幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【未成線】日本懸垂電気鉄道を歩く(大阪)

~ 日本初の営業用モノレールも大阪発…とはならず ~

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大阪といえば何かと「モノレールの町」である。

現代の視点から考えてみても、現在運行されている大阪モノレール大阪高速鉄道)は関西圏内で唯一のモノレール営業路線であるし(簡易式を除けば)、その総路線距離は日本一長く、かつては世界一でギネスブックにも認定されていたという並でない経歴を持っている。

過去に目を移してみても、昭和45(1970)年の大阪万博でも会場内でモノレールが運行されていたし、戦前の昭和3(1928)年の大阪交通電気博覧会で運行された「空中飛行電車」は日本の国土上を最初に走ったモノレールだとも言われている[*1]。

この他にも新線/未成線ファンにとってみれば、大阪モノレール門真市以南への延伸決定や彩都西以北の延伸中止など、近年においても何かと新しい動向に事欠かない。

このように、意識する人は少ないものの、大阪はモノレールとの縁が深く、その話題に溢れた町なのである。

 

そんな大阪とモノレールとのゆかりの深さは、当然戦前の営業路線計画においても例外ではない。

まだ日本でモノレールが実用化されていない戦前期、大阪ではモノレールを実用的な交通機関として走らせようと、幾つかの路線計画が立てられていた[*2]。

 

その内の一つが、大阪の市内交通として計画された「日本懸垂電気鉄道」。

本記事では、戦前の大阪へ導入が図られながら幻と化してしまったそのモノレール計画が、どのような姿で造られようと目論まれていたのか、自身が過去に訪問・乗車経験のあるドイツのヴッパータール空中鉄道を参考にしながら、その当時の計画像をイメージしていこう。

 

★ 概要と歴史 ★

届出上の正式名称は「日本懸垂電気鉄道」となっているが、平面図や縦断面図などの各種図面では「大阪懸垂電車」の呼称も用いられている。昭和4~6(1929~31)年の計画である。

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大阪の市内交通として計画されていたもので、ご覧のように北は梅田から南は住吉公園付近まで、大阪市内を南北に縦断する路線設定とされていた。

 

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↑当時の平面図。左側が北(梅田方)となっている。

鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.41・42 より引用・再編集)

 

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↑(鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.38・39 より引用・再編集)

上は当時の縦断面図。左が梅田方、右が住吉公園方となっている。

(この記事上では見えにくいかもしれないが)この図面の下半分を見てみると、西横堀川、難波入堀川、鼬川、十三間川…などの川の名前が書かれている。

また、今昔マップ on the webの当該年代の地図(1927~35年)で予定ルートを辿ってみると、ルート上の殆どで同じ場所に川が流れている。

すなわち、このモノレールはルートの殆どが 河川上に敷設される予定だった ということである。これは、ドイツのヴッパータール空中鉄道も同じように河川上に敷設されているため、それに倣ったものと考えられる。

但し、計画線の 梅田~中之島間 の場所には、当時の地図でも河川の存在が認められないため、この区間だけは 地平上に架設予定 だったようである。

 

-路線データ- [*3

●形態

 ◎単軌鉄道(モノレール)

 ◎懸垂式

●動力:電気

●距離:11.5 km

●線数:複線

●駅数:12(起終点含む)

 

当時の文書内の「懸垂電車ノ設計概要」によれば、当初の計画では「鉄柱上に架設した橋梁の上に軌間1067mmの線路を敷設し、そこから車両を懸垂させる」という独特の方式を採るとしていたが、後に提出された「地方鉄道敷設免許申請追申」や「決議書」では、これを「単軌」に変更している。

「懸垂電車ノ設計概要」にはこの他にも、車両部品の材質、鉄柱の部材や形状、電車下端と地上との距離……など、(変更前のものとはいえ)その仕様が比較的詳しく記されている。

 

-懸垂式のうち どの方式が考えられるか-

さて、このモノレール計画が懸垂式になる予定だったことは分かったが、懸垂式とひとえに言ってもその方式は多様であり、ならばどの方式を採用するつもりだったか?ということになる。

公式記録の一つである鉄道省文書にはそこまで詳しくは書かれていないのだが、幾つかの情報を基にすると、考えられる方式は「ランゲン式」ではないか?と推定 される。

(※「ランゲン式」がどのようなものかは、後ほど写真付きで解説している。)

 

その論拠としては、

①当時実用化されていた懸垂式モノレールの代表格は「ランゲン式」である

②この計画線は軌道方式を「単軌」に変更している(先述)

③同じ運営会社の別の計画線が「ランゲン式」と思しき方式を採用予定だった

 

①については、ランゲン式を採用しているドイツのヴッパータール空中鉄道は 1901年 の開業である一方、日本国内における他方式である上野式(東京都交通局式)やサフェージュ式は戦後(昭和32(1957)年以降)登場の方式であるため、本記事の路線が計画されていた頃にはまだ存在していなかったものである[*4]。

