、深刻な赤字に陥り、地下鉄を運営する京都市交通局は、財政破綻の一歩手前である「経営健全化団体」として、その業績を改善しなければならなくなった。

そのため、洛西方面への延伸は、事実上目処が立たなくなってしまっているのが現状である。

 

今回のトピックは、そんな東西線の洛西延伸計画を、各駅で採用されている「駅カラー」の観点から見てみようというものだ。

 

延伸計画と「駅カラー」の相関 ★

そもそも東西線の洛西延伸計画とはどのようなものか? そして、東西線各駅で採用されている「駅カラー」とはどのようなものなのか? 少し詳しく見ながら、今回のトピックの核心に迫っていきたい。

 

近畿地方交通審議会 答申第8号(2004. 10. 8 国土交通省)によれば、延伸区間は(太秦)天神川から梅津、上桂付近を経由し洛西に至るもの(7.7km)とされている。その大まかなルートは下図の通りである。

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先にも述べたように、この計画ルートは東西線計画の原型となる段階から存在し、また上記答申でも「中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」として位置づけられている。

洛西ニュータウンの多くの住民が、この計画を当て込んで入居した、という話もよく知られている事である。)

 

なお、洛西からさらに先、長岡京方面への延伸計画については、上記答申では(太秦)天神川~洛西間とは実質的に切り離されており、事実上副次的な扱いに留まっている。

 

これらの事を踏まえた上で、東西線の「駅カラー」について見てみよう。

東西線は各駅に色が付けられているが、実はこれらは、ある一定のルールに基づいて割り当てられている。下の図を見て頂きたい。

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これら「駅カラー」は、駅ごとに異なっており、またその移り変わりは、ほぼグラデーションするように変化していくのである。

 

ここで、このカラーリングをよく見てみると…… 勘の良い人なら「ある事」に気が付くかもしれない。

 

・・・そう、東西線の「駅カラー」には、未だ「緑系の色」が使われていないのである。

 

では、なぜ緑系の色の駅が無いのか?

紛れもなく、最初に説明した事実と照らし合わせると、東西線未開業区間の駅で登場するものだから、と考えることが出来るだろう。

 

さらに、烏丸御池から太秦天神川までの「駅カラー」の推移に着目してみると、赤色→朱色→オレンジ→黄色→レモン色…と推移している。

 

そして、一般的な色法則(赤→橙→黄→黄緑→緑…、虹色の移り変わりと同じ)から考えてみると・・・

 

太秦天神川の次以降に来るであろう色は、「黄緑→緑…」ではないか?と、容易に予想することが出来る。

 

ゆえに、これらの事から、太秦天神川(駅番号T17、レモン色)の次に来るはずの未開業駅(T18、T19)の「駅カラー」は「黄緑、緑」であろうと見なし、未だ見ぬ未開業駅の「幻の光景」を容易に再現することが可能になる。

 

★ 幻の未開業駅を再現する ★

先にも書いたような経緯から、太秦天神川(T17、レモン色)の先に出来るであろう駅2つ分を、それぞれ「T18、黄緑色」および「T19、緑色」とし、実際に「幻の光景」を再現してみた。

 

なお、再現する駅をこの2つにしたのは、これらの駅カラーが最も容易に予測・再現しやすかったからである(後ほどまた詳細を述べる)。

 

まずは、未開業駅「T18から。

 

以下は(言うまでもないが)プラットフォームの光景である。

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黄緑色のホームドアに、黄緑色の柱……

一見どこかの駅にありそうな光景で、知らない人が見ればごく自然な駅風景であるが、このような駅はどこにも存在しない・・・

まさしく、本来存在すべきでありながら全くその姿が存在しない「幻の駅」の光景を見ていることになる。

 

そして以下は、線路内に取り付けられている、駅名標部分。

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先述の通り、洛西延伸線は梅津付近を経由するとあり、また梅津地区中心部は、太秦天神川駅から1駅分の距離であるということから、太秦天神川の次駅はこの辺りに出来るであろうと仮定し、駅名には「梅津」を当てはめておいた。

 

次に、未開業駅「T19

 

