幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【廃線跡】マルタ鉄道を歩く(マルタ共和国)

~ 地中海の極小国を走った島の鉄道 ~

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イタリアと北アフリカの間、地中海に浮かぶ小さな島国、マルタ(Malta)。

国土面積が日本の淡路島の半分程しかなく、世界で10番目に小さいとも言われているこの国は、南ヨーロッパに位置することと、地中海性の気候とが相まって、夏は暑く、冬は温暖な国として、ヨーロッパでは人気のリゾート地として知られている。

 

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↑日本とマルタとの位置関係

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〈左〉欧州南部とマルタの位置関係 〈右〉マルタの国土全図

 

公用語はマルタ語と英語。

イタリアと距離的にかなり近く、領土も小さいながら、イタリアとは随分異なった文化圏であるという意外性を持ち合わせている。

地中海のほぼ中央に位置していることもあり、古来からヨーロッパ文化、アラブ文化、北アフリカ文化が入り混じり、また戦後独立するまでイギリスの統治下にあったことから、英国文化も入り込み、現在に至る。

そのため、これらの各文化が入り混じった独特の文化が発展し、街並みから料理、言語まで、そのイタリアとは違ったエスニックな雰囲気も、近年人気のポイントとなっている。

また、先史時代の巨石遺構や謎の遺跡から、欧州史を牛耳ったマルタ騎士団聖ヨハネ騎士団)に代表される戦いの歴史まで、「地中海のヘソ」ならではの濃密な国の歴史も、マルタを語る上では欠かせない魅力の一つである。

 

マルタの国旗

↑マルタの国旗

CC0, Link/画像はWikipedia「マルタ」より引用)

 

マルタという国自体は、その小ささもあり、これまで日本においてはあまり知られてこなかったが、近年テレビ等のメディアに取り上げられる機会も増え、また英語圏でもあることから、留学先や旅行先として、その知名度や人気度を着実に上げてきている。

実際、自身がマルタに滞在していた時も、日本人が殆ど行かない国とこれまで聞いていた割には、首都ヴァレッタ(Valletta)など観光地では、日本人もかなりの確率で見かけられた。

 

マルタの詳しい解説は他のガイドブックやウェブサイトなどに譲ることにするが、国の地理的概要を把握するには以下を参照すると良いだろう。

情報の種類がやや偏っており、信憑性が必ずしも保証されない部分もあるものの、国のあらましを知るには十分であると思われる。

 

【参考】マルタ - Wikipedia(日本語)

 

さて、このマルタ、世界で10番目に小さい国とだけあって、島内の主要な交通機関は、自家用車・バス・船舶となっている。

すなわち、 現在のマルタには、鉄道は存在していない

これだけ国土が小さいとあっては、人口もその密度も日本ほど多くないということもあり、鉄道の必要性は薄いと言っても良いだろう。自家用車があればどこでも行けてしまうし、公共交通とあっても、その輸送量はバス程度で十分足りてしまうからだ。

 

だが、歴史上一度も鉄道が存在したことが無いかといえば、そうではない。

かつてこのような小さな島国にも、日本の沖縄県営鉄道淡路交通のように、ささやかな島の鉄道が走っていた。

それが、第2時世界大戦前まで島を駆け抜け、2つの町を結んでいた、マルタ鉄道である。

 

本記事内で貼り付けるリンクの殆どは、海外の廃線跡という性質もあり、殆どが英語サイトとなっている事をご了承いただきたい。なお、出来る限り画像を眺めるだけでも理解できるサイトを選定したつもりである。)

参照ウェブサイトは今回、日本からアクセスして集めたため、一部のサイトにおいてはシステムの性質上、URLの末尾が「.jp」と表示されているものも含まれるが、いずれもマルタ現地のサイトである。)

 

★ 概要と歴史 ★

現地での英称は「Malta Railway」。また、マルタ語における通称として「il-vapur tal-art」(陸上船)という呼称も存在する。

1883~1931年の第2次世界大戦前、マルタがまだイギリス統治下の時代に存在していた。

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この路線は、現在のマルタの首都であるヴァレッタ(Valletta)と、かつてマルタ騎士団ヴァレッタに首都を移す前、首都を置いていたイムディーナ(Mdina)の間を結ぶために造られた路線である。

 

基本的に路線の大部分が地上を走っていたが、上の路線図の ヴァレッタ~フロリアーナ間では、路線は地下 を走っていた。

現在は鉄道の存在しないマルタに鉄道が走っていた頃には、首都付近に「地下鉄道」が存在していたとは驚きである。

Malta Railway, pre-1931.jpg

ヴァレッタ駅を出発するSL列車。左の地下駅を出ると、堀を渡るため一瞬地上に出るが、すぐ右側で再び地下線に潜る。

(By Unknown  - http://www.faydon.com/Malta/Malta.html, Public Domain, LinkWikipedia「Malta Railway」(英語)より引用)

 

他にも、上の路線図のノータビル~ミュージアム間においても、イムディーナの地下を抜けるトンネルが存在していた。

 

長くマルタ島内では、鉄道といえばこの路線と、後に開業しマルタ鉄道より早く廃止となった路面電車の2つだけであった。

 

なお、現在のマルタ共和国を構成するもう一つの島である ゴゾ島(Gozo)においては、鉄道が存在した事は歴史上一度も無い ようである。

 

-路線データ-

●距離:11 km

●動力:蒸気(全線非電化)

●線数:全線単線

軌間1000 mm

●駅数:12(廃止前。起終点含む)

●所要時間(起終点間)

 ◎ヴァレッタ → ノータビル:35分

 ◎ノータビル → ヴァレッタ30分

●車両数

 ◎蒸気機関車10両(英国製)

 ◎客車:34両(木造、骨組は鉄製)

●編成両数

 ◎初期:4~5両

 ◎中期以降:12両

 ◎第1次大戦中:汽車2両+13両以上

●客車等級設定:1等車3等車ロングシート

 

上のデータで特筆すべき点といえば、路線距離11km、所要時間30分程度とさほど長くない路線にもかかわらず、1等車の設定があったという点である。

ヨーロッパの鉄道といえば、現在でも普通席の他に1等席が設けられることがスタンダードとなっているので、その基準で考えればごく自然なことではあるが、日本の基準で考えると、随分と律儀な感じがしてしまう。

 

加えて運行時の編成両数。上の現役当時の写真を見ても分かる通り、客車1両の長さは短いので、現在の日本の長編成ほど大層な長さではないものの、中期以降の12両以上という両数も、ローカル線級の路線の割にかなり多かったことが分かる。

 