ランゲン式であるヴッパータール空中鉄道は、1901年の開業から現在に至るまでずっと都市交通として機能し続けているため、大阪懸垂線計画時点での昭和4(1929)年当時でも、懸垂式としては最も安定した方式であっただろうと容易に考えられる。

これらのことから、当時の基準で懸垂式モノレールとなれば、都市交通としての運用実績が既にあったランゲン式が、最も信頼性があり現実味のある方式として、大阪懸垂線でも採用が考えられていただろうとする論拠のまず一つになる。

 

②については路線データの項の下でも先に述べた通りで、当初の計画では軌道は1067mm、つまり2条式の線路を採用する予定だったものを、後に「単軌」に、つまり1本のみのレールで構成される軌条に変更しているのである(これが計画の最終的な姿と考えて良いだろう)。

1条のレールだけで構成される軌道を有する懸垂式…となると、(の論点とも併せて考えると)ランゲン式が最も有力かつ現実的な形態と考えることが出来る。

(※これについても実際どのような姿かは、後々に写真を掲載している。)

よって、の論拠にを加えて考えると、ランゲン式採用の可能性は、推定としてより濃厚になってくる。

 

③についてなのだが、実は本記事で取り上げている「日本懸垂電気鉄道」、その運営母体は「本社」が東京 に置かれており[*5]、大阪のこの計画線だけでなく、神奈川県の 江の島付近にも別のモノレール計画 を有していたのである。

江の島の計画線についても簡単に説明しておくと、こちらは昭和3(1928)年に免許取得、翌年に本社設立、昭和10(1935)年に免許失効となっている[*6]。

この時に設立された本社の名称は「空中電気鉄道」で、大阪の路線計画を管轄していたと思われる「日本懸垂電気鉄道」も、この本社の中に内包されていたようである[*7]。

この江の島の計画線に関しては 軌道および車両の設計概略図 が残されているそうで、 以下のウェブページにその画像が掲載されている。

blogs.yahoo.co.jp

その図を見てみると、軌道は1本のみのレールから構成されているようで、その上に(両フランジと思われる)1枚の車輪を含む走行装置(普通鉄道でいう台車)が載っており、そこから車両を吊るアームが下に延びており…という構造をしている。

これは、後ほどに掲載しているヴッパータール空中鉄道の写真と見比べると分かるのだが、 ランゲン式モノレールに限りなく似通った造り なのである。

加えて上のウェブページによれば、その図が描かれた年代は 昭和4(1929)年と大阪懸垂線が計画されていた時期ともほぼ同一 のようである。

ゆえに、の論拠に加えて、同一会社の別の計画線が、同一時期に、ランゲン式と思しき軌道・車両設計図を作成していた…となると、大阪懸垂線の計画でも、江ノ島懸垂線で採用予定だった方式に準拠しようとしていた可能性は十分に考えられる。

(※注*8

 

これら①・②・③の要素から勘案して、 本記事のモノレール計画で採用予定だった方式は「ランゲン式」と推定される 、と自身は考えるのである。

 

-ランゲン式モノレールはどのようなものか-

では、大阪懸垂線計画では「ランゲン式」を採用予定だっただろうと(本記事では)事実上見做したとなると、そもそも「ランゲン式」とはどのようなモノレールなのか?という基本的な疑問が浮かぶ人も少なくないかもしれない。

それもそのはず、日本では現代においても歴史上においても、「ランゲン式」を採用したモノレールは一つも存在していないのである。我が国においては馴染みが薄いのも当然である。

 

この「ランゲン式」を採用したモノレールには代表的な路線がある。名前だけは先の文章でも何度も登場しているが、遠くヨーロッパはドイツにある、ヴッパータール空中鉄道(Wuppertaler Schwebebahn)である。

 

自身は2013年に実際に現地を訪れ、このヴッパータール空中鉄道に乗車している。ここではその時の写真を交えながら、ランゲン式モノレールとはどんな姿で、どんな造りなのか、大阪懸垂線が本来なるはずだった姿をイメージしながら、ここでは見ていこう。

 

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ヴッパータール空中鉄道における現代の車両。

(2013年9月、執筆者撮影)

基本的にランゲン式モノレールの車両は上のような感じ。

鉄製の軌道の上に、車両の上からのびた鉄製の走行装置が載っており、やや武骨な印象を受ける。モノレールの語の意味(イメージ)そのままに、1本の軌道にぶら下がっているという様態である。

1本の軌道に走行装置(車両)が載っているだけというシンプルな構造ゆえに、駅停車中に客が乗降していると、車両が横に少々大きくスイングしたのを記憶している。

 