同様に、プラットフォームの光景を最初に示しておく。

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普通ならば姿や形が明確には分からないはずの、いわば「未成駅」とも呼べるものの光景を、これほどまでに鮮明に再現して見ることが出来るというのは、鉄道ファンにとっては興奮モノであろうが、何も知らない普通の人にこの写真を見せて「東西線にはこんな駅があるんですよ~」的なことを言っても、簡単に信じられてしまいそうな気がする(特に京都以外の人)。

 

そしてここも同様に、駅名標部分を。

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梅津から次の経由地である上桂付近までは、1駅分にしてはかなり距離がある。そのため、間に1駅分入れられるだけの距離である。

梅津と上桂の丁度間辺り…とくれば、上野橋南詰(上野橋バス停付近)が妥当な位置となる。

よって、この辺りに駅が出来るであろうと仮定し、駅名には「上野橋」を当てはめた。

なお、T19の次の駅(T20)は、上記の通りこの駅から丁度1駅分の距離の所が、上桂地区に該当するため、「上桂」としておいた。

 

ちなみに、未開業駅の再現をこの2駅だけにしておいた理由を換言するならば、東西線の「駅カラー」の遷移パターンは、必ずしも一般的な色法則には基づいていないため、T19→T20…の先の「黄緑→緑…」の次以降にどのような色が来るか、確たる予測をすることが必ずしも出来ないからである。

つまり、「黄緑→緑」の次は、例えば「深緑」が来るとも考えられるし、あるいは「緑と青の中間色」が来るとも考えられるし…などと、複数パターンが考えられるからである。

ゆえに、出来る限り個人的願望の混じった「予測」が独り歩きしてしまわないよう、予測・再現の範囲を2駅に留めておいた次第である。

 

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東西線の洛西延伸は、二条~太秦天神川の延伸開業の頃前後から既に怪しかったように思うが、京都市長が現在の市長になる前の市長の時、いつの日にかは必ず、地下鉄を洛西まで到達させる、と本人は強調していたように記憶している。

しかし、市長が変わり、京都市交通局は財政危機に陥り、経営健全化団体となり…といった流れを辿り、現在までに延伸計画がどのような状況になっているかは、既知の通りだろう。

 

仮に、将来洛西延伸が再び動き出したとしたら、工費節減のために地下線方式をやめ、太秦天神川~洛西間は高架線方式で造る・・・と、方針転換されるかもしれない。

しかし、現に計画は経営状況諸々で殆ど動いていない状況だし、そのような事は一切議論されていないはずなので、当然ながら実際にどうなるかは、まだ何とも言えない。

 

交通局が経営健全化団体を脱するにも一説には数十年かかるとも言われているし、現に洛西ニュータウンも人口流出が起きているとも言われる。実際、ニュータウン付近を走るバスを見てみると、普段は小型の車両に人はまばら。「こんな所に地下鉄造るとか京都市本気かよ!?」と、驚嘆の念を抱いてしまったものである。

 

これらのことから、東西線が洛西まで到達するという「夢」は、しばらく停滞のトンネルの出口は見えそうにない。下手すれば、ここで再現したような駅の光景は、本当の意味での「幻の光景」として永遠に見られなくなるかもしれない。東西線「駅カラー」で未だに使用されていない「緑系の色」は、単なる夢の跡を象徴するものとして「永久欠番」ならぬ「永久欠色」になってしまうかもしれない。

駅ナンバリングこそ、延伸計画の無い六地蔵をT01から始めて、太秦天神川をT17で終わらせていることから、延伸への姿勢はまだまだ失われていないようだが、果たして今後洛西進出がどうなるのか、大きな期待は出来ないまま、先は見通せないでいる。

 

(※未開業駅の再現コラージュ作成に当たっては、太秦天神川駅の光景を使用した)

 

★ 参考文献 ★

近畿地方交通審議会 答申第8号 付図2(2004. 10. 8 国土交通省) http://wwwtb.mlit.go.jp/kinki/shingi/toshin/huzu.pdf#page=2

Wikipedia京都市営地下鉄東西線』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%96%B6%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E7%B7%9A