なお、所属車両のうち、 3等客車は現在も1両のみ現存している (「廃線跡を歩く」の項でも後述)が、核と言える車両である 蒸気機関車は、1両も保存されなかった そうである。

 

当時のSL列車の彩色 (カラー) 写真(外部サイト)

 

以下は営業当時の起終点の発車時刻を、年代別に抜粋してまとめたもの。

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(出典:http://maltarailway.blogspot.jp/2012/12/set-of-modern-postcards-from-stazzjon.html

 

このように見てみると、鉄道が開業して間もない1883年は、大きな街であるヴァレッタからの発着本数ですら、かなり少ないことが分かる。

先述の通り路線長11kmで所要時間30分と僅かながら、列車の出発が平均2~3時間間隔とは、少なくとも現代の感覚では異様に少ないような感じがしてしまう。

最終列車の時間も、一番早い所ではノータビル発の18時台と、相当早い印象を受ける。

 

実際、鉄道の業績は初期の頃から思わしくなかったようで、無理も無いのかもしれないが、これでは相当田舎のローカル線なのかとすら思ってしまう。

 

しかし、廃止10年弱前の1920年代を見てみると、その列車本数はかなり増加している。

特にヴァレッタ発の場合だと、全線を通しで走らない途中駅止まりの列車も多いものの、その本数の増加ぶりは開業後の頃と比べると目覚ましいものがある。

ノータビル発ですら、本数自体は相変わらず少ないものの、ほぼ1時間以上ごとの間隔で列車が出発しており、大きく増えていることは間違いない。

 

最終列車は平均19時台と相変わらず早い印象を受けるものの、マルタ鉄道は途中で民営から公営に変わっているため、その点も利便性の向上に繋がったのかもしれない。

 

1号機関車の仕様一覧 (英語) と写真(外部サイト)

 

そしてこの鉄道、島内をほぼ横断する形の既開業線だけで終わる予定だったかといえば、そうではない。

他の地区もカバーする形で、路線の延伸・拡大計画が存在したのである。

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(出典:http://maltarailway.blogspot.jp/2012/12/set-of-modern-postcards-from-stazzjon.html

 

上は初期の頃に提案されていた、路線拡大計画の地図。

その計画線は島内全体を網羅するように引かれており、いわば「マルタの未成線」ということになる。

 

この図を見ると、その路線計画は ヴァレッタ南東の港湾部 や、現在リゾート街として栄えている スリーマ(Sliema)ナイトライフの聖地パッチェビル(Pacevile)がある セント・ジュリアンズ(St. Julians)、ゴゾ島(Gozo)への玄関口である チルケウァ(Cirkewwa)、有名な神殿遺跡がある タルシーン(Tarxien)などへも、鉄道が通じ列車で行けるはずだったことが分かる。

 

但し、ヴァレッタの隣にある通称スリーシティーズ(The Three Cities)と呼ばれる街や、マルタらしい漁港風景が現在観光地となっているマルサシュロック(Marsaxlokk)には、鉄道が通じる計画は無かったようだ。

マルサシュロックは元々小さな漁村だったそうなのでまだ分かるが、スリーシティーズはヴァレッタの隣で比較的まとまった街なので、少々意外な気もする(ちなみに後者は路面電車は通じていた)。

 

いずれの計画線も特に工事等は行われず、計画だけで終わったものと考えられる。

 

-歴史-

●1870年:マルタで最初の鉄道計画が提言される

当時、首都ヴァレッタと旧首都イムディーナ間の移動は約3時間かかっていたため、それを30分未満に短縮するため立案された。規格はナローゲージが提案され、開業は1881年末と見込まれていた。しかし着工後に用地買収が難航し、工期は1年強延びることになった。

●1883年:マルタ鉄道が開業

最初の区間であるヴァレッタ~ノータビル間が開業し、マルタに鉄道が走り始めた。この時、一番列車は全線を25分で走破したという。

●1890年:運営会社が経営破綻に陥り、運行停止

かねてから鉄道の運営状況はあまり良くなく、当初の運営会社の経営も常に危機的状況にあった。それがモロに表れた格好で、列車運行すらままならなくなってしまう。

●1892年:政府が路線を買収し、運行再開

上記の結果、民営では鉄道を運行できなくなったため、政府による公営路線へと転換し、路線設備へも再投資。これにより、この年に運転再開へと漕ぎ着けた。

●1900年:ノータビル駅~ミュージアム駅間の延伸線が開業

公営転換の3年後である1895年には着工し、5年後に完成。延伸前のノータビル駅だと、イムディーナの町まで長い坂を延々登らなければならなかったが、ミュージアム駅からは短距離で町までアクセス出来るようになった。

1903年20年代:競合交通機関が台頭する

この頃に次々登場した新たな乗り物により、マルタ鉄道は再び脅威にさらされることになる。

1905年:マルタに路面電車が開通

この時出来た路線の中には、マルタ鉄道と区間が並行するものがあり、競合を強いられることになる。しかし、この路面電車は1929年に廃止されている。

1905年~20年代:バスが登場・普及

マルタの公共交通史に最も影響を及ぼしたのがバスで、この年代に広がりを見せている。その結果、上記路面電車をも廃止に追いやっており、マルタ鉄道もこれを機に衰退の道を辿ることになる。

●1931年:全線が廃止される

上記の流れにより、より近代的な交通機関であるバスに置き換える、ということになり、鉄道は姿を消すことに。活躍期間は約50年弱。マルタでは第2次世界大戦の前から、鉄道の時代が終焉することとなった。

 

ちなみに、第2次大戦中の1940年、マルタ鉄道は廃線から既に9年が経過していたにもかかわらず、イタリアのムッソリーニは「マルタの鉄道を破壊してやった!」と豪語した、なんてエピソードもあるんだとか。

 

廃線跡を歩く ★

・現地踏査時期:2017年2・3月

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【ア】マルタ共和国議会ビル。写真左手にかつて、起点・ヴァレッタ(Valletta)駅の駅舎があった。乗客は窓口で切符を買った後、駅舎に入り、地下ホームへと降りていた。

 

現役時のヴァレッタ駅舎の写真(外部サイト)

 

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【ア】ヴァレッタ駅跡の橋梁とトンネル。トンネル内に2面2線の乗り場が入っていた。撮影時、駅跡周辺は再整備中だったが、工事終了後には中に入れるようになっているのだろうか。

 

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【ア】現役当時の写真。イムディーナ(Mdina)方面を向くSL列車。

 

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【ア】ヴァレッタ駅を出て橋梁を渡ると、再び地下線に突入する。そのトンネル入口は随分小さく見える。

 