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↑ランゲン式モノレールの走行装置および軌道。

(2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

こちらはその走行装置。普通鉄道でいう台車に相当する部分である。

「普通鉄道でいう台車」と書いたが、本当に普通鉄道の台車を車輪片側2枚だけにして車両の上に持ってきただけ、というような形態をしており、ある意味明快な造りである。また、そのような構造だけあって機器類やコードも剥き出しになっており、この点でも武骨さを感じさせる。

軌道はH鋼状の鋼製桁の上に普通鉄道用のレールを1本固定してあり、その上に両フランジの車輪が載っている。つまり、普通のレール1本に両フランジの車輪が引っ掛かっているだけという相当シンプルな造りで、その状態で重い車両をぶら下げながら空中を滑走していくのである。

 

車輪は僅かなフランジで1本のみのレールに引っ掛かっているだけだし、乗客が乗降すると車両は横に振れるし…となると、かなり頼りなさそうな造りにも見えてしまうが、これでもこのシステムはかなり安定したものらしい。

ヴッパータールの場合、少なくとも1度は車両の脱線・落下事故を起こしているそうだが[*9]、開業から現在までを通してそのような脱線・落下事故を起こしたことは滅多に無いようで、数ある乗り物の中でも特に安全な交通システムの一つであるとも目されている模様である。

 

ドイツ国内においてはそのように、ランゲン式は実用的な交通システムとして安定した運用と実績を積み重ねているわけだが、日本の場合はドイツとは(恐らく)違って台風や地震の多い風土のこと、一見頼りなさげにレールに引っ掛かる車輪や車両の横への振れやすさという特性を持つランゲン式が、果たして日本でもドイツと同じように安定した鉄道システムで居られるかといえば、どうだろうか。

 

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ヴッパータール空中鉄道における動態保存の旧型車。大阪懸垂線の計画は戦前のものなので、開業していればこんな感じの車両が走り出していただろうか。

(2013年9月、執筆者撮影)

 

なお、後の「未成線を歩く」の項でも、ヴッパータール空中鉄道の写真を多く織り交ぜているので、軌道や駅などの全体的な造りを見て頂けるだけでなく、大阪の予定地のこの辺りでは軌道が出来ていればこんな感じだったかもしれない…とイメージしやすいようにしてある。

自身が撮影した走行シーンの動画も数点交えているので、ランゲン式モノレールやその旧型車はどのような感じで動くものなのか…についても、理解を深めて頂けるようにしている。

 

-歴史- [*10

●昭和4(1929)年:敷設免許を申請

計画途中に軌道形態が「1067mmの2条式軌道」から「単軌」に変更されたことは何度も述べているが、この変更手続きが行われたのも 同年 のことである。

●昭和6(1931)年:出願が却下される

却下理由は「全線の殆どが大阪市の高速度線(地下並びに高架)と並行しており、高速度線は漸次実現の機運にあるため、更なるこの種の計画はその必要性を認め難いため」といった内容となっている。

 

上の却下理由で並行路線として示された「高速度線」については、幾らか説明が必要となる。

鉄道省文書のP.5~9(※注*11)にある当時の大阪府知事および市長からの副申書によると、その「高速度線」とは具体的には「市営高速度軌道第三号線」と書かれている。これは、現在の呼称でいう「地下鉄四つ橋線のことであり、現在でも四つ橋線の正式名称は「大阪市高速電気軌道第3号線」となっている[*12]。

この四つ橋線(3号線)の計画が最初に現れたのは、大正14(1925)年のこと。当時計画されていた区間大国町玉出間のみで、御堂筋線(1号線)の支線という位置付けだった[*13]。

すなわち、大阪懸垂線計画のあった昭和4~6(1929~31)年の時点では、 モノレール計画と並行するとされた「高速度線」として具体的に示されたのは、3号線(四つ橋線)の大国町玉出間 ということになる。

但し、3号線計画が現れるとほぼ同時に1号線(御堂筋線)計画も登場しており、あくまで3号線は1号線の支線扱いであったため、当時3号線の電車は1号線への直通運転を予定しており、梅田まで乗り入れることになっていた[*14]。

大阪懸垂線の文書の却下理由でも、「高速度線」と並行するのはモノレール計画線全線の「殆ど」という表現がなされているので、モノレール計画と並行するのは3号線の大国町玉出間だけでなく、 1号線の大国町~梅田間も 考慮の範疇に入っていたものと考えられる。

ちなみに、大阪初の地下鉄である1号線(御堂筋線)の最初の区間(梅田~心斎橋)が実際に開業したのは、モノレール計画消滅より2年後の昭和8(1933)年、3号線(四つ橋線)最初の区間大国町~花園町)の開業はその9年後の昭和17(1942)年[*15]、および3号線の当初計画区間である花園町から先の玉出方面への開業は昭和30年代のことである[*16]。

