幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【廃線跡】車庫跡に埋まる京都市電のレール

~ 40年以上経た今なお線路はアスファルトの下に ~

 

ある日、とある町歩きミニツアーのウェブサイトを見ていると、こんな趣旨の情報が目に飛び込んで来た。

 

京都市電の線路が埋まってる場所が、まだ他にもある――」

 

私は本当に驚いた。「市電のレールが他に残ってる所がまだあるのか!」と。

実際、稲荷電停跡や七条大橋に市電の線路が埋まったまま残っていることは(後述)以前から知っていたが、なにせ40年以上も前に路線網が全廃された京都市電のこと、線路が撤去されずに残っている所が更に存在しているとは思ってもみなかったからだ。

しかもその場所は、10年ほど前に市電のレールが掘り返されたと聞いていた場所。掘り返されたからには完全撤去されたのだろう…と思い込んでいただけに、なおさら予想外だった。

 

情報元のサイトに書かれた内容を読み込んでみると、その場所は かつて市電の壬生車庫があり、現在一部が京都市バスの壬生操車場 となっている所。ストリートビューでも同地をチェックし、レールが埋まっているのがその場所であるという確認を取ることが出来た。

 

本ブログでは急遽、執筆者が現地に赴き、現在もアスファルトの下に残されている京都市電の線路について、本記事でリポートし まとめることにした。

 

★ 概要 ★

市電の更なるレール残存箇所がかつての壬生車庫跡(現在一部は市バス操車場)であることは分かったが、「そもそも壬生車庫とは?」という基本事項について説明しておく。

 

この車庫は京都市営の路面電車が営業開始した明治45(1912)年に開設され、京都市電の中でも古い歴史を持つ。車両工場も併設され、四条通など市内中心部を走る系統(1系統ほか)を受け持つなど、市電の「要」となる機能を担っていた。

車庫廃止前には計5つの系統を受け持っていたが、3つの路線(四条・大宮・千本線)の廃止と同時に、車庫も昭和47(1972)年に廃止京都市電の全廃が昭和53(1978)年なので、その6年前には無くなったことになる。[*1

場所は上の地図の通りで、阪急大宮駅や嵐電四条大宮駅の近く。地図中のピンを中心として、アルファベットの小文字の「r」のような形をした敷地がかつての車庫である。

中京警察署の右隣にある交差点の名前が「壬生車庫前」のままである所にも名残が見られる。

跡地は市バス操車場などの一部を除き、現在は大規模な団地となっている。

 

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上の図は沖中忠順(著)『京都市電が走った街 今昔』(2000年、JTB出版事業局)のP.133より引用した、当時の壬生車庫の構内図。横倒しで描かれているため、左が北である。

こうして見てみると、先にも述べた車両工場の各種部門が所々に配置されており、左上には京都市交通局の庁舎も置かれていたため、かなり大規模な施設であった。市電の主要車庫であり、京都の市営交通の拠点でもあったことが分かる。同じく左上の車庫入口付近には、複線の大型ループ線も設けられていた。

 

なお、現役当時の様子については、こちらのウェブサイトに写真が沢山掲載されている。

全廃前の市電の車庫の中では最も歴史が古かっただけあって、構内には印象的なレンガ造りの建屋があったそうだ。

 

さて、ここからが本題である。

下の図は上で引用した構内図の左上を拡大したもの。交通局庁舎と運輸事務所の間の車庫入口の辺りである。

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おおよそこの付近が現在 市バスの壬生操車場となっているのだが、その操車場の入口部分に、図の 赤丸で囲った部分の線路が今もアスファルトの下に埋もれており 、それを見ることが出来るというのである。

 

この情報を知ったのは、京都及び関西圏で町歩きを催行している「まいまい京都」と呼ばれるミニツアーのウェブサイト。そこに掲載された以下のページからである。

www.maimai-kyoto.jp

このツアーコース自体はバスをテーマの主軸に据えたものだが、京都市バスの歴史を取り扱っていく上で京都市電についてもツアー内で紹介されるようで、その一環として今回のレールの件も取り上げられる模様である。

「操車場にレール」という文言に目が行った時点で「何処のことだろう…」と思い、上のページ内に掲載された写真や、壬生操車場がツアーコースに入っている点をヒントに、ストリートビューで確認したところ「これは市バスの壬生操車場、つまりかつての市電 壬生車庫跡にあるんだな」と突き止めたわけである。

