幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【未成線】奈良電気鉄道の小倉~宇治を歩く(京都)

~ 本線から支線に降格し消滅した、奈良電の当初計画 ~

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(※2018/8/17、一部本文の軽微な修正を実施。)

 

京都と奈良を結ぶ私鉄が近鉄に吸収合併され、同社の京都線となってかなり久しい。

 

この京都線近鉄となる55年前まで、路線は奈良電気鉄道という独立した鉄道会社のものだった。

開業は昭和3(1928)年と電鉄ブームの頃、当時の国鉄奈良線よりも近代的で高速の電車が京奈間の所要時間を短縮し[*1]、澱川橋梁や伏見高架橋の建設など土木史にも残るエポックを築いた一方[*2]、閑散地帯を走ることによる集客や経営への苦心や私鉄他社との利害対立[*3]、および政治的疑獄事件に巻き込まれるなど[*4]、波乱の多い会社でもあった。奈良電(近鉄京都線)は実に起伏の激しい歴史を秘めている路線なのである。

 

そんな奈良電が京都~西大寺間の本線(開業線)だけでなく、小倉駅付近から京阪宇治駅付近までの支線も計画していたことは、知る人ぞ知る話であろう。

敷設免許期間が比較的長かった路線計画でもあるが、正確にはどの位置を通る予定だったのか、そこまで知る人は少ないのではないだろうか。

 

今回、自身が奈良県側にその詳細な資料が残されているのを見つけたので、この路線がどのような姿で造られるはずだったのか、ここでは実際の駅や橋梁などの図面も交えながら、当時の詳しい計画像を中心に紹介したい。

 

なお、本記事の後半において、京都府内に存在した奈良電の他の未成区間についても、少し触れる形で紹介する。

 

★ 概要と歴史 ★

路線は奈良電本線(現:近鉄京都線)と京阪宇治線を結ぶように、国鉄 (JR) 奈良線の北側にほぼ並行する形で引かれたもので、計画期間は大正13~昭和34(1924~59)年と比較的長めである。

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しばしばこの路線の区間は「近鉄小倉駅~京阪宇治駅」として認知されるようだが[*5]、実際は奈良電(近鉄)側では伊勢田~小倉(現行)間で現在線と別れ、京阪側は京阪宇治駅の手前で合流するというルート設定が取られていた。

なお、小倉~宇治間が本線の一部として組み込まれていた頃は、伊勢田から小倉までは現在線のように直進せず、途中で東にカーブして、現在とは異なる場所に小倉駅(当初計画)を設ける予定だった。

路線名称については、最初は本線の一部に含まれていたのでまだ分かりやすいが、支線降格後にどのような線名で扱われていたのか、正確なところは分からない。「宇治支線」や「宇治連絡線」とでも呼ばれていたのだろうか。

計画線上には国鉄 (JR) 宇治駅の西側付近に新宇治駅を予定し、他にも一時は奈良電の他の計画線であった大阪線と直通運転させる話(後述)もあったという。

 

本記事ではこの計画線が「どのような姿で造られる予定だったか」という「計画像」に主な焦点を当てた内容とするため、歴史・時代背景・計画線を取り巻く状況といった既出度の高い文章的内容については、ウェブサイトや書籍から要点を拾ってまとめる程度に留めるとする。

計画像の詳しい内容については後述の「未成線を歩く」の項で詳説している。

 

下は当時の奈良県庁文書に封入されている、当該区間が記載された原図面(抜粋)。左側が北で、国鉄奈良線の左隣の白線が奈良電の計画線。先述の通り下端部で東にカーブしており、京都駅方面へ直進・北上する線はここには書かれていない。

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 450ページ目 より引用・抜粋)

記事の初頭から原資料を示したが、これは原資料について幾つか説明が必要なため。

 

本記事の執筆に当たって参照・使用した資料は、奈良県庁文書の「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」という簿冊なのだが、「奈良電は大正・昭和期の計画・開業なのに、なぜ参照元が明治期の資料?」と疑問に思う方も多いだろう。

実は結論から言うと、 大正・昭和期の奈良電の図面が明治期の文書に混入 しているのである。

 

これはどういうことか簿冊を読み解いてみると、文書内には明治期に存在した「奈良電気鉄道」という同名で全く別の計画について書かれており、これは奈良市内を走る路面電車として計画されていたらしく、最終的には敷設が認可されないまま終わったようだ(簡略的なルートマップも文書内に綴じ込まれている)。[*6

 

つまり、昭和初期開業のよく知られている方の奈良電の図面を、奈良県側が行政文書として整理する際に、明治期の文書の側に別の「奈良電気鉄道」という同名計画が入っていることが原因となって、昭和期にうっかり混入されてしまった可能性が考えられる。

このようなケースは国における鉄道省文書の事例でも起こっているようで、簿冊として整理される際や国立公文書館への「移管時に誤って混入したと思われる文書」(宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩くVII』(1999年、JTB出版事業局)P.234)の存在が認められているそうなので、奈良県庁のような地方の公文書の事例においても例外ではないということなのだろう。

 

文書内に封入されている(本記事で使用の)図面は、路線の平面図の一部を見るだけでも、線形やルートなどが現在の近鉄京都線と明らかに殆ど一致しているので[*7]、紛れもなく開業した方の奈良電の図面と言うことが出来る。

 