加えて、四つ橋線(3号線)の大国町西梅田間の開業は昭和40(1965)年[*17]。この区間は、かつてのモノレール計画ルートのすぐ西隣を走っているのだが、この区間四つ橋線の独立した路線として登場するのは戦後もかなり後になってからで、少なくとも昭和22(1947)年頃の時点までは、大国町以北の梅田方面へは1号線(御堂筋線)へと乗り入れる計画だった[*18]。つまり、現在の四つ橋線大国町西梅田間は、大阪懸垂線が計画されていた頃には(並行路線としては)まだ計画すら存在していなかったことになる。

 

並行する地下鉄計画の解説だけで長くなってしまったが、その他にもモノレール計画の申請が却下された理由としては、府知事や市長の副申書には、並行路線として大阪市電や南海鉄道(現在の南海電鉄)、阪堺電鉄(通称「新阪堺」。現在の阪堺電車とは別物)、南海急行電鉄(未成[*19])等があったことや、河川上などへの敷設による水陸交通の邪魔になることが挙げられている[*20]。

また、それ以外の背景としては、大阪市が民間鉄道事業者の市内乗り入れを大幅に制限していた「市営モンロー主義」の政策があったことや[*21]、敷設免許の認否を司る鉄道大臣が、免許交付に相当寛容だった小川平吉から厳格だった江木翼に交代したことも[*22]、大きく影響していると考えられる。

 

敷設に成功していれば日本初のモノレール営業路線を大阪から生み出していたかもしれず、大阪市外などもう少し別の場所に計画していればそれが実現していただろうが、あいにく敷設免許の取得は叶わなかった。当時前例のない「最先端」の乗り物を走らせる街としては、大阪の街中はあまりにも条件が悪すぎたのである。

 

未成線を歩く ★

・現地踏査時期:2018年6月上旬

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【ア】起点の梅田駅予定地は阪神百貨店西側〜第一生命ビルの辺り。駅が出来ていれば右のような光景になっていたかもしれない。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【ア】梅田駅予定地の反対側、住吉公園方面(南方)を望む。軌道予定地が道路直上なのか右のビル辺りなのかは明確ではないが、モノレールが造られていれば右写真みたいな感じになっていただろう。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【イ】堂島川を渡って右側、三井物産ビルと中之島フェスティバルタワーの間辺り(矢印の先端付近)が中之島駅の予定地。現在の京阪中之島駅からは大きく離れており、最寄り駅は京阪が渡辺橋駅、地下鉄四つ橋線肥後橋駅となる。

 

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【参考】中之島駅は線内の途中駅で唯一地平上に造られる予定だった駅のため(他は河川上)、駅が造られていたならこのような感じになっていたかもしれない。

(2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【ウ】土佐堀川を渡るとこの先、路線予定地は難波付近までしばらく阪神高速に飲み込まれる。ここから道頓堀付近までの高速道路用地(旧路線予定地)はかつて西横堀川という河川だったが、現在は埋められている。

 

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【エ】信濃橋駅予定地。最寄りは地下鉄四つ橋線および中央線の本町駅だが、かつては四つ橋線側も「信濃橋駅」を名乗っていた[*23]。

 

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【オ】四ツ橋予定地。最寄りの地下鉄四つ橋線の駅も同名である。四つ橋線西梅田大国町間はかつての計画線のすぐ西側を走っており、モノレール計画の代わりを果たしている。

 

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【カ】道頓堀駅予定地。かつての西横堀川の痕跡が僅かに残っている。駅が出来ていれば道頓堀への玄関口になったのみならず、ユニークなモノレールが行き交う光景も道頓堀の名物になっていただろう。

 

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【カ】道頓堀駅予定地の反対側、住吉公園方面を望む。モノレールは難波方面に向かって緩やかな左カーブを描いていく予定だった。当時の発起人達は右の1913年のヴッパータールのような光景が、この辺りにも現れることを夢見ていたのだろうか。

(右画像:Wikipedia『Wuppertal Suspension Railway』より引用。(※画像はパブリック・ドメイン元画像リンク))

 

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【キ】叶橋駅予定地は南海難波駅の北西角付近。南海や地下鉄などが難波駅なんば駅を名乗っている中で、駅名が「叶橋」とはちょっと捻りがある。難波付近ではかつて存在した難波入堀川(新川)の上空を通ることになっており、軌道が出来ていれば右のような感じだったろうか。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【キ】叶橋駅予定地の反対側(梅田方面)の光景。仮にここにモノレールが実現していたとすれば・・・(下に続く)

 

【参考】こんな感じの古典的な車両が上空を行く風景を、戦前から見ることが出来ていただろう。動画の後半に映っている駅を「叶橋駅」に見立てると、【キ】の地点の「幻のモノレール像」がよりイメージしやすいのではなかろうか。

(2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【ク】ここでモノレールは90度カーブし、一度西方向へと向かう。ここから芦原橋付近までもかつては鼬川(いたちがわ)という川が流れ、モノレールもその上に敷設することになっていたが、こちらの河川跡は現在見る影もない。