 

壬生車庫跡といえば、10年ほど前まで残っていた京都市交通局の庁舎を取り壊す際に、(記事冒頭でも触れた様に)市電のレールが発掘され、後にそれがカット(小分け)されてイベントで販売された、という話が記憶に残っている(後述)。

その時まで埋まっていた線路は、その全てが発掘されたわけではなく、一部は掘り返されることなくそのまま残されたということになるようだ。

 

上記ツアーコースについてはスケジュールの都合から参加しないこととなったが、今まで残っているとは思わなかった車庫跡のレールだけは、別の日に独自に見に行くことを決め、現地状況をチェックしてきた。

以下で実際の現地状況と遺構の様子を見てみよう。

 

★ 遺構を訪ねる ★

・現地踏査時期:2018年10月

 

レールが埋まっているのは以下の地図、丁度ピンを立てている辺り。

 

(※以下全て敷地外から撮影。)

 

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現在の市バス壬生操車場。左にかつて京都市交通局の庁舎が建っていたが、近年移転して取り壊され、今は中京警察署が建っている。線路が残るのは右の操車場入口である。

 

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ご覧のようにバスが並ぶすぐ目の前に、緩やかな右カーブを描いた線路の形が、アスファルトの表面に浮かび上がっているのがお分かりだろうか。

 

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もう少し至近で撮影。ごく短いながらレールが下に埋まっているのがはっきり見て取れる。この時は丁度良い感じで太陽光がアスファルトに当たっていたため、よりくっきりとレールの形が浮かび上がって見えた。

 

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線路の片方を拡大。一番下ではアスファルトが割れていたため、このままいけばレール本体が露出してくるだろうか。上方では2本のレールが並んでいるとみられるので、どうやら脱線防止レール(左)と走行用レールの2つが埋まっているようである。

 

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更に2本のレール(青い網掛け部分)の周りをよく見てみると、枕木か敷石と思しき形の亀裂までもが、アスファルト表面に確認出来る。

 

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残された線路はあの1つだけかと思いきや、更にその西隣には、もう1つ線路の形の亀裂が。どうやら複線分の線路が埋まっているようである。(※2枚とも同じ写真。以下同)

 

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写真は小さいがもう少し至近撮影。先ほどの線路とは違い、こちらはレールの亀裂がやや薄っすら程度。よく見なければ気付かなさそうだ。

 

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亀裂の下端部を拡大。右下から左上に走っている僅かな亀裂の下にレールが埋まっている。特に右下の端部ではレールの形が出ているようにも見える。

 

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奥の方を見る。それほど目立つ形でレールの亀裂が出ていないため、斜めから見ると上方しか線路の形が見えなかったり、横から見ると比較的全体の線路の形が見えたりと、見る角度によって見え方が異なる。

 

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最後に複線分の線路を並べて撮影。2つの線路はやや離れて敷かれていた。市電当時の線路配置がアスファルト越しにそのまま見えている。

 

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ちなみに壬生操車場の前には、市電の架線柱(写真中央の2本の白い電柱)も残されている。かつて市電が通っていた後院通(こういんどおり)の風景も含め、廃止から40年以上経過した今でも、この周辺には市電時代の残り香がよく残っている。

 

 ★ こんな事実も ★

現地までレールの遺構を見に行った後、更にウェブ上を調べてみると、以下2つほどの事実を見つけた。

 

1つは、京都市電の廃線跡を取り上げたウェブサイトで最も有名なサイトの一つにも、何か関連する内容が書かれていないか見てみたところ、以下のページで関連する記述を見つけた。

『千本線の廃線跡探訪(壬生車庫前)』- 京都市電の廃線跡を探る

ページの中ほどには、今回新たに知ったレール遺構の 平成17(2005)年の様子 が掲載されており、それによると当時は レール・敷石各本体が地表に露出 していたというのである。

その当時から遺構が見えており、露出したレールや敷石まで見ることが出来たのなら、当時それを知らずにいて見に行けなかったことも少し悔やまれるが、何より当時からモロに本体が見えていた遺構が、撤去されることなく13年後の平成30(2018)年の現在まで、バス操車場という現役施設の地面に残り続けてきたことに驚きを感じる。