では、その図面は奈良電のどの年代のものか?ということになるが、

①本線が途中で宇治方面へ曲がっている

②伏見・京都駅方面へ直進する経路が書かれていない

③本線の他の箇所でルート変更が赤線で書き込まれている[*8

これらの点を、一般に流布している情報と照らし合わせると、

①大正13(1924)年に本線の起点を宇治に設定[*9

②大正15(1926)年に小倉付近~伏見方面の経路が登場[*10

③昭和2(1927)年に本線の路線一部変更[*11

ということから、 図面は大正13~昭和2(1924~27)年頃のものではないか 、と見当を付けることが出来る。

 

なお計画線については、現在の小倉駅が当初計画とは異なる位置に造られたことや、大阪線(計画)と直通列車を走らせる目論見も一時期あった(後述)こと、そして小倉~宇治間が実現しなかった要因にユニチカの工場敷地問題があった[*12]ことを考えると、同線が支線降格後に計画線のルート変更が行われた可能性も考えられるが、その事実を示す資料の存在については確認していない。

本記事で用いる中心資料は先にも述べた奈良県庁文書であるため、先の図面の年代を基にすると、この記事では大正末期~昭和初期時点での計画像を取り上げることになる。

 

-路線データ-

●距離

 ◎京阪分岐~小倉駅(当初計画):2.2km*13

 ◎未成区間全体:2.7km*14

●線数:複線(全区間)[*15

●駅数:(未成区間内のみ)[*16

●備考:動力(電流方式・電圧)・軌間は奈良電の開業線(現在の近鉄京都線)に同じ

 

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180では、区間は「京阪宇治~近鉄小倉」と紹介されており、その距離が「2.2」kmとなっているが、現在の京阪宇治駅から近鉄小倉駅までの距離を国土地理院地理院地図(電子国土Web)で計測してみると、一直線に結んでようやくギリギリ2.2km台、それを鉄道らしい自然な線形で結ぼうとすると、どう線を引いても2.2km台を超えてしまう。

これを、上記の京阪分岐~小倉駅(当初計画)として実際の計画線に沿って計測してみると、ほぼピッタリ2.2kmに一致する。このことから「小倉~宇治間の距離2.2km」はこのように「小倉駅(当初計画)~京阪分岐」間の距離を指すようである。

 

奈良電そのものは実際に工事まで着手され開業へと漕ぎ着けた路線だけあって、文書内には詳細な各種の設計図面が残されている。

これは未成に終わった小倉~宇治間も例外ではなく、本記事の一番最初に示した原図面を見てみると、どの設備を区間内のどの辺りに造ろうとしていたかが詳しく指南されており、現代の地図にそれらを落とし込むと以下のようになる。

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駅の位置や宇治川橋梁の存在はもちろん、水路に架ける予定だった溝橋とその径間、更に別の図面を参照すると信号機の設置位置[*17]までが事細かに分かってくる。

実際には未成に終わり線路は造られなかったにもかかわらず、その路線像がかなり生き生きと伝わってくる。

信号機の位置については各駅の個別の図面にも更に詳しく書き込まれており、それらは後述の「未成線を歩く」の項で詳しく解説している。

 

下は奈良電が昭和3(1928)年に発行した沿線案内の抜粋。ここにも点線で小倉~宇治間の計画線が書き込まれている。

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↑(奈良電気鉄道株式会社「奈良電車沿線案内」(昭和3(1928)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 1ページ目 より引用・抜粋)

ここで触れられている計画線は、この路線のみ。

奈良電には他にも、大阪線・奈良・桜井延長線といった計画があったのだが、各々の免許取得時期は昭和4(1929)年・昭和3(1928)年・昭和4(1929)年[*18]となっているため、この案内が発行された頃にはまだ、それらは存在し始めたか免許申請中かということで、この時点では触れられなかったのだろう。

小倉~宇治間については、自身は他の昔の絵地図でもこの計画線が書かれているのを見た記憶があるので、ひょっとしたら鉄道路線の絵地図に触れられる機会も多く、奈良電も実際特に実現を望んでいたのかもしれない。

 

-歴史-

●大正13(1924)年:本線の起点を京阪宇治付近に変更

免許自体は大正11(1922)年に奈良電本線のものとして取得しており、起点も別の場所に定めていたが、当初予定より建設距離を短縮することを狙い、計画変更の形で起点を京阪宇治駅付近に設定。これが、小倉~宇治間の路線計画の興りである。[*19][*20

大正14(1925)年:奈良電気鉄道の創立事務所を久世郡宇治町*21、後に本社三室戸出張所を京阪三室戸駅前に設置*22

昭和2(1927)年:小倉~宇治間の着工を見送る

工事を見合わせた要因として先にも少し触れたように、線路予定地がユニチカの工場敷地と重複する問題が発生(※注*23(←18/8/17追加))。そのため経路などの設計変更が必要となった。この年は奈良電本線の工事が始まった年でもあるため、当該区間を差し置いた上で他区間(小倉~西大寺)から先に着工することとなった。[*24

昭和3(1928)年:本線と伏見支線が一体開業し、小倉~宇治間は事実上支線に降格

本線よりも後発で登場した伏見支線(小倉~桃山御陵前)の方が先に建設されることになり[*25]、開業時にはかねてからの本線(小倉~西大寺)と一体となる形で運行を開始[*26]。桃山御陵前(後に京都まで延長)~西大寺間が現在の近鉄京都線に続く実質的な本線のような形となり、小倉~宇治間は枝分かれする支線のような格好に。