 

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【ケ】トヨタカローラのビルの場所が市場橋駅の予定地。最寄り駅は地下鉄御堂筋線および四つ橋線大国町駅。

 

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【コ】かつての河川の形に沿ってクランク状のSカーブを描き、関西本線を斜めに横断する。目の前を横切っていた関西本線も現在は地下化され、地上線の廃線跡は公園となっている。

 

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【サ】写真中央の建物群付近が芦原橋の予定地で、カーブ上の駅となる予定だった。現在の最寄り駅は大阪環状線の同名駅と、南海汐見橋線芦原町駅。かつてここには市電も通っていた。

 

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【参考】同じくカーブ上に位置する駅の例。これを芦原橋駅に見立てたならば、向いてる方は梅田方面で…と想像すれば良いだろう。

(2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【シ】南海汐見橋線と交差した先で、路線は再び90度カーブし南へ向かう。

 

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【ス】この付近から終点の住吉公園までは、十三間川という河川の上を通すことになっていた。こちらも川は埋められたが、南海汐見橋線に橋梁がそのまま残っていたり、琴江橋跡の碑や河川跡の遊歩道があったりする。かつてモノレール計画が存在した河川の貴重な痕跡だ。

 

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【セ】2つの阪神高速が合流する手前付近が西浜町駅の予定地。最寄り駅は南海汐見橋線木津川駅。現在この付近にはもう「西浜町」という地名は残っていないようである。

 

【参考】現在のヴッパータール空中鉄道の走行シーンを見ると、1本のレールに引っ掛かっているだけという頼りなさそうな構造に反して、電車は結構なスピードで飛ばしていくのが見て取れる。大阪でも実現していれば、西浜町付近でもこんな光景が見られただろう。

(2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【ソ】津守町予定地は南海の西天下茶屋駅から西にしばらく行った辺りで、すぐ近くにはバス停も設置されている。

 

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【ソ】駅予定地の反対方向(住吉公園方面)を望む。モノレールの軌道が出来ていたなら、右のようなイメージにかなり近かろう。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【タ】玉出町駅予定地。最寄りは地下鉄四つ橋線玉出駅。西浜町からしばらく周辺風景の変化に乏しく、やや単調である。

 

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【チ】現在は阪神高速がカーブを描いているこの場所も、モノレールが通っていたなら右のような車窓風景が電車から楽しめたに違いない。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【ツ】終点の住吉公園駅予定地。右のような感じの終着駅になっていただろうか。現在この辺りは人通りの少ない閑静な住宅地だが、駅が出来ていれば周辺には店が集まり、住吉大社への玄関口としても賑わっていたことだろう。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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鉄輪式の懸垂モノレールが、大阪の街に、戦前から出来ていたらどうなっていただろう。

現状では世界的に見ても数少ないであろう鉄輪式懸垂モノレールを、日本や関西に居ながら見られたかもしれない。実状では関東にしかない懸垂式モノレールそのものも、関西にもあるそれとして、代表的な路線になっていたかもしれない。あるいは、戦前から存在する路線として、その古式かつ古風なモノレールが大阪名物として広く知れ渡り、持て囃されていたかもしれない……

一方で、負の”もしも”も敢えて考えてみるとするならば、ランゲン式のような鉄輪タイプの懸垂式モノレールの特性から、地震・台風などで車両の脱線・落下を起こしやすいということで、早々と他のモノレール方式や交通機関へと置き換えになっていたかもしれない。戦後大阪の人口増から輸送可能量が限界に達し、どのみち地下鉄などの大容量の輸送手段に取って代わったかもしれない。あるいは、橋脚・軌道が鉄製ゆえに老朽化も早く、数十年で施設の全面改修が必要になっていたかもしれない…… 末永く存続出来得たかといえば、一概にそうとは言い切れなさそうだ。

これほど沢山の”もしも”を浮かべてはみたが、数々の民間鉄道事業者大阪市内参入を断固として阻んできた「市営モンロー主義」の事実があることもあって、大阪懸垂線がもし実現していたら…というのは高確率で有り得なかった話ではある。それでも路線計画を立てた場所が、せめて「市営モンロー主義」や並行他路線の影響を受けない大阪の他の所だったならば、日本初のモノレールを戦前の大阪から…が実現していた可能性も、無いとは言えないのではないだろうか。

 

結局は戦前の関西においてモノレールが営業路線として走り出す事は無かったが、関西におけるモノレール営業路線の登場そのものは、戦後21年経った昭和41(1966)年の姫路モノレールの開業が最初のようで(昭和54(1979)年に正式廃止)、大阪における恒久的なモノレール路線の開業は、大阪懸垂線計画から約60年後の平成2(1990)年まで待たなければならなかった。

 

★ 主な参考文献 ★

鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵)https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000385125