交通局庁舎の移転・解体やバス操車場の縮小(後述)という大きな変化を経ており、恐らくその過程で路面舗装の打ち直しも行われているだろうが、そのような中でも市電レールの撤去が行われなかったとなると、撤去せずに操車場の改変を行っていて支障は無かったのだろうか…と少し不思議にすら思えるものである。

 

もう1つは、京都市電の壬生車庫に関して他に何か情報は無いかと探していた時のこと。

数あるウェブサイトを当たっていたところ、以下の写真が掲載されているページを見つけた。

http://www.kyotofu-maibun.or.jp/news/h21-tyousa/21iseki/21img/heiankyou-01.jpg「平安京跡(京都市中京区壬生坊城町48番地16)」『平成21年度 発掘調査情報』- 公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター(公式サイト) より引用

上の引用元の記載にある通り、埋蔵文化財を調査研究する京都府の関連機関の発掘調査情報に掲載されていたものなのだが、上記発掘調査(2009年)の際、かつての市電車庫跡構内の 分厚いアスファルトの下に、市電の線路が敷石ごと、そのまま丸々残っていたのが出てきた 模様である。

レールは錆び付き、敷石は泥だらけなどの状態ではあるものの、出てきた軌道はほぼ車庫営業当時のまま。廃止後も殆ど手付かずの状態でそのままアスファルトを被せられ、時が止まった状態で地面の中に眠り続けてきたようだ。

 

先にも少し書いたが、ここ壬生車庫(壬生操車場)にあった京都市交通局の庁舎を取り壊す際に、市電の レールが発掘され、それが小分けにカットされてイベントで販売された 、ということがあった。その時のレール販売の模様は、こちらのウェブサイトにも載っている。

この時に販売されたレールというのは、どうやら上の写真で発掘されたレールのことのようである。遺跡調査を始めるに当たり取り除かれて一部が販売に至ったようだが、交通局庁舎取り壊しも遺跡発掘調査も同じ平成21(2009)年に行われたもの。そしてレール販売はその翌年。

つまり、交通局庁舎解体の際に周辺敷地の発掘調査も行うことになり、その際に上の写真のような線路が掘り出され、遺跡発掘のために撤去され、その撤去された一部が小分けにされて販売された…との流れということになる。

 

ではここで、なぜ発掘調査は庁舎が建っていた場所だけでなく、その一部周辺でも行われたのか?ということになる。

実は庁舎解体の際に、どうやら市バス操車場の範囲が縮小され、南西部分が警察署用地へと割譲されたようで、そのために遺跡調査が必要となり、地面が掘り返されたということらしい。この操車場縮小は、2007年および現在の航空写真を見比べてみると分かるのだが、確かに後者では操車場の範囲が北東へと後退しており、前者で操車場の一部だった南西部分は別の施設が出来ている。

そのことを頭に入れた上で、現在の操車場敷地内でもレールが埋まっており、過去の操車場南西部分だった所でもレールが埋まっていたとなれば、「それなら市バス操車場の敷地内なら大体(過去の範囲含め)レールが埋まっている(いた)のでは?」と考えたとしても不自然ではないだろう。

そのような推察を前面に据えつつ、市電時代の航空写真 および先の2つの航空写真、市電レールが掘り返された最初の発掘調査(2009年)およびその後の発掘調査(2010年)の模様、そして本記事で取り上げた現在も残るレールを合わせて考えると、以下のようなレール残存状況の推察図が出来上がる。

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「現存」は言うまでもなく本記事で取り上げた、操車場入口に現在も残る線路のことである。

「現存の可能性あり」は先述の「操車場敷地内なら他所にも線路が埋まっているのでは?」という推察に基づくもの。現在および過去の操車場内でのレール残存例から推測したものだが、あくまで「可能性」の域を出ないものであるため、実際に現在も残っている確率は高いとも低いとも言えない。

「過去に残存」は文字通り、近年まで残っていたが現在は撤去されたもので、先述の発掘調査で掘り返された線路のことを指す。範囲は最初の発掘調査(2009年)の状況だけでなく、その後の発掘調査(2010年)の状況も反映させている。ちなみに現在この位置には、中京警察署関連の建物が建っている[*2]。