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【ア】ヴァレッタの主要な入口、シティゲート。首都のランドマークともなっているスポットだが、このすぐ右下に廃線跡が存在するのである。

 

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【イ】地下トンネルの換気口。蓋の金網がやや錆びてる以外は、そのまま口を開けている。内部はケーブルが絡む。

 

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【ウ】フロリアーナ(Floriana)駅も地下駅だったが、地上に置かれていた駅舎は今も残る。写真右手から乗り場への通路に出る。

 

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【ウ】かつて乗り場へと通じていたスロープは、現在周辺の公園に通じる通路として開放されている。奥のアーチ部の天井にも、鉄道時代の物と思しき遺構が残る。

 

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【ウ】先程のスロープを降りて左手を見ると、更に下へと通じるスロープが。どうやらここから地下ホームへと下りていたようだ。金網はされているものの、破られていた。

 

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【ウ】上の場所を過ぎて少し行くと、ここにも地下へと向かう廃階段が。これも駅関連の遺構のようである。

 

なお、現在のフロリアーナ駅跡(地下ホーム)は普段立入禁止となっているが、近年イベントで公開される機会もあるようで、その時の模様が以下のサイト(英語)でアップされている。

現在の地下ホーム跡内部がどのようになっているか、写真が多数掲載されており、興味深い。↓

www.maltatina.com

 

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【ウ】駅跡周辺のネコ溜まり。空間あらばネコ溜まる、といった具合に、マルタは本当にネコが多い。

 

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【ウ】旧フロリアーナ駅の地上部に残る、地下トンネルの換気塔。

 

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【エ】駅を出るとすぐに、鉄道は地上へと出ていた。塞がれたトンネル入口、および路面には路盤跡を示す斜めのラインが残る。

 

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【オ】更に少し先には、ヴァレッタ市街の一番外側の堀を渡る橋梁と、城壁をくり抜いた短いトンネル跡も残っている。草が生い茂り、橋梁上には近づきにくい。

 

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https://www.google.co.jp/maps/@35.8870277,14.495395,131m/data=!3m1!1e3?hl=ja

【カ】↑この地点を航空写真で見てみると、画面中央辺り、住宅がひしめいている真ん中付近に、鉄道跡のラインが緩やかな弧を描いているのが分かる。(マップ埋込みでは画像が分かりにくかったため、リンク貼付けとした。PCでの閲覧を推奨。)

 

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【キ】しばらく住宅敷地へと消えていた鉄道跡も、この場所から道路として辿れるようになる。

 

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【ク】ハムルン(Hamrun)に置かれていた車庫および検修庫の敷地は、現在牛乳工場となっている。右写真のように、奥には当時の検修庫の建物がそのまま残っている。

 

現役時のハムルン駅および車庫の写真(外部サイト)

 

旧検修庫内部の現在の写真(外部サイト)

 

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【ケ】廃線跡から少し外れた所にある道路名看板。「FERROVIJA」はマルタ語で「鉄道」。つまり、道路名に今も「鉄道」の名が残っているのである。

 

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【コ】ハムルン(Hamrun)駅跡。現在は少年団体の敷地となっているが、駅舎およびホーム屋根が当時のままで残っている。

 

https://www.google.co.jp/maps/@35.8877368,14.4892552,60m/data=!3m1!1e3?hl=ja

【サ】↑ここの航空写真も画面中央を見てもらうと分かるが、住宅が集まる箇所の真ん中に、カーブを描いた鉄道跡がはっきりと見て取れる。(PCでの閲覧を推奨。)

 

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【シ】ここから再び、廃線跡は2車線の道路となる。

 

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【ス】イムシーダ(Msida)駅跡は、右の教会のたもと付近である。道路化されているため、痕跡はほぼ皆無である。

 

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【セ】ここのバス停にも「Ferrovija」の文字が。すなわち、バス停名そのものが「鉄道」なのである。

 

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【ソ】サンタ・ヴェネラ(Santa Venera)駅跡付近。通り名「旧鉄道線路」(Old Railway Track) として、廃線跡の道路が真っ直ぐに続く。ここはマルタ鉄道随一の直線区間で、ヴァレッタから来た列車もここで一番飛ばしていたという。

 

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【タ】右上の看板にも「FERROVIJA」(鉄道) の文字が。

 

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【チ】廃線跡沿いには「RAILWAY BAZAAR」の看板も。営業している様子は無かったが、鉄道の面影を伝える物があちこちで見られる。

 

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【ツ】更に先の地点にあるバーの店名も「RAILWAY」。かつて鉄道があったという事実は、今も確かに人々に受け継がれている。

 

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【ツ】マルタ鉄道の主要駅の一つだったビルキルカラ(Birkirkara)駅跡は、現在公園に。随所に鉄道の面影やメモリアルが散りばめられ、ここは線路の模様にタイルが敷かれている。

 

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【ツ】現役当時のビルキルカラ駅。左の教会尖塔やホーム上の植生は、今も現存している。

 

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【ツ】公園内の案内板にも旧鉄道駅の表記やその解説、更に金属製のメモリアル板も設置されている。(↓以下各説明板の和訳)

〈左下〉「旧鉄道駅 - ここは1883年にヴァレッタとイムディーナの間で営業を開始した鉄道サービスのために、19世紀後半に造られた。サービスは1931年まで続いた。」

〈右上〉「当初、マルタ鉄道は私設会社によって運行されていたが、1891年、政府によって買収されなければならなくなった。」

〈右下〉「マルタにおける鉄道サービスは、正式には1883年2月28日に就業し、通常旅客サービスはそれに続く3月1日に始まった。」

 

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【ツ】かつてビルキルカラ駅および駅舎に通じていた階段。現在もそのまま公園入口として現存している。

 

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【ツ】薄橙色のマルタストーンで出来たビルキルカラ駅舎や、旧ホーム屋根もそのまま現存。廃線後は長く公的機関の建物として使われてきたそうだ。

 

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【ツ】保育スペースとして使われてきた駅舎ホーム側には、駅名入りの駅舎出入口、更に1等車や3等車の表記が残った旧窓口もある。

 

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【ツ】旧ホーム上屋はレールで組まれた物が現在も使われ(左)、駅舎そばには鉄道当時の花壇も残っている(右)。

 

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【ツ】更に駅舎付近には、撤去されたレールが公園隅の方に山積みされている。90年近く前の廃止にもかかわらず、撤去レールがそのままとは驚きである。

 

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【ツ】駅舎付近よりイムディーナ(Mdina)方面を望む。ここのタイルも線路の模様に敷き詰められている。

 