Osaka-Subway.comOsaka Metro(大阪メトロ)のファンサイト

●Osaka-Subway.com『マルコに恋して -大阪地下鉄道20の秘密-』(2017年、自費出版

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)

Wikipedia『日本のモノレール』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB(2018年7月閲覧)

Wikipediaヴッパータール空中鉄道』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%A9%BA%E4%B8%AD%E9%89%84%E9%81%93(2018年7月閲覧)

Wikipedia『モノレール』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB(2018年7月閲覧)

 

-脚注-

*1:右記のツイート(https://twitter.com/tangyorai/status/730712129913815040)が写真付きで紹介している。ツイートによれば掲載書籍は『世界の鉄道 昭和37年版』だそうだが、その書籍が掲載している図(写真)の原典は、大阪朝日新聞の「大阪市電気博の空中電車動く」(昭和3(1928)年11月29日 夕刊)のようである。

*2:本記事で取り上げる物以外の計画としては、京阪神単軌高架鉄道(原資料:鉄道省文書「京阪神単軌高架鉄道大阪市東淀川区今里町ー京都市下京区七条大橋西詰、大阪市東淀川区今里町ー神戸市天王橋附近間鉄道敷設願却下ノ件」(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵))が挙げられる。

*3:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.3・12・13・20・21など

*4:一般社団法人 日本モノレール協会「モノレールのあゆみ」『都市モノレール』http://www.nihon-monorail.or.jp/2015JAPANESE.pdf(2016年1月)P.2・3

*5:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.20・21・23~26

*6:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.185

*7:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.24

*8:なお、森口誠之の『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)のP.185には、空中電気鉄道(江の島の計画線)の軌間が「1067mm」と記載されている。大阪懸垂線の当初計画と同じように、江ノ島懸垂線でも当初計画では2条式の線路から車両を懸垂させる予定だった可能性もあり、その点でも大阪懸垂線とのプロジェクトの連動を見出せそうな印象を受ける。

*9:写真付きで解説が掲載:Wikipedia「事故」『ヴッパータール空中鉄道』(2018年7月閲覧)

*10:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.1・2

*11:国立公文書館デジタルアーカイブでのページ数。

*12:Osaka-Subway.com「10 路線ごとにつけられた各カラーの由来」『マルコに恋して -大阪地下鉄道20の秘密-』(2017年、自費出版)P.56・57

*13:『【コラム】縁起が悪いから?皿池から岸里になったもう1つの理由』http://osaka-subway.com/y18/(Osaka-Subway.com、2016年12月29日、閲覧日:2018年7月11日)

*14:『【今日の記念日】3月29日:大阪市営地下鉄の最初の敷設計画が決まる』http://osaka-subway.com/today0329/(Osaka-Subway.com、2015年3月29日、閲覧日:2018年7月11日)

*15:『【交通局最終日】大阪市営地下鉄85年の歴史を振り返ります(1944-1933)』http://osaka-subway.com/metro1days/(Osaka-Subway.com、2018年3月31日、閲覧日:2018年7月12日)

*16:「唯一の『ひげ文字』駅名標」『【コラム】縁起が悪いから?皿池から岸里になったもう1つの理由』http://osaka-subway.com/y18/(Osaka-Subway.com、2016年12月29日、閲覧日:2018年7月12日)

*17:『【今日の記念日】10月1日:四つ橋線西梅田大国町間開業』http://osaka-subway.com/1001y/(Osaka-Subway.com、2015年10月1日、閲覧日:2018年7月12日)

*18:Osaka-Subway.com「09 1947年の地下鉄計画はこうだった」『マルコに恋して -大阪地下鉄道20の秘密-』(2017年、自費出版)P.45~48

*19:原資料:鉄道省文書『南海急行電鉄西成区南開町泉南部佐野町敷設願却下ノ件』(昭和9(1934)年、国立公文書館蔵)

*20:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.5~9

*21:大阪市の「市営モンロー主義」と大阪府の存在』http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20070626/1182856142(とれいん工房の汽車旅12ヵ月、2007年6月26日、閲覧日:2018年7月12日)

*22:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.5・10など および 森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.165

*23:『駅の名は…? 大阪市営地下鉄の現在と開業当初の駅名はこんなにも違った!』http://osaka-subway.com/yourname/(Osaka-Subway.com、2016年12月28日、閲覧日:2018年7月1日)

【廃線跡】スカーボローのミニ廃線跡を歩く(イギリス)

~ 英国東海岸のリゾート地で見つけた、ささやかな鉄道跡 ~

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イギリス(イングランド)の東海岸に、スカーボロー(Scarborough)という町がある。

最寄りの主要都市はヨーク(York)。そこから、列車で50分ほどの距離である。

スカーボローの位置。イギリスやイングランドのどの辺りに位置しているのか、町はどんな風になっているのか、そもそも日本とイギリスの位置関係は……などについては、適宜上のGoogleマップを拡大・縮小して頂きたい。