● 年 代 不 定 :大阪線(計画)と宇治方面の直通運転が目論まれる

別の計画線であった大阪線(小倉~新玉造)と小倉~宇治間を繋いで直通列車を走らせることも奈良電は考えており、 昭和2(1927)年 大阪線免許出願時には既に目論まれていたそうだ。また、 昭和7(1932)年 大阪線を「京阪急行電鉄」という別会社を設立して建設・運行しようと試みた際にも、宇治~新玉造間の所要時間は29分と具体的な数字まで弾き出されている。[*27

●昭和34(1959)年:免許が失効

その後しばらく目立った動きは無かったようだが、時と共にその必要性が薄れてきたためか、この年に計画は消滅。奈良電がまだ近鉄に合併する前のこと、計画存在期間は35年間だった。[*28

 

未成線を歩く ★

・現地踏査時期:2018年4月

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【ア】本線(近鉄京都線)との分岐点。現在線は直進しているが、宇治方面へは右の緑の斜面辺りで分岐し、東へ向かってカーブしていく予定だった。

 

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【イ】赤矢印の辺りが線路予定地。家並みが計画線の形に沿っているようにも見えるが、これは周辺地形の関係によるものと思われる。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 476ページ目 より引用。見やすくするため画質を補正してある)

【ウ】の地点には小さな水路を跨ぐため図のような「溝橋(径間6尺)」が予定されていた。橋台は立派ながら橋は小規模なものである。

 

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【ウ】現在の同橋梁予定地の様子。橋はおろか水路ですらその姿を消しており、面影はすっかり失われている。かつて水路があったのは歩道の部分だろうか?

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 492ページ目 より引用)

【エ】小倉駅(当初計画)の設計図面。上が南、下が北である。現在の近鉄小倉駅とは異なり、宇治方面へ東進したカーブの途中に造られる予定だった。プラットホームだけでなく、信号機の位置なども詳細に書き込まれている。

 

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【エ】上の図面を旧予定地の現在の航空写真に写し取るとこのようになる。空撮画像の画質が少々悪いのはご愛嬌だが、同地点のどの部分にどの施設が造られるはずだったか、一目瞭然である。

 

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【エ-Ⅰ】現地から見た現在の旧・駅予定地。撮影のために立っていた場所が丁度線路内で、赤丸内の辺りが駅入口およびプラットホームの位置である。すぐ近くには現在、奈良線JR小倉駅が出来ている。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 475ページ目 より引用。見やすくするため画質を補正してある)

【エ-Ⅱ】小倉駅(当初計画)の手前にもまた、水路を跨ぐための「溝橋(径間4尺)」が架けられることになっていた。こちらも橋台は立派ながら、橋の長さは更に短い。

 

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【エ-Ⅱ】現在の橋梁予定地付近。ここも水路は暗渠化されており、コンクリートと金網の蓋が僅かに水路の面影を伝えるのみである。

 

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【オ】小倉駅(当初計画)予定地付近の航空写真を眺めていると、左の昭和21(1946)年の写真の中に 不自然な一直線状の土地 (赤丸内)が写っているのを発見した。右の平成20(2008)年の写真で見ても、赤丸内左寄りにその面影が残っているのが分かる。計画線の予定位置とは少々ずれているが、場所や形状的に全く関連性が無いとも考えにくい。かつて奈良電の未成線用地だったのだろうか?

 

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【オ-Ⅰ】直線状の土地の西端の様子。現地から見ても当時の土地形状のまま一直線に家が立ち並んでいるのが見て取れる。幅的にも複線分の線路を敷くのに丁度良さそうである。

 

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【オ-Ⅱ】直線状の土地の痕跡は断続的に続く。ここも家屋および土地形状が他の家の並びと違い少々斜め向きになっている。

 

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【オ-Ⅲ】現存する直線の土地の痕跡はここまでで、ここは数十mの道路および住宅用地(右側)になっている。一連の土地が旧奈良電用地あるいは近鉄用地だったという物証は見当たらなかったが、もしこれらがかつて奈良電用地だったとすれば、小倉~宇治間の未成線の数少ない痕跡ということになる。

 

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【カ】小倉方面を望む。未成線の痕跡というわけではないが、この道路は計画線の予定ルートとほぼ一致した所を通っている。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 477ページ目 より引用)

【キ】の場所に予定されていたのは「溝橋(径間8尺)」。水路を跨ぐ溝橋としては、小倉~宇治間の中では最も径間が広い。

 

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【キ】の橋梁が予定されていたのはこの辺り。ここの水路も暗渠化されており、道路左半分のアスファルト舗装とマンホールに名残が見られるくらいである。

 

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【ク】宇治駅予定地近くより小倉方面を望む。ここも奈良電予定地だったわけではないが、鉄道が通るはずだったのはこの辺り。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 487ページ目 より引用)

【ケ】奈良電の宇治駅国鉄(JR)奈良線宇治駅の西隣付近に予定。この図面も上が南、下が北。側線や渡り線を有する3面3線の比較的大きな駅で、図面には場内・出発・閉塞各信号機の位置や構内配線図、貨物ホームの存在などその計画像がやはり詳細に書かれている。

 

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【ケ】上の図面を現地の航空写真に落とし込むと大体このようになる。図面と現地の様子がなかなか一致せず、実際の予定位置とは少々ずれている可能性もあるが、おおよそこの場所にこのような物が造られることになっていたと考えればよい。