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【ツ】ビルキルカラ駅跡での1カット。この付近もネコ溜まりと化しており、マルタは本当にネコが多いのだと実感させられる。

 

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【テ】マルタ鉄道における現存唯一の客車。元々ビルキルカラ駅跡に保存されていたものが、状態悪化により補修されることになり、現在ビルキルカラ地方議会(Birkirkara Local Council)の敷地内に置かれている。

 

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【ト】ここからまた廃線跡はしばらく道路となる。イムディーナ方面を望む。

 

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【ナ】廃線跡沿いには「旧鉄道線菓子店」なるものまで。当時の写真も掲載されており、鉄道の歴史に対する愛着が感じられる。

 

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【二】ここの通り名看板にも「Ferrovija」(鉄道) の文字が。

 

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【ヌ】更にこのアパートの名前にも「旧鉄道」の文言が。ちなみにこの付近には、バルザン(Balzan)駅があった。

 

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【ネ】サン・アントニオ(San Antonio)駅跡。ひなびた駅だったそうだが、奥の巨木にその面影を残している。

 

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【ノ】サン・アントニオ駅跡を過ぎると、廃線跡の見所の一つ、当時のままの路盤と築堤が姿を現す。

 

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【ハ】築堤には小さな架道橋跡のアーチも残されている。閉塞されてはいるが、英国様式ながらマルタストーンで出来ている様は独特である。

 

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【ヒ】更に大きな架道橋跡。かつては間に1本橋脚があり、ガーターが架かっていた。90年近く前の廃線とは思えないほど綺麗に残っており、立派な橋台とマルタストーンで固められた築堤は実に堂々たるものである。

 

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【フ】アタード(Attard)駅もマルタ鉄道の主要駅の一つだった。現在は公園化されているが、ここにも随所に遺構やメモリアルが。左をよく見ると・・・

 

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【フ】SL型の遊具が設置されており、ここに鉄道が走っていたことを何気なく伝えている。鉄道の無い国・マルタの子供たちには、鉄道という乗り物はどう映っているのだろうか。

 

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【フ】現役当時のアタード駅。右の駅舎や人と比べてみると、列車の車両の小ささがよく分かる。

 

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【フ】駅跡の公園の隅には、古レールに固定された鉄製の説明プレートが掲げられている。内容によると鉄道現役時より現存する物のようである。

〈説明板和訳〉「1895年にタ・シビイシェ(※スペル:Ta' Xbiex)の別荘保育園で撒かれた種から育った、これらのイナゴマメの木は、1897年にこの駅(アタード)に移植された。」

 

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【フ】この公衆トイレの建物は、左上に「ATTENDANT」の文字があることから、鉄道時代からの物であると思われる。

 

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【フ】アタード駅跡にもやはりネコ溜まりが。マルタは本当にネコの楽園である。

 

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【へ】アタード駅からサン・サルヴァトーレ駅までの区間は再び道路として、住宅街の中を突っ切っていく。

 

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【ホ】サン・サルヴァトーレ駅手前の橋梁は、鉄道時代の物がそのまま道路橋になっている。橋の上の幅や橋の横に、当時の面影を残す。

 

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【ホ】橋を越えるとサン・サルヴァトーレ(San Salvatore)駅跡に到達する。右写真のように鉄道時代からのヤシの木が今も現存している。ここから先は田園地帯になるが、この先しばらく路盤は失われている。

 

現役時のサン・サルヴァトーレ駅の写真(外部サイト)

 

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【マ】しばらく行くと田園地帯のど真ん中で突如路盤が復活する。当時の石組みを両サイドに残しつつ、農道として真っ直ぐ伸びている。

 

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【マ】廃線跡から眺める、花畑に浮かぶイムディーナ(Mdina)の街並み。撮影した時期は真冬だが、温暖なマルタではこのように春爛漫の陽気なのである。

 

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【マ】付近では途中、このような細長い金属片らしき物を発見した。犬釘の残骸だろうか。

 

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【ミ】廃線跡そばに停められた車を見ると、何と日本の京都・亀岡から遥々海を渡って来た中古車である。遠い異国の地の廃線跡で、自身の地元・関西出身の車に遭遇するとは、実に奇遇である。

 

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【ミ】廃線跡を横から見ると、路盤の両側を固めたマルタストーンの石組みが、今もそのまま残されている。

 

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【ム】途切れ途切れながらも、路盤は田園地帯を農道として、鉄道らしいカーブを描きながら進んでいく。因みにこの付近を歩いていると、近くの農夫が「お前何しに来た!?」といった様子で飛んで来た。何も無い田園地帯に外国人が来ることなどまず無いので、当然の事だろう。

 

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【メ】この場所で廃線跡は立入禁止となり、路盤は少し先で再び途切れる。

 

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【メ】上の地点から眺めたイムディーナの街並み。街も少しずつ迫ってきた。終点も着実に近づいている。

 

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【モ】別の道路から眺めると、石組みのアーチ橋だけが、田園地帯のど真ん中にポツンと取り残されているのが見える。(右は拡大写真)

 

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【ヤ】1900年に一区間先へ延伸されるまで、イムディーナ(Mdina)側の終点だったノータビル(Notabile)駅跡。現在でも駅舎が残されているが、建物は特に使われている様子は見受けられなかった。

 

現役時のノータビル駅構内の写真(外部サイト)

 

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【ヤ】ノータビル駅旧構内(線路敷跡)を見ても、鉄道当時の面影をあまり見出すことは出来ない。中ではロバが飼育されており、柵に近づくと構って欲しげにこっちに寄って来た。

 

なお、上の写真の左奥辺りで、イムディーナの地下を抜けるトンネルに突入していたというが、現在公道からはその坑口の姿を見ることは出来ない。その入口を少し前に撮影した写真を見つけたので、以下にリンクを貼っておく。↓

イムディーナトンネル・ヴァレッタ側坑口の現在の写真(外部サイト)

 

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【ユ・ヨ】イムディーナ トンネルの換気塔、その①。鉄道が無くなり、トンネルが放棄されて90年近く経った今もなお、換気塔は特に塞がれも壊されもせず、トンネル直上に建ち続けている。

 

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【ラ・リ・ル】イムディーナ トンネルの換気塔、その②。イムディーナを訪れる多くの観光客に、かつて鉄道が地下を走っていたことを知る者は殆ど居ないだろうが、鉄道トンネルの換気塔は、今も街中に溶け込むように堂々と建っている。

 

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【レ】イムディーナの街角で、マルタ鉄道の現役時の写真を掲げているお店を発見した。マルタ鉄道関連の物を置いているお店はそう多くないと思われるので、ある意味希少かもしれない。