 

海岸沿いに位置しているだけあって、ここはイギリスきってのリゾート地。

海沿いには砂浜が存在し、ビーチ沿いにはゲームセンターや飲食店などの店舗が立ち並び、町の中心部には旧市街の建物が広がっている。賑やかな町なのでやや雑多でゴッチャリした印象はあるが、それほどリゾート地として人気を集め、賑わいを見せているということであろう。

おまけに言うなら、ここはイギリス現地ではポピュラーなリゾート地でありながら、アジア圏においてはそれほど知られていないためか、アジア系の人を見かけることはあまりない。アジア系の多い空間から少し離れて、ヨーロッパやイギリスの雰囲気の純度が高い場所で時を過ごすなら、このスカーボローという町はうってつけの場所とも言うことが出来るかもしれない。

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スカーボローの美しい海岸と街並み。町にある小さな半島の山の上には、古城跡も存在している。

 

さて、自身がイギリスを旅行中にこのスカーボローの街を歩いていると、街中でちょっとした「廃線跡」を幾つか見つけることが出来た。

今回は紀行文のような形で、この時に見つけた2ヶ所ほどの「ミニ廃線跡」を、ミニリポート的に紹介することにしよう。

 

(※この町(Scarborough)の日本における呼び方は「スカボロー」や「スカーブラ」など様々あるようだが、本記事における表記は実際の発音に忠実に合わせ「スカーボロー」で統一することとした。)

 

★ ミニケーブルカーの廃線跡

スカーボローの海岸沿いには崖のような地形が存在するため、その高低差往来の利便を高めるために、この町には合計で3つの短いケーブルカーが造られてきた。

 

うち現在でも現役なのは2路線。残り1路線は短距離であるためか、現在では廃線となっている。

 

この項で紹介するのは、その廃線となったミニケーブルカー。

距離・軌間・廃止時期…などの詳しい路線データは調べていないため割愛するが、下の廃線跡の現地リポートにも掲載しているように、かなり広軌で相当短距離であるなど、日本のケーブルカーとは違った特色が幾つも見られる。

 

早速にはなるが、その実際の姿と現地の様子を以下で見ていこう。

 

・撮影時期:2017年4月

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 以下しばらく【ア】の地点。

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ミニケーブルカーの廃線跡全景。ご覧の通りその距離は極端に短く、ケーブルカーというよりは斜行エレベーターといった印象である。

 

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ケーブルの全景をもう少し近くより。全線に渡って複線で、軌間もかなり広いことから、日本でいう京都の蹴上インクラインを想起させる。

 

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下側の駅の建物は現在、アイスクリームなどを販売する店舗となっている。建物内にも上から来たレールが残存していたが、特に何も買わなかったため内部の撮影は控えておいた。

 

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台車及び軌道の近影。軌道中央には1本のレールが設けられており、台車下部をよく見るとそのレールを挟み込むような何かが見えるため、ブレーキ用のレールの役割をしていたらしい。鋼索を通していた設備が軌道には見当たらないため、現役時どのような構造だったかが気になる。

 

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廃線跡を横から。距離は相当短いながら軌道はかなりしっかりした造りとなっている。上に留められている2台の車両は、台車は現役時使われていた本物のようだが、車体は廃線後に造られたダミーのように見える。

 

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軌道下部を近くから。コンクリート製の立派な高架構造であり、短距離で廃線になったのが勿体ないくらいだ。

 

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軌道を至近から。中央のレールは標準的な「エ」形のものだが、両側の走行用レールはよく見ると「逆T字型」となっているのが面白い。右写真の下側の駅の上部は現在、オープンテラスに改造されている。

 

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上側の駅も現在はカフェに改装されている。建物は奥に停められた車両と一体構造となっている。

 

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【イ】

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【ウ】

現在も現役で活躍する他2つのミニケーブルカー。現地では「Tramway」(軌道) や「Lift」(エレベーター) などと呼ばれている。高低差の移動手段であるだけでなく、そのクラシックな風格がスカーボローの町のシンボルのようにもなっている。日本のケーブルカーとの構造的な違いも興味深く、機会があればまた別途改めて詳しく紹介したい。

 

★ リフトの廃線跡

町の中心部から外れた町北部の海岸沿いを歩いている時に発見したもの。

 

現地の様子や地図(航空写真)などを見てみると、海岸沿いから小高い丘の上の遊園地と思しき場所までを結んでいたらしい。

これも詳しい路線データは調べていないため割愛するが、Googleマップの航空写真などを見る限り、先ほどのケーブルカーよりも長い距離を運行していたようである。

 

本項も廃線跡のリポートが中心となるため、詳しくは以下の現地の様子をご覧頂きたい。

 