 

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【ケ-Ⅰ】宇治駅構内の西端部付近。写真右側の背後が京都方面側の場内信号機の位置で、写真中央付近が側線の端部に当たる。

 

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【ケ-Ⅱ】プラットホームが予定されていたのはこの辺り。道路の交差点やマンション等になっており、とても駅予定地だったとは想像もつかない。

 

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【ケ-Ⅲ】ユニチカ宇治工場専用線廃線跡。新宇治駅東端はこの専用線と交差することになるが、駅の図面には書かれていない。専用線との交差問題も小倉~宇治間の実現を妨げる一因となったのだろうか。

【18/8/17追記右記リンクのツイート(https://twitter.com/iloha_train/status/1024286016260034560)を見る限り、創業時の工場の図には専用線が描かれていないため、奈良電予定地との重複時には専用線との直接的な交差問題は存在しなかったようだ。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 476ページ目 より引用。見やすくするため画質を補正してある)

【コ】の位置に予定されていた「溝橋(径間6尺)」。路線の最初の方で出てきた6尺の溝橋、再びの登場である。もちろん図面も最初に出てきたものと共通。

 

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【コ】現在の同溝橋予定地の様子。病院駐車場や歩道として整備されており、かつて存在したであろう水路が暗渠化されているのかどうかすら分からなくなっている。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 458ページ目 より引用。見やすくするため画質を補正してある)

【サ】宇治川橋梁に入る手前辺りに設けるとしていた「宇治避溢橋」。溝橋よりかは大きめのサイズの小橋梁で、架道橋や小河川に架けるような橋といった趣である。

 

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【サ】左の写真の巨大アパートの場所が宇治避溢橋のはずだが、橋梁予定地を感じさせるものは微塵もない。撮影した場所には丁度、右写真のような暗渠もあったのだが、実際はここに造るはずだったのだろうか?

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 454~455ページ目 より引用・抜粋。上の全体図は2つに分かれていたものを1つに接合してある)

【シ】京阪宇治線に入る前に渡るのが、当線のハイライト・宇治川橋梁。全体図や橋台設計図などの詳細な図面が残されている。備考にあるように第2・4・6号橋脚には架線柱を設置するなど、架けられるはずだった橋の姿をかなり鮮明に伺い知ることが出来る。

 

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【シ】橋梁予定地の現在の様子。あれだけ詳細な図面が残されているのを見ると、現地に何も残っていないのが逆に不思議にすら感じられてしまう。

 

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【ス】宇治川橋梁を渡り切ると線路は緩やかな左カーブを描き、奥の京阪宇治線に合流していく。この辺りは現在も広い空き地だが、用地買収は行われたのだろうか。

 

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【セ】奥で京阪の線路が左カーブする辺りで、右から奈良電が宇治線に合流する。京阪宇治駅の乗り場も平成7(1995)年に現在位置に移設されており[*29]、計画当時とは状況が様変わりしている。

 

★【補記】京都府内の他の未成区間

本記事で紹介した小倉~宇治間の支線(旧本線)の計画以外にも、奈良電は京都府内に合計3つの計画線を有していた。この機会にそれらも簡潔に紹介したい。

 

-八幡支線(新田辺~八幡市)-

現在でいう近鉄京都線新田辺駅付近から、京阪電車八幡市駅(かつての駅名は八幡町駅)までの間を結ぶ路線計画。

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路線距離は10.9km国土地理院地理院地図(電子国土Web)を用い、上の大雑把な概略図の通りに両駅間を直線距離で計測してみると、この距離を下回ってしまうため、実際はもう少し遠回りするようなルートを採る予定だったのかもしれない。

敷設免許の取得は大正11(1922)年と奈良電本線と時を同じくしているが、失効は大正14(1925)年と僅かその3年後、本線すらまだ開業していない時期に計画は消滅している。[*30][*31

 

ちなみに、この界隈にはかつて「奈良軽便鉄道という計画も存在していたそうで、路線の出願は大正2(1913)年、翌年の大正3(1914)年に却下となっている。

そのルートの一部を見てみたのだが、現在の新田辺駅付近から八幡市駅付近までを結ぶ部分があり、この奈良電の八幡支線と路線設定がそっくりなのである。

しかも、発起人の中には「太田 光凞」の名が含まれており、これは明らかに「京阪系」の計画である。[*32][*33

 

奈良電気鉄道も京阪の出資を受けている[*34]など幾つか共通点が見られるので、奈良電の八幡支線の計画はもしかしたら、この奈良軽便鉄道の計画の一部を流用しているのかもしれない。

早期に計画が頓挫したとはいえ、2度に渡って恐らく京阪の手で、奈良方面から八幡方面への路線が目論まれたということは、京阪にも何か思う所があったのだろうか(奈良方面から石清水八幡宮への旅客誘致なのか)。

 

-「新」京都駅(東寺~京都(新)駅)-

現在の近鉄京都駅は元々仮設駅として造られたもので、本来は国鉄(JR)京都駅の北口に本設の駅を改めて造る予定だった。

その形態は、北口の駅前広場の西側に高架ターミナルを造る計画だったとも[*35]、中央口(北口)の直下に地下駅を建設予定だったとも言われており[*36]、諸説錯綜している模様である。