「現状不詳」は、少なくとも発掘調査前にはレールが残存していたと考えられるが、過去のあらゆる状況を総合的に鑑みると、現存の可能性の高低が全く予測付かない範囲。というのも、この部分は発掘調査(2010年)の際にアスファルトが全て剥がされ砂利の地面となり、その後警察署の敷地に転用されていながら、遺跡発掘の範囲からは外れており、地面を深く掘り下げたようにも見えないため[*3]、これらの要素などから予想が付け難い箇所なのである。加えて、2010年発掘当時の状況資料(写真)がさほど多くないことも判断をつかなくしている。もしかしたら普通に撤去されているかもしれないが、この位置に建物は建てられておらず、現存の可能性はゼロとは言えないのではないだろうか。

 

既に見えている箇所や過去に掘り出された箇所以外は、当然レール残存の有無が見えないため、特に「現存の可能性あり」の部分については、現在でも地中に残っているという確とした保証はない。換言すれば、個人的な願望も多かれ少なかれ混じった推測とも言えてしまうが、それでも市バス操車場内であれほどレールが残っている(いた)となれば、もしかしたら…と考えるのも当然であろう。まだまだ埋まっているかもしれない更なる残存レールの可能性を考えると、非常にロマンが湧いてくる。

 

★【補記】京都市内における他のレール残存箇所 ★

本記事の最初において、壬生車庫跡以外にも市電の線路が埋まっている所が かねてから数ヶ所ある旨を少し書いたが、それら(計2ヶ所)についても幾らか紹介しておこう。

 

七条大橋(東側)-

見出しの通り京阪電車七条駅すぐそばに埋まっているもので、地図で示すと丁度ピンを立てている位置となる。

以前から道路上に亀裂やレール本体が現れていたものと思われるが、ここ最近になって情報が広まり、前よりも比較的知られるようになった。

 

自身がこの遺構の存在を最初に知ったのは2014年。以来数年ごとに何回か不定期に見に行き、その状況を確認してきた。基本的な状態は大きく変化しなかったものの、ほぼ見に行く度に細かい変化があったのが見られた。

本項目では2014年・2017年・2018年の計3年分の状況を紹介し、遺構がどのように変化してきたかを見ていこう。

 

(※なお、本項目で掲載している写真のうち、2014年と2017年のものについては、かつて存在した自身のツイッターアカウントで使用した物を、一部ブログ用に再編集の上で再掲載している。)

 

〈 2014年 〉

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レール埋没部の全体を眺める。矢印で示したように、線路が下に埋まっていることを示す亀裂や割れ目、レールの露出部が路面に見られる。

 

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南側の線路。ご覧のように軌道の形がくっきりと浮かび上がっており、右下ではレール本体も露出していた。

 

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左の写真のように北側の線路では、片方のレールがモロに地表に露わになっており、自動車により付いたと思われる傷が表面に幾つもあった。右写真は南側線路のレール露出部を拡大したものだが、地表面よりもやや引っ込んでおり、レール表面も北側の物より錆び付いていた。

 

〈 2017年 〉

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最初の訪問から3年後の2017年に再訪すると、僅かな変化が見られた。まず、南側線路のレール露出部がアスファルトにより塞がれ、路面が補正されている。

 

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傷だらけのレールが地表に露わになっていた北側線路も、2017年には露出部が埋められている。雨天時のスリップの可能性などが考慮されたのだろう。

 

〈 2018年 〉

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レール露出部が塞がれ もう生のレールは見られないのかと思いきや、この時の訪問時にも僅かな変化が。南側線路において、以前埋められた青丸部分は特に変わっていなかったが、赤丸部分で新たにレールが露わになり始めたのである。

 

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今回新たに露出した部分の拡大。上に被さっていたアスファルトが剥がれ、すっかり錆び付いたレールが地表に姿を見せている。ここもそう遠くない日に塞がれるだろうが、今なら再び、市電当時のレールの姿をしばらく見ることが出来そうだ。

 

ちなみに、現役当時の七条大橋の市電の姿(および現在の風景)については、こちらの京都市電廃線跡のサイトにも掲載されているが、何故かこのサイトでは、今回の残存レールの件については触れられていない。

京都市電の廃線跡を扱うサイトとしては大御所であり、このサイトを書いた人がこのレールの存在を知らないとは思えないのだが、もしかしてサイト掲載で情報が広まることにより、撤去されてしまうのを恐れているのだろうか。