 

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【ロ】街の西側出入口は、かつて鉄道駅へと通じる道として開けられたもので、現在も現役で使われている。右写真はそのスロープ部。

 

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【ワ】終点・ミュージアム駅手前の線路跡。この奥にトンネルの出入口があるはずだが、真冬でも温暖なマルタのこと、草木が生い茂り、その姿は確認出来なかった。トンネルのこちら側の内部は近年まで、キノコ栽培に利用されていたという。

 

現在は上写真の場所から先は立入禁止となっているが、トンネルが完全に放棄された後に潜入した人が、以下のリポートを上げており、現在のトンネル内部の写真を沢山掲載している。英語サイトではあるものの、写真を見るだけでも十分見応えがある。↓

3soteric3ric.blogspot.jp

 

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【ワ】路線廃止までの終点・ミュージアム(Museum)駅跡。現在も残されている駅舎はレストランへと改装されており、旧駅舎入口にも「MUSEUM STATION」の表示が復元されている。

 

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【ワ】レストラン内の旧プラットホーム側にもホーム上屋が当時のまま。左の旧線路部分には、僅かに写っているように新しく建物が建っている。

 

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【ワ】現役時のミュージアム駅の写真。駅名は文字通り、近くに博物館があった事に由来するという。

 

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【ワ】ミュージアム駅のレストランで食すハンバーガーは、少し割高ながらも絶品である。ちなみにかつてレストラン内には、SLの大型模型などマルタ鉄道関連の展示もあったが、改装後は無くなってしまったようだ。

 

ちなみに、現在イムディーナ界隈では、観光客向けに汽車型ライド「メリータ・トレインズ」なるものが運行されている。マルタ鉄道のメモリアルも兼ねているようで、旧ミュージアム駅前や旧線路敷の一部も経由する。ゴムタイヤ式の自動車だが、旧鉄道を彷彿とさせる乗り物でイムディーナ観光をするのも楽しそうだ。(以下英語版サイト↓)

www.airmalta.com

 

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【ワ】ミュージアム駅から先にもしばらく、長い引上線が伸びていた。旧路盤は舗装されて道路になっている。

 

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【ヲ】その引上線跡はこのように、かなり立派な築堤とアーチ橋を築いた上で造られていた。更に先へ延伸することも見越していたのだろうか。右写真のアーチ橋は、マルタストーンと英国様式の組合せが見事である。

 

★ その他の見どころ ★

マルタ鉄道の博物館

上の「廃線跡を歩く」の項でも紹介したアタード(Attard)駅跡の近くには、マルタ鉄道関連の展示をした小さな博物館がある(場所はこちらのサイト(トリップアドバイザー)に地図がある)。

中には、 当時の部品の現物 や、 各駅を再現したジオラマ  現役時の写真  パネル展示 などがあるようである。

館内の様子は以下のリンクに写真が沢山掲載されている。↓

maltarailway.blogspot.jp

博物館といっても個人が設営している小さな展示室のようで、常時開館しているわけでは無く、 電話連絡によるリクエスト開館制 のようである(連絡先等の詳細はこちらのサイト(英語)に掲載)。

言葉の違いの問題から外国人には少々難しいかもしれないが(自身はこれが理由で訪問しなかった)、英語でのやり取りに自信のある人は、トライしてみるのも良いかもしれない。

 

書籍などの関連出版物

maltarailway.blogspot.jp

当然のことながら現地ではマルタ鉄道に関する書籍も出版されており、年代により古めの物から新しめの物まで、複数存在する模様である。

自身の記憶では、これらは主に現地の書店や土産物店などで取り扱っている、と聞いたように思うが、自身の滞在中にそれらの店をあまり多く回らなかった関係もあり、所在の多少は半ば未確認である。

とはいえ、マルタを訪問された際に土産物店などで見かける機会があれば、一度手に取ったり入手するのも良いだろう。

 

なお、DVDも発売されているというが、こちらは日本の映像方式(NTSC)と欧州の映像方式(PAL)の違いから、 日本では再生出来ない可能性も高い 

 

土産品の置き物

現地のクラフト工房からは、当時の汽車やSL列車、駅などを再現した、ハンドメイドの置き物が販売されているという話もある。

maltarailway.blogspot.jp

自身もマルタ滞在中、イムディーナ(Mdina)などの現地の土産物店を何箇所か見て回ったが、実際に店で置いてあるところは見かけたことが無く、現在でも販売されているかどうかは分からない(おぼろげな記憶では、オーダーメイドだったと聞いた気もするが、定かではない)。

しかし、これもマルタの何処かの土産店で見かけることがあれば、マルタ鉄道の立体模型を入手出来る、希少なチャンスである事は間違いない。

 

********************

 

現地滞在中、日本人とマルタ人のこんなやり取りを耳にした。

 

日本人「(マルタの交通の不便さを理由とし)マルタにも電車が走っていればいいのに!」

マルタ人「電車?(マルタには)電車なんて要らないよ!」

日本人「いやいや、必要だって~!」

 

実際、マルタの主な公共交通であるバスは、時刻表は殆どアテにならず、確かに日本人には不便である。

定刻通りに走り、何処でも行ける日本の電車に慣れた日本人と、国土の小ささと人口の少なさから、電車の無い生活に慣れたマルタ人。公共交通としての鉄道に対する両者の考え方の違いが際立った様は、印象的であった。

 

しかし、そんな現在のマルタでも、鉄道復活の可能性がゼロかといえば、決してそうではないようだ。

 

政府から、 新たな鉄道導入の可能性を検討することが発表 されたのだ。

 

2015年、マルタの交通大臣は、交通渋滞の緩和を狙いとして、新しい鉄道路線を敷設する可能性に言及した。(↓以下は参考記事〈英語〉)

www.timesofmalta.com

現時点ではまだ構想の具体化は進んでいないと思われるが、車社会であるがゆえに、首都ヴァレッタやリゾート街スリーマ(Sliema)などの繁華な場所では、ラッシュアワーに道路渋滞が発生していることは間違いない。

 

ただ、大量輸送を前提とする鉄道のこと、マルタの多くのバス路線はさほど混雑しないため、マルタの国土を広範囲にカバーする鉄道が走ることは、流石にもう無いであろう。

それでも、上に書いたようなヴァレッタやスリーマなどの中心街では、バスも混雑するほど利用者が多く、先述の通り道路渋滞も頻繁に発生しているので、例えばライトレール(トラム)をヴァレッタ~スリーマ間に走らせる、というのであれば、十分現実味はあろう。