路線距離は0.9km区間を東寺~京都(新)駅として)、免許取得は昭和2(1927)年と奈良電本線よりも遅く、失効は昭和38(1963)年近鉄への合併直後だった。[*37

 

この未成区間に関しては、開業線との分岐点付近にその痕跡を見出すことが出来る。

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左の昭和21(1946)年の航空写真では、(少々不鮮明だが)赤丸の中に本線から分かれていく未成線用地の形が確認出来る。

現代(右の平成20(2008)年の航空写真)においては、用地の北半分は新幹線などに譲ったため面影は残っていないが、南半分は現在も近鉄から分岐する土地形状が残っており、その形のままで建物が建っている。

 

ちなみに京都~東寺間にはかつて「八条駅」というものが存在していたそうだ[*38]。現在のその区間ですら十分至近距離なのに、その間に更に途中駅があったとは驚きである。

 

【18/8/17追記 

アクセス解析の過程において、近鉄(旧奈良電)から分岐する鉄道用地に関し、以下のツイート(下半分)を見つけた。

恐縮ではあるが、ツイートをこの場にて拝借させて頂こう。

確かに奈良電本線(現:近鉄京都線)の京都~丹波橋間の線路敷は、その殆どが旧奈良鉄道(後の奈良線)の旧線跡を活用して敷設されており[*39]、なおかつ当初の京都駅は現在地よりも北側に構内が位置していたそうなので(参考:京都新聞『夢幻軌道を歩く-(10)初代京都駅』)、旧奈良鉄道由来の用地であるという方が納得がいく。

どのみち奈良電が京都駅北側に本設駅設置を目論んでいた際に、その旧奈良鉄道用地を活用しようと考えていた可能性も無くはないが、用地の由来そのものは、どうやら奈良電に端を発するものではなさそうである。

 

なお、初代京都駅やそこに至っていた旧奈良鉄道に関しては、上のツイート内で紹介されているウェブサイトや、上記の『夢幻軌道を歩く』のリンク先を見て頂ければ、より理解が深められるであろう。

追記終わり】

 

大阪線(小倉~新玉造)-

京都~奈良間を結ぶだけでは安定した経営が望めなかった奈良電が[*40]京阪間を高速連絡しようと目論んだもので、小倉駅から京阪電車片町線学研都市線)の間付近を通って玉造に至るというものである。

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↑(森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.134の図を基に作成)

路線距離は33.7km。そこに途中駅数は5駅と、当時いくら沿線が閑散地帯だったとしても採算性は随分怪しそうにも見える。

運転計画は 京都~新玉造間の急行運転 のみならず、先にも述べたように 小倉~宇治間との直通運転 も構想されており、宇治~新玉造間を29分で直結するという想定も出されていた。

免許取得は昭和4(1929)年と奈良電が開業した翌年。一時は「京阪急行電鉄」という別会社を設立してでも路線の実現が図られたこともあり、失効は昭和42(1967)年と奈良電が近鉄に合併(昭和38(1963)年[*41])した4年後のことである。[*42

 

大阪線の計画内容や歴史などについては、森口誠之氏の著書『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)の133~143ページに最も詳しく解説されている。

近年この本を店頭で入手することは難しくなってきているようだが、大阪線計画の歴史を見てみると、乱立する他の計画線との認可合戦や駆け引き、鉄道他社との利害関係や紛争・便宜、認可を司る国との政治的取り引きや汚職疑惑による疑獄事件、戦前の鉄道界に影を落とす恐慌……などなど、波乱に満ちた歴史がそこには書かれている。

一社の中だけでの労苦や不成功のみに留まらず、関西や日本の鉄道史(および政治史)の主要な一端を成すような濃いドラマに溢れている、その計画線に秘められたストーリーは非常に読み応えのあるものである。大阪線計画について理解を深めるのであれば、或いはこの書籍を手に取る機会があれば、是非チェックされたい。

 

********************

 

もし計画通り、現在の近鉄小倉駅付近から京阪宇治駅付近まで、近鉄(あるいは京阪電車)が通っていたならば「ある程度は便利だっただろうし、面白かっただろうな~」と思えるには思えるが、果たしてそれが劇的に夢のような恩恵までもたらし得ていたかといえば、近鉄京都線が現状の形で通っていることも考えると、やはりさほどでもないように思えてしまう。

京奈間を連絡するにも宇治・六地蔵付近を経由している時点で大きく遠回りになるのは否めないし、奈良電(近鉄)の京阪乗り入れそのものも昭和20(1945)年に丹波橋駅経由での相互直通運転という形で実現しているし(昭和43(1968)年に廃止)、現に奈良電(近鉄)京都駅発の京阪宇治行きという列車も運行されていたので[*43]、小倉~宇治間をわざわざ造って宇治や京阪にアクセスする必然性は薄れてくる。奈良方面から宇治への旅客を呼び込もうにも観光客ぐらいで、需要そのものが限られるだろうし季節の変動も間違いなく大きそうである。国鉄民営化後に快速運転などの近代化が行われたJR奈良線とも完全に並行しており、地元の生活路線としての必需性も厳しいかもしれない。

 

では、同じく計画倒れに終わった大阪線との直通が実現していたらどうだろう。

大阪から京都郊外の観光地へと「直結」している同様の事例は、現役線なら阪急嵐山線がある。こちらは春や秋などの観光シーズンにこそ梅田などから嵐山へと向かう直通列車が運転されているものの、普段は殆どの列車が線内折返しで、路盤はかつての関係で複線分ながら現在も線路は単線のまま。京都の中心部へと向かっていない路線だけあって、ローカル級の路線に留まっているのである。