(※イギリスでは「リフト」(lift) と言うと「エレベーター」のことを指すので、イギリスに行かれる場合は留意されたい。)

(※リフトのような索道系が鉄道と言えるのかどうかは議論が分かれるところだが、本ブログでは一定のガイドウェイに沿っていく軌道系の交通機関であることに変わりはないとして、鉄道の一種と見做すことにした。)

 

・撮影時期:2017年4月

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 以下しばらく【エ】の地点。

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海岸沿いの乗降場跡。乗降ベースだけでなく、リフトが折り返していた巨大なホイールも、錆びついた状態で残っている。

 

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乗降場跡を横から見る。一部で蓋が失われて機械がむき出しになっている。

 

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海岸沿いの一連のリフト乗り場跡は特に柵も何もされておらず、公園の一部として自由に出入り出来る状態なのが少々驚きである。

 

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ケーブルを失った支柱は完全に無用の長物として、曇天の空の下に立ち続けている。

 

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支柱の滑車部を拡大。右側に蔦か針金が絡んでいることが、朽ちつつあることを物語っている。

 

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丘の上に向かって勾配を稼ぐ。意外と高所を通過していたようだが、落下時の防護ネットは元々設けられていなかったのか、それとも廃止後撤去されたのか。

 

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登っていく支柱を別角度より。写真を少し加工すれば、丸田祥三氏風の廃墟写真が作れそうである。

 

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スカーボローの半島や海と廃リフトの支柱。この時の曇天とも相まって、哀愁たっぷりの光景である。

 

【オ】このリフトがどこまで続いていたかGoogleマップで辿ってみると、丘の上には遊園地の廃墟区画のような場所があり、ピンを立てた場所の下にリフト乗り場跡が見える。廃リフトの先に廃遊園地…だとしたら更に凄い物が見られそうだが、海外で面倒事を起こすわけにもいかないので、現地で現場に立ち入るのは控えておいた。

 

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ちなみにこのリフト跡のすぐ横には、ミニサイズの遊覧鉄道(現役)が走っている。訪問時は運行日ではなかったようだが、イギリス規格の鉄道が小スケールで再現されていたり、これ大丈夫か…と思ってしまうようなガタガタのレールが見られたりと、こちらも興味深い。

 

★【補記】その他の廃線跡

本記事で紹介したのは街中や周辺で見つけたちょっとした廃線跡だったが、スカーボロー周辺にはこの他にも、旧イギリス国鉄系の廃線跡も存在している。

 

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その存在を見つけたのは、スカーボロー駅に掲げられた古い路線図。

かつてイングランド北東部の鉄道路線を運営していた「北東鉄道」(North Eastern Railway) という会社の路線網を描いたもののようだ。

 

その中のスカーボロー周辺付近を見てみると、駅より西に少し外れた場所から分岐し、北に向かって延びていく路線の存在が確認出来る。

 

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同じく駅に掲げられた現在の路線図を見てみると、同じ場所からは先程の路線が消えている事が分かる。

つまり、駅の近くにこの路線の廃線跡が存在しているということである。

 

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この路線がスカーボローのどこを通っていたか、Googleマップなどで廃線跡の場所を調べ、現代の地図に落としたのが上の図である。点線部分は航空写真だけではルートが不明瞭だった箇所である。

 

自身がスカーボローを訪ねた時には、街歩きに専念していたことや街中から距離があったことから、この廃線跡を直接訪ねることは叶わなかったが、廃線跡と交差する一般道のストリートビューから現地の様子を伺うことが出来るので、以下で少しだけ紹介したい。

 

【カ】現在、廃線跡の大部分は木立ちに囲まれた散策路として整備されている模様。Googleマップによれば、この鉄道はかつて スカーボローとウィットビー(Whitby)という町を結んでいた もののようで、現在でも廃線跡の遊歩道は「旧スカーボロー・ウィットビー鉄道」(Old Scarborough to Whitby Railway) と呼ばれているそうだ。

 

【カ】同じ地点の踏切跡の様子。丁度線路が交差していた部分には、あたかも線路を彷彿とさせるような形でタイル・ブロック舗装がなされている。線路跡を再現したものなのか単に横断帯を描いただけなのかは分からないが、何だか粋である。

 

********************

 

イギリスは単に遠く離れた異国であるだけでなく、鉄道発祥国ということもあり、日本とは違った鉄道システムが数多く見られる。

そして、かつては多くの鉄道網が国内に張り巡らされ、消えていき、そして多くの廃線跡も生まれてきた。

 

自身も先の旅行で幾多のイギリスの鉄道スポット、及び幾つかの廃線跡を訪ねてきたし、未踏の場所にもまだまだ面白そうな所は沢山存在しているので、訪ねたものは順次このブログでリポートしていきたいし、将来的にも機会があれば、廃線跡や鉄道スポットを更に訪ねていきたいと思っている。

 

(※参考文献:なし)