実現の可能性はまだ未知数だが、果たして今後この小さな国に、日本の沖縄都市モノレールゆいレール)のように、鉄道が長い時を経て戻ってくる日が来るのか、注目されるところである。

 

そのような形で現在はまだ、鉄道は遠い過去の物となっているマルタだが、一つ視点を変えてみて、鉄道の無い国にあえて鉄道の香りを求めて、かつての鉄道の遺構を訪ね歩く、或いは廃線跡を辿り歩く、そのような一風変わったマルタ紀行により、90年近く前から既に叶わなくなってしまった、いにしえのマルタでの鉄道の旅に思いを馳せてみる、というのも、なかなか面白いかもしれない。

 

★ 参考文献 ★

●ブログサイト「Malta Railway 1883 - 1931」http://maltarailway.blogspot.jp/

●ウェブサイト「Malta Railway.com」http://maltarailway.com/

WikipediaMalta Railway」https://en.wikipedia.org/wiki/Malta_Railway

●ウェブサイト「Maltese Public Transport since 1856 - Maltese History & Heritage」https://vassallohistory.wordpress.com/maltese-public-transport-since-1856-a-brief-history-of-the-public-transport-in-malta-the-omnibus-up-to-the-mid-1800s-the-only-means-of-human-transport-w/

 

その他若干参照のウェブサイト多数(記事中にリンク貼付のもの含む)

【未成線】叡山電鉄の延伸計画を歩く(京都)

~ 出町と八瀬、本線両端に存在する幻の延伸線 ~

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京都・洛北地域を走る、叡山電鉄

鄙びたローカル私鉄でありながら、比叡山貴船、鞍馬などの観光地を結んでおり、出町柳から京阪電車により大阪方面へ連絡しているため、日々生活や観光の重要な足として活躍している。

 

この叡山電車、路線構成は出町柳八瀬比叡山口叡山本線、宝ヶ池~鞍馬が鞍馬線となっているのだが、うち前者の両端駅からは、かつて延伸計画が存在していた。

今回は、知る人ぞ知る存在で、かつて工事にも着手されたという出町柳からの延伸計画と、現在は殆ど知られていないと思われる八瀬(比叡山口)からの延伸計画を紹介する。

 

出町柳からの延伸線 ★

この計画線は出町柳~三条間で計画されていたもので、現在の京阪鴨東線区間同)の原型となる計画である。

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(↑※途中駅については不詳なため、図中では割愛している。「[新]出町柳(予定)」については後ほど解説する)

 すなわち、鴨東線も計画当初の段階では、叡山電車を三条まで延伸する予定だったのである。

 

現在の京阪鴨東線が開業したのは ちょうど平成の世に入った頃だが、その原型となる計画は大正13(1924)年まで遡る。

 

この頃の叡電延伸計画は、

出町柳~三条は鴨川沿いの地上に敷設

京阪電車との相互直通を前提

といったように、現在の京阪鴨東線とは(当然かもしれないが)幾らか形態の異なるものであった。

 

路線距離は2.4㎞軌間・動力・電圧等は既存の叡山電車と同一と考えて良い。

 

そして、この計画線で特筆すべきことは、計画されてから京阪鴨東線に計画変更されるまで、敷設免許を取得しただけで終わり、ではなかったという点である。

免許取得後、戦前に一度建設工事が行われているのである。

 

詳しくは後項の略史で説明するが、着工されたにもかかわらず この時実現しなかったのは、他の未成線と同じように、戦前社会のゴタゴタの煽りを受けてのものである。

 

-歴史-

大正13(1924)年:敷設免許を取得

この計画が始動したのは、まだ現在の叡電(当時は京都電灯の路線;以下同)が建設中で、開業する前からのことである。

昭和3(1928)年:レール調達、用地買収等に着手

(↓以下年代不詳)

建設工事に着手

この時、京都市電丸太町線との交差問題などがまだ解決されておらず、京都市との協定も結ばれていなかったが、叡電側は着工を急いだため、問題該当箇所を除いての工事着手となった。

工事が中止される

波乱の多い昭和前半の時代のこと、建設途中で工事が中止となった主な要因としては、

昭和恐慌の襲来

室戸台風や鴨川大洪水(建設資材が災害復旧資材として流用されたという)

第二次大戦の勃発

だという。工事にも着手された叡電による三条延伸は、事実上ここで未成に終わる。

昭和25(1950)年:京福・京阪両社間で鴨東線に関する協定を締結

この時に定められた計画では、叡電(この時の運営会社は京福)の出町柳駅を加茂大橋の南東部分に移転するというもので(出町柳の新駅移転は後の「未成線を歩く」の項でも触れる)、まだ鴨川堤防上の地上を走る事になっていた。

昭和28(1953)年:京都市から地下線での建設義務が課される

この年の京都市会で鴨東線建設決議がなされたが、景観問題や今出川・丸太町・二条各通りとの交差による交通問題から、当初の地上線での建設は認められなくなった。これにより、地下線建設費の捻出が難しい京福は、毎年免許の更新を続けるだけに留まる、という状況が長く続く。

●昭和47(1972)年:鴨川電気鉄道が設立される

このまま再び停滞しかねなかった鴨東線だが、昭和46(1971)年の都市交通審議からも、早期建設路線との答申が上がり、京阪の既存線(七条~三条)の地下化計画の進展とも合わせて、その実現に向けて進めるべく、京阪・京福両社出資の下で当社が設立され、建設・経営を任せることになった。

このときはまだ、京阪と叡山線を相互直通運転させる事が前提となっていた(叡山線側は200形300形車両を中書島まで、京阪側は岩倉や八瀬遊園(当時)まで乗り入れる予定だったという)。

昭和49(1974)年:京福叡電)側の敷設免許が失効

それと入れ替わるように、同年の免許失効5日後、鴨川電鉄が同区間の免許取得となった。

昭和59(1984)年:鴨東線が京阪の路線として着工

京阪と叡山線の直通運転が断念されたのはこの頃と思われる。理由としては、叡山線の大幅な改良が必要なことと、両路線の輸送需要の差が大きすぎるためだという。

平成元(1989)年:京阪鴨東線が開業

叡電の手による延伸や京阪との直通運転こそ叶わなかったが、長らく鉄道ネットワークの空白だった路線は、最初の計画から実に65年の時を経て、京阪の延伸という形で実現した。

 

このように当初から大きく形を変えた鴨東線だが、実は当初の叡電による延伸工事の痕跡や名残は、現在でも僅かに見る事が出来る。以下の項で詳しく見てみよう。

 

未成線を歩く-

・現地踏査時期:各写真により異なる(撮影年を併記)