奈良電もかつて、大阪方面から宇治方面への直結も計画のキーポイントであるかのように考えていたようだが、きっと蓋を開けていれば、阪急嵐山線と同様に小倉~宇治間もローカル線レベルへと甘んじていたことであろう。需要としては相変わらず季節変動の激しい観光需要が多かっただろうし、大阪へのベッドタウン路線として安定した多数の旅客を獲得し得ていたかというのも少々疑問である。

 

本線から支線へ降格し、奈良電は厳しい経営状況に直面し、時と共に計画線を代替する要素は次々増え、そして路線計画の存在意義は奪われていった…… 実現しなかったのも無理はないのかもしれない。

 

★ 主な参考文献 ★

奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵)P.334~432 および P.450~508(まほろばデジタルライブラリーで画像閲覧可。ページ数は同サイトでの該当ページ)

(↑※資料への直リンクが出来ない可能性があったため、各自上記サイトで検索されたい)

●奈良電気鉄道株式会社「奈良電車沿線案内」(昭和3(1928)年、奈良県立図書情報館蔵、まほろばデジタルライブラリーで画像閲覧可)

(↑※これも資料への直リンクが出来ない可能性があったため、各自上記サイトで検索されたい)

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.133~143 および P.180

●髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔 II』(2002年、JTB出版事業局)P.98・130

(↑※著者名の「禮=れい」の実際の字は「ネ」に「豊」)

●ウェブサイト「レイル・ストーリー12 - 奈良電の足跡」(2018年5月閲覧)

  1. 「前編」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden1.html
  2. 「後編」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden2.html

(↑※サイト各ページの文末にも、参考文献が4点示されている)

Wikipedia「奈良電気鉄道」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93(2018年5月閲覧)

●田中真人 他『京都滋賀鉄道の歴史』(1998年、京都新聞社

 

-脚注-

*1:奈良電気鉄道株式会社「奈良電車沿線案内」(昭和3(1928)年、奈良県立図書情報館蔵)※まほろばデジタルライブラリー 内容注記(冒頭文)

*2:「レイル・ストーリー12 - 奈良電の足跡(前編)」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden1.html(2018年5月6日閲覧)

*3:「レイル・ストーリー12 - 奈良電の足跡(後編)」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden2.html(2018年5月6日閲覧)

*4:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.142~143

*5:例えば、森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180の免許線リストでも、区間がそのように説明されている。

*6:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 283~324・440~443ページ目

*7:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 450ページ目

*8:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 450ページ目

*9:Wikipedia「経緯(路線敷設免許取得まで)」『奈良電気鉄道』(2018年5月7日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.5~6」および「『起業目論見書記載事項変更の件』 1924年10月25日 (国立公文書館蔵)」が挙げられている。

*10:Wikipedia「経緯(伏見支線の建設)」『奈良電気鉄道』(2018年5月7日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『小倉村、伏見町間延長線敷設免許の件』 1926年12月25日 (国立公文書館蔵)」および「『奈良電鉄社史』P.11」が挙げられている。

*11:Wikipedia「経緯(本線の建設)」『奈良電気鉄道』 (2018年5月7日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『線路及工事方法変更の件』 1927年8月12日 (国立公文書館蔵)」および「『奈良電鉄社史』P.9~10」が挙げられている。

*12:Wikipedia「経緯(本線の建設)」『奈良電気鉄道』 (2018年5月7日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.10」が挙げられている。

*13:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180を基に、国土地理院 地理院地図(電子国土Web)を用い独自に計測・照合。

*14:国土地理院 地理院地図(電子国土Web)を用い、小倉(当初計画)~現在線(近鉄京都線)分岐間を独自に計測したものに、上記の距離を足して算出。

*15:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 334~432ページ目 および 450~508ページ目

*16:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 450ページ目

*17:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 416・417・496ページ目

*18:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180

*19:Wikipedia「経緯(路線敷設免許取得まで)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.5~6」および「『起業目論見書記載事項変更の件』 1924年10月25日 (国立公文書館蔵)」が挙げられている。

*20:「レイル・ストーリー12 - 奈良電の足跡(前編)」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden1.html(2018年5月8日閲覧)

*21:Wikipedia「経緯(会社設立)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.6~7」が挙げられている。

*22:Wikipedia「経緯(本線の建設)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.9」が挙げられている。

*23:右記リンクの一連のツイート(https://twitter.com/iloha_train/status/1024283861532856320)にて、ユニチカ(日本レイヨン)宇治工場の歴史と奈良電予定地との重複などについて、詳細な解説がされている。

*24:Wikipedia「経緯(本線の建設)」『奈良電気鉄道』(2018年5月7日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.10」が挙げられている。

*25:Wikipedia「経緯(伏見支線の建設)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の工事関連の記述の出典として「『奈良電鉄社史』P.14~17」が挙げられている。

*26:Wikipedia「経緯(開業から終戦まで)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.31」が挙げられている。

*27:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.134・135・139

*28:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180

*29:Wikipedia「歴史」『宇治駅(京阪)』(2018年5月3日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『くらしの中の京阪』1995年7月号」が挙げられている。

*30:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180

*31:Wikipedia「経緯(路線敷設免許取得まで)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.4~5」および「『田辺町、八幡町間鉄道免許失効の件』 1925年8月26日 (国立公文書館蔵)」が挙げられている。

*32:奈良県庁文書「大正三年 土木 奈良軽便鉄道鉄道敷設申請書」(大正2~3(1913~14)年、奈良県立図書情報館蔵)

*33:Wikipedia「太田 光凞」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%85%89%E5%87%9E(2018年5月8日閲覧)

*34:Wikipedia「経緯(会社設立)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.8」が挙げられている。

*35:髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔 II』(2002年、JTB出版事業局)P.130

*36:Wikipedia「経緯(京都延長線の建設での問題と完成)」『奈良電気鉄道』(2018年5月9日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電気鉄道(株)申請の京都駅表口、東寺間(未成線)地方鉄道運輸営業廃止について』 1963年10月15日 (国立公文書館蔵)」が挙げられている。

*37:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180

*38:奈良電気鉄道株式会社「奈良電車沿線案内」(昭和3(1928)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 1ページ目

*39:髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔Ⅱ』(2002年、JTB出版事業局)P.132

*40:「レイル・ストーリー12 - 奈良電の足跡(前編)」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden1.html(2018年5月9日閲覧)

*41:髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔 II』(2002年、JTB出版事業局)P.130

*42:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.134~140

*43:髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔 II』(2002年、JTB出版事業局)P.98

【未成線】立木山鋼索鉄道を歩く(滋賀)

宇治川ライン沿いの知られざる参詣路線計画 ~

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 日本最大の湖・琵琶湖の南端からは、瀬田川が流れ出し、その両脇には石山・南郷地区が広がっている。

石山地区といえば京阪電車石山坂本線の終点があり、関西では名の知れた石山寺がある土地でもあるが、そこから更に南へ行った地区も、至る所に見所がある。

南郷地区なら探偵!ナイトスクープにも珍妙スポットとして取り上げられた南郷水産センターがあり、瀬田川を南下して山間部に入ると、瀬田川から京都の宇治川にかけての通称「宇治川ライン」と呼ばれる一帯では、その峡谷の景観の美しさが名高いと言われてきた。

 

その瀬田川を石山地区より南下して、山間部に入って少し行った所に、通称「立木観音」と呼ばれる、安養寺という寺院がある。

この寺院は厄除けにご利益があるとされ、創建は高野山を開基した弘法大師と言われる。瀬田川の西岸よりおよそ800段の石段を登って辿り着くその山上の寺院は、そのご利益といわれの名高さから、とりわけ年末年始には、関西一円や全国から多くの人が訪れるという。

 

そのような立木観音ではあるが、現状を見てみると、交通手段は専ら自家用車かバスのみで、鉄道駅からは遠く離れている。また、いわれが名高く参拝者も各地から集まるとはいうものの、鉄道から離れた場所に位置するためか、知名度は関西の他の寺社仏閣ほどでもないように感じられる。

しかし、厄除けの主要な寺院として信仰を集めてきたこともあり、かつては参拝用の鉄道が幾つか計画されたこともあった。本記事で紹介するのは、そのうちの一路線であるケーブルカー計画、立木山鋼索鉄道である。

 

★ 概要と歴史 ★

この路線は立木観音のある立木山の北部に計画されていたもので、大正12(1923)~昭和6(1931)年頃に存在していた。

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↑広域におけるケーブル計画と周辺の位置関係図。

 

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↑立木観音を含む路線周辺の拡大地図。

 

区間山麓南郷駅から山上の立木山駅の間を結ぶものだが、上の地図でも分かる通り、京阪の石山寺駅など鉄道駅からは相当離れており、ケーブルの路線の方も立木観音からはやや離れた所に位置するとしていた。

 

このような立地にありながら、どうやら 接続する鉄道路線は予定されていなかった ようで、かつて比較的近くまで来るはずだった大津電車軌道(現在の京阪石山坂本線)の南郷延伸線(石山寺~南郷)も、ケーブル計画が出願される前の大正5(1917)年には既に免許が失効している。

 

その一方、当時の文書によると、同じく立木観音への進出を図っていた 競願路線 は多かったようで、同時期に存在していたものを簡潔に列挙すると、

●立木登山鉄道(大津電車軌道/後の京阪電鉄の計画)

●石山宇治電気軌道

主にこの2つとなり、いずれも立木観音のすぐ近くまで路線を敷設する予定だったようだ。

地元の中小資本だけでなく、関西の大手私鉄までこの立木観音を目指していたというのは、少々意外である。

しかし、いずれの計画も敷設免許を取得することすらなかったようで、実現しないまま終わっている。

 

-路線データ-

●形態:鋼索鉄道(ケーブルカー)

●距離:805 m

軌間1067 mm

●駅数:(起終点)

●線路設備

 ◎軌道:木製枕木バラスト道床

 ◎架線:架空3線式

 

起業目論見書によると、線路設備については、 枕木は栗材  敷石は割栗石 を用いる、などその仕様が事細かに説明されており、路線細部の設計に入る前の出願段階で詳細なところまで想定されていたことが分かる。

また、架線についても車両に照明用などの電力を送るだけとはいえ、架空3線式(3線交流式と思われる)を用いることを想定していたとは、結構特殊な仕様である。

 

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上は当時の文書内に封入されている路線平面図の抜粋。赤丸の中に、ケーブルの線が書き込まれている。