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現在の出町柳駅北端。手前の1番線と真ん中の2番線の2線から、三条方面へ向けて線路が延伸される予定だった。(2015年9月)

 

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現在こそ1番線(図の一番上の配線)は1両分の長さに後退しているが、かつては開業時の図のように2両分の長さがあり、一つ下の2番線と同じだけの長さだった。

つまり、先への延伸には十分対応していた線路配置だったということである。

 

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開業時からある出町柳駅の上屋。寺社様式の立派な物にも見えるが、こちらも実は三条延伸までの間の仮設物として建てられたものだという。(2015年9月)

 

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戦前の出町柳駅の写真を見てみると分かりやすい。屋根部分は随分立派に見えるものの、それを支える柱たちは華奢なようにも見え、仮設物であるというのも納得がいく。よくぞ現在まで残ってきたものだ。

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(↑上の写真の抜粋元。2015年11月の駅構内の掲示

 

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駅の終端部。この部分から三条方面へ線路が延ばされようとしていた。一見すると延伸構造にはなっていないようにも見えるが・・・

 

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よく見ると、上屋の柱と梁が2線分を収められるだけのアーチ状になっており、架線の終端部も基本的には天井吊りとなっている。先程の線路配置とも合わせると、前を塞ぐ物さえどかせば、十分路線が延伸できるようになっている。(2015年9月)

 

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【ア】叡電による三条延伸工事の唯一の痕跡ともいえるのが、こちらの塀。タクシープールや駐輪場のある敷地に対して、斜め向きに建っている。(2014年9月)

 

【ア】航空写真で見てみると分かりやすい。中央の十字印の右に、先ほどの斜めの塀がある。上の出町柳駅から線路を伸ばした一直線上の向きに建っている事が分かる。

 

【ア】やや不鮮明だが、昭和20~25(1945~50)年頃の航空写真を見ると更に分かりやすい。同地点で延伸工事が行われた痕跡が、よりはっきりと見て取れる。

 

【イ】昭和25(1950)年の計画では、加茂大橋南東のこの場所に出町柳駅を移設し、叡電の線路をここまで延ばした上で、三条まで延伸するとしていた。つまりここには、叡電の未成新駅が「存在」していることになる。

この計画も、京都市から地下線での建設を義務付けられたことにより、流れている。

 

★ 八瀬からの延伸線 ★

昭和61(1986)年の『レイル No.17』P.28には、こんな興味深い記述がある。

本来の形で鴨東線が建設されたならば、京阪電鉄がここから比叡山にトンネルを掘って、琵琶湖々畔の堅田まで直通電車を走らせる計画だったとか。

比叡山への玄関口として造られた八瀬(比叡山口)駅。最初から終着のままを前提にしていたのかと思いきや、驚く事に、堅田方面への延伸が構想されていたのである。

 

【18/8/16追記

ごく最近アクセス解析をしていると、ツイッター上で以下を始めとした連続ツイートを偶然見つけた。

恐縮ながら、その一部を引用させて頂こう。

 

画像の出典として示されているのは以下の通り。

 

八瀬(比叡山口)駅から線路を延ばし、京阪電車堅田まで直通させようとしていた延伸計画

実は、どうやら 戦後の計画だった ようである。

 

京阪電車およびその系列の路線拡大計画といえば、戦前の「京阪王国」と呼ばれていた拡大方針が有名である。

現在では小ぢんまりとした八瀬比叡山口駅から、比叡山にトンネルを掘って滋賀県側の堅田まで路線を延ばす…といったくらいのスケールの大きな話を聞くと、その壮大さから「戦前の『京阪王国』時代の計画かな…」とも思い込んでしまう。しかも、戦前に造られた八瀬(比叡山口)駅が延伸構造のような造りになっている(後述)となると、尚更それで正しいと思えてしまう。

しかしよく考えてみると、「八瀬から堅田までの延伸構想=戦前の計画」を裏付ける明確な根拠は、上に示した物以外には無い。どうやら、自身の頭の中で思い込みが独り歩きしてしまったようである。

 

本記事では戦前の構想である前提で話を進めてしまったが、根拠や資料の乏しい中での憶測による、ズレた内容を大々的にこの記事に書き込んでしまったことは反省したいところである。だが、かといって内容を全て正しいものに直そうとなると、本項目の内容をほぼ全て書き換えなければならないことになる。

そのため、従来の内容はあくまで「過去の記述」として敢えて残すこととし、その手前(「八瀬からの延伸線」項目の冒頭付近)にこの追記を示すことにより、読み手の方々に最初に正しい史実を知っていただこう、ということにした。

項目の冒頭から追記を加えたのは、内容の根幹に関わるこのような理由からである。追記部分から後の記述(従来の内容)と追記とでは内容が噛み合わない部分が多々出てくるが、「八瀬からの延伸線」項目においては、追記が最新の正しい情報であり、それ以外は過去に書いた訂正前の内容であると理解して頂きたい。

 

話を延伸構想の中身に戻すことにするが、連続ツイートの中では以下の説明(下半分のツイート)も付けられている。もう一つツイートを引用させて頂こう。

 

話を総合するとこの路線構想は、京阪の影響下にあった江若鉄道湖西線転換による廃止の後も、京阪の沿線への影響力を保つため、現在の小野駅近くに住宅開発計画を立て、そのアクセス路線として俎上に上げられたもの…ということだそうだ。

うち京阪の鉄道は実現しなかったが、同地での住宅開発の方は実現している…というのは、上のツイートでも書かれている通りである。

 

なお一連のツイートの中では、八瀬~堅田間の経由地は大原経由ではないかという言説が上がっているが、本項目の冒頭に示した『レイル No.17』P.28の引用文には「比叡山にトンネルを掘って」と書かれている。

仮にこの書籍の記述の方が正しいとして、八瀬~堅田間は「比叡山トンネル」経由…というのが事実だとすれば、下の図のようなルート設定も想定されるのではないだろうか。

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最初に引用したツイートの画像(路線のイメージイラスト)の描かれ方や、ツイッター上で書かれていた事と併せて勘案すると、現在のJR小野駅より南から路線は一旦西進し、山にぶつかる前に南へと進路を変える。しばらく南進したのち、比叡山北東の山麓付近から「比叡山トンネル」に突入し、そのまま八瀬(比叡山口)駅まで直行する…といった感じだろうか。

あくまで上の図は自身による大まかな個人的予想図に過ぎず、小野駅付近以外は一部史実とは異なっている可能性もあるが、本ブログに於いてはこのような見解である…と理解して頂きたい。

 