上図の中では、ケーブルカーの路線は一直線状に書かれているが、地形の関係なども考えると、途中でカーブを設ける予定などは無かったのだろうか、とも思ってしまう。

なお、上の図面はここに引用・掲載しているよりも更に大型の広域地図なのだが、これ以上路線を拡大した詳細な図面は、文書内には封入されていない。

 

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次に上に示すのは、線路の予測縦断面図。横倒しとなっているが、題目以外の図中の大半の文字が横書きとなっているため、この向きが正しいようである。

前の図の解説の所で地形と路線の敷設形態について触れたが、この縦断面図を見る限りでは、少なくともトンネルの設置は予定されていなかったようである。

この図面も地形と路線の描き方が随分と大まかであるが、「予測」縦断面図であるゆえ、後で実測の時により精密な図面を作る予定だったのだろう。

 

-略史-

●大正12(1923)年:敷設免許を申請

出願から下記の経過に至るまで随分と年数が掛かっているが、鉄道省側で火災があった関係で焼失書類の再提出があったようで、そのために最終的な決裁を確定させるまで時間が掛かったものと思われる。

免許の是非の判断自体は、下記よりも更に前に下されていた可能性もある。

●昭和6(1931)年:出願が却下される

理由としては「短距離路線であり、目下の状態では敷設の必要を認め難いため」と説明されている。

 

路線距離が800mと実際はさほど短くないながら「短距離」扱いされている点は、更に短い路線距離で敷設免許を取得した他の計画線のことも考えると(本ブログで取り上げた例なら高取鋼索鉄道(543m)がある)、あまり納得がいかない感じもするが、国側が問題にしたのはその需要や実際の必要性だったのかもしれない。

 

文書の最初の方には一時比較的高評価だった旨が書かれており、発起人の資産信用度は高く、敷設の際の成業見込みや路線の効用は認められ、省線等にも好影響があり、風致上も支障が無い、など好意的な意見が並んでいた。

また、滋賀県知事も同様の肯定的な副申を出しており、上記の評価はこれが影響していると思われる。

 

それにもかかわらず出願が却下されたのは、昭和金融恐慌や昭和恐慌など、大正末期から昭和初期にかけての一連の不況も影響しているのだろうか。

 

前向きな評価から一転して、国側から「不要不急」の烙印を押されたこのケーブル計画は幻に終わり、最終的に立木観音に到達する鉄道は、一路線も実現することは無かった。

 

未成線を歩く ★

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【ア】瀬田川の対岸より望む。画面中央の山付近がかつてのケーブル予定地で、山の奥に向かって真っ直ぐ伸びていくことになっていた。

 

【イ】山麓側の南郷駅予定地はこの付近の右側。藪の生い茂る斜面となっているが、実現していれば駅前広場などが造成されていたのだろうか。

 

【ウ】この辺りからケーブルは山中へと突入し、真っ直ぐと山上を目指していく。この背後は現在、住宅地として造成されている。

 

【エ】山上側の立木山駅予定地付近。どういうわけかこの場所は少し開けた所となっている。ここから立木観音までは更に距離がある。

 

【オ】現在の立木観音こと安養寺の境内。見た限りでは山中の閑静な寺院という感じがするが、鉄道が通じていれば更に違った賑わいを見せていたのだろうか。

 

********************

 

由来の名高さと厄除けのご利益から参詣路線が企図されながらも、一路線も到達しないまま終わった、立木観音。

現在でも特段マイナーではないながら、関西在住の人でも知る人はさほど多くはないのではなかろうかと思うのだが、他の有名な寺社仏閣が私鉄の事業展開の一環で知名度を上げていった歴史の一面を考えると、この立木観音も仮に鉄道が通じていたとすれば、関西を代表する私鉄沿線の有名寺院の内に名を連ねていたのかもしれない。

地元の中小私鉄計画だけならまだしも、戦前に「京阪王国」の栄華を誇っていた京阪グループですら進出が叶わなかったのだから、あいにく鉄道が進出するだけの諸条件が相当悪かったということで、半ば偶発的な当時の風向きの悪さは惜しまれるところである。

 

一方、立木観音はあくまで信仰の対象たる「聖なる場所」という事実も考えると、鉄道が進出することによってもたらされるのは果たして好結果ばかりなのだろうか、という疑問を抱く人が居たとしても十分不思議ではない。

鉄道により人が押し寄せ過ぎていたかもしれないし、観光地化が進むあまり周辺風情の陳腐化も招いていたかもしれない。

鉄道が通じておらず落ち着いた雰囲気を保っているであろう現在の状況を考えると、鉄道が通ることによる上記のような影響には必然的に感心しない人々も出てくるであろうし、鉄道があれば良かったのか無くて良かったのかは、一概には言い難い面もある。

 

今回はひとまず路線計画の調査と記事作成だけに留まる形となったが、関西から少し足を延ばせば行ける山中の寺院は行楽・散策スポットとしても惹かれるものがあるため、立木観音はまた機会を見計らって現地にも赴いてみたい。

 

★ 参考文献 ★

鉄道省文書「立木山鋼索鉄道敷設願却下ノ件」(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵)https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000385145

(記事中の原資料画像は上の文書より引用・抜粋。)

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)

●立木観音 公式ウェブサイト http://www.tachikikannon.or.jp/

 

その他ウェブサイト等若干