追記についてはここまでとするが、もし鴨東線叡電・京阪直通の形で実現し、この路線が造られていれば、叡電は京阪に吸収合併され、京阪の路線の一部となっていただろう…と考えると、ロマンが湧いてくる。

 以下は追記により「訂正」する前の過去の内容 である。

追記終わり】

 

上の記述を大まかに地図に落とし込むと、以下のような感じ。

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先の引用の通り、構想区間は八瀬(比叡山口)~滋賀県堅田付近、なおかつ比叡山内は長大なトンネルで貫く事としていたようだ。

 

なお、路線距離や経由地などの詳細は不明なため、本項においては路線データや略史は割愛するが、『鉄道未成線を歩く 私鉄編』の免許線リストを見る限り、該当区間は掲載されていないので、少なくとも敷設免許の取得は行われていなかったようである。

 

このように、一見すると単なる漠とした構想のようにも思えてくるが、実体に現れていない机上だけの計画かといえば、どうやらそうではないようである。

 

実は、開業時とほぼ変わらぬ姿を見せる現在の八瀬比叡山口駅を見てみると、「延伸構造」になっている のである。

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上の図は一般的な行止り駅と八瀬比叡山口駅の大まかな構造を比較したもの。

一般的な終着ターミナルと言っても、あくまで大雑把な平均傾向であり例外も沢山あるが、大体の終端ターミナルと言えば、ホームは櫛形の突端式、その行き止まりの先に駅舎があるというパターンが多い。

つまり多くの終端駅は、完全な行き止まりを前提とした構造になっており、延伸はまず不可能な造りとなっている。

 

しかし、八瀬比叡山口駅の場合はそうではない。

ホームが櫛形という点こそ変わらないものの、駅舎は駅に横付けする形を取っており、現地状況も付加すれば、車止めの先を塞ぐような大きな構造物も殆ど無い。

上屋に関しても、車止めから先を閉塞するようなことはせず、終端部の先でも大きな口を開けているのである。

 

これらのことから、八瀬(比叡山口)駅は、将来の路線延伸にも対応した造りとなっていると考えられるのである。

 

その様子を実際に現地の写真と共に見ていこう。

 

未成線を歩く-

・現地踏査時期:各写真により異なる(撮影年を併記)

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車内より八瀬比叡山口駅を望む。先に線路が延びていれば、そのまま通り抜け出来そうな造りである。

イベント時に撮影したため、右にデト1001が停まっている。(2016年3月)

 

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夜間の写真で恐縮だが、八瀬比叡山口駅の全景。地元人にとってはすっかりお馴染みの光景だが・・・(2015年11月)

 

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同アングルの開業時の写真。当時から変わっていないこの駅は、この時の写真で見ても、大きなホーム屋根こそあるものの、先に線路を延ばすことを考えれば、2面2線の途中駅に改造出来そうである事が分かる。

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(↑上の写真の抜粋元。2015年11月の車内の掲示

 

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駅の終端部。こちらも構造をよく観察してみると・・・

 

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車止めの先で上屋が2線分を通せるだけのサイズでポッカリと開いており、架線の終端も天井吊りとなっている。このまま容易に線路を延ばせそうなので、延伸を見越した造りになっている可能性は高い。(2003年)

 

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これも夜中だが、駅舎に相当する駅入口部分。こちらも駅に横付けされるように設置されている。(2015年11月)

 

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開業時の写真。右に八瀬駅舎が見える。微妙に位置が違うようにこそ見えるが、基本的な配置は変わっていない。

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(↑上の写真の抜粋元。2015年11月の駅構内の掲示

 

駅終端部の先を横切る道路。実はプラットホームと同じレベルであり、右の駅から延伸するなら掘り下げる必要がある。しかし、決して難しい事ではないと思われる。

 

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川より眺める八瀬駅の古写真。左に八瀬駅の建物が大きく口を開けている。延伸すれば左から道路を横切り高野川を渡ることになるが、流石に橋梁の準備工事まではされていなかったようだ。

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(↑上の写真の抜粋元。2015年11月の駅構内の掲示

 

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【ウ】八瀬比叡山口駅から一直線上の先にある地点。この場所から比叡山へのトンネルに突入する予定だったことになる。実現していればどのような姿のトンネルになっていたのだろうか。

 

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最初に開業した区間のままで、延伸線が実体として現れることは無かった、叡山本線

 

仮に未成区間が実現していたとすれば・・・

出町柳~三条なら、予定通り京阪との直通運転が行われていれば、現在の叡山電鉄は、阪急グループでいう能勢電鉄のような姿になっていたかもしれない。

叡電の沿線も、能勢電同様に住宅開発が更に盛んに行われていたかもしれない。

八瀬~堅田なら、予定通り比叡山を長大トンネルで貫き、直通列車が琵琶湖湖畔までレジャー客を乗せて駆け抜けていただろう。

 

また、堅田といえば、かつて現在の京阪石山坂本線が、坂本から先の延伸先として計画していた場所。

この路線と叡電の延伸線が両方とも実現していれば、きっと以下のような路線ネットワークが実現していた事だろう。

もちろん、これらほぼ全ての線路が繋がるという形で。

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(※他社線や他の未成線は省略している。)

 

ただ、琵琶湖畔の堅田と言えば、これまでも江若鉄道湖西線が通ってきたものの、観光地やレジャー先といったイメージは、さほど強くない。

現在でも関西圏の郊外の街といった感じで、そこまで人が訪れる感じはしない。

果たして京阪が莫大な資金を投じて長大トンネルを掘り、堅田の開発を行ったところで、採算が取れただろうかと考えれば、疑問に思えてきてしまう。

 

鴨東線こそ重要な幹線的新線として長く位置付けられてきたものの、琵琶湖畔の閑散地帯とも思えそうな所まで、わざわざ長大トンネル掘削という大掛かりな事を成してまで進出しようという発想があったとは、いかにもかつての「京阪王国」らしい、夢に溢れた時代であるなと実感させられる。

 

★ 参考文献 ★

●プレス・アイゼンバーン『レイル No.17』(昭和61(1986)年、エリエイ出版部)

※上誌の特集「京福電車の歴史と現状」を参照。

※上誌内では参考文献として『鉄路五十年(京阪電鉄50年史)』『京都電灯50年史』『京福電鉄30年史』なども挙げられている。

Wikipedia『京阪鴨東線

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%98%AA%E9%B4%A8%E6%9D%B1%E7%B7%9A

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(平成13(2001)年、JTB出版事業局)

●高山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔II』(平成14(2002)年、JTB出版事業局)

Wikipedia『京阪石山坂本線

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%98%AA%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%B7%9A

 

その他ウェブサイト若干