 

(※この線路が残っているのは交通量の多い道路上であり、遺構は横断歩道から少し離れた所に位置しているため、見に行かれる方は事故に注意されたい。)

 

- 稲荷電停跡 -

かつて京都駅より南下して途中で京阪中書島駅へ向かう線(伏見線)と別れ、東進して伏見稲荷大社の近くに至っていた「稲荷線」の終点だった場所に残っているもので、地図で示すと丁度以下のピンの位置になる。

この遺構については結構昔から各所のウェブサイトにも掲載されており、残存する京都市電の線路の中では最も有名な遺構である。

そのため、本記事においては簡潔な紹介に留めるものとする。

 

このレール遺構を取り上げたサイトを1つ例示するなら、やはり本記事でも何度も取り上げている以下のサイトが代表的だろう。

『稲荷線の廃線跡探訪(稲荷駅終点)』- 京都市電の廃線跡を探る

 このページの一番下の方に写真が載っている のだが、公園に転用された稲荷電停跡のコンクリートの段差の下に、 僅かに当時の線路の一部が顔を覗かせている のである。

 

壬生車庫跡や七条大橋とは違い線路全体が見えているわけではなく、片方のレールの切断された先端部だけがチラリと見えているだけではあるものの、恐らく上に被さっている分厚いコンクリートの下には、当時の線路が眠っているのかもしれない。

というのも、自身も現地を何回か見に行ったことがあるのだが、そもそもこの稲荷電停跡自体、電停施設だった橋をそのまま残し、公園化の際にそこに少し手を加えただけで、かつて電停だった構造物がほぼそのまま残されている模様だからである。

そのため、電停の旧軌道部分はコンクリートで埋められた程度であり、なおかつ当時の線路の一部が露出しているとなると、その埋めたコンクリートの下に線路が残されているかも…と考えても不思議ではないだろう。

 

分厚いコンクリートの下から実際に線路が掘り返されるのは、きっと橋が老朽化で撤去される頃でかなり先の話になるだろうが、僅かに見えているレールの先端から、厚いコンクリートの下に線路がもっと埋まっているかも…と思いを馳せるのは、なかなかワクワクするものがある。

 

********************

 

最後の路線の廃止からも40年が経ち、他の路線となれば半世紀近くも前に京の街から消えた、京都市電。

それほど昔に無くなっているにもかかわらず、道路上を走るという性質ゆえ本来撤去されやすい当時の線路が、分かっているだけで3ヶ所も残っているなど、普通は予想の付かないことだろう。

とりわけ今回写真付きで紹介したそのうち2ヶ所は、現役施設や主要道路の路面に平然と残されているものであり、撤去されずに残ってきたのはもはや奇跡だと言ってもよい。

これらは保存されているわけではないので、いずれそう遠くない日に取り払われる時が来るだろうが、それでも見た限りまだまだ撤去の気配は感じられないので、当面は安泰そうである。

加えて京都市電といえば、保存車両や廃線跡など、残された遺構は他の廃止路面電車よりも比較的多い。

ゆえにもしかしたらではあるが、当時の線路が埋まっている場所も、本記事で取り上げた物以外にまだ探せばあるかもしれない。

決して可能性は高くないのだが、例えば市電時代の面影が比較的残る上に交通局が管理している、バス操車場に転用されたかつての車庫跡となれば、ひっそりと地中などに残っていたとしても不思議ではない。

レールがまだ撤去されずに残っている所が他にもないか、機会があれば京都市電のみならず、他の路面電車廃線跡でも是非探し歩いてみたい。

 

★ 参考文献 ★

●沖中忠順『京都市電が走った街 今昔』(2000年、JTB出版事業局)

●『京都市電の廃線跡を探る』<http://www.geocities.jp/kyototram/index.html>(参照:2018年10月)

●公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター(公式サイト)<http://www.kyotofu-maibun.or.jp/index.html>(参照:2018年10月)

●京都の住民がガイドする京都のミニツアー「まいまい京都」(公式サイト)<https://www.maimai-kyoto.jp/>(参照:2018年10月)

 

その他記事中にリンクを貼り付けたウェブサイト・地図サイト等

 

- 脚注 -

*1:沖中忠順『京都市電が走った街 今昔』(2000年、JTB出版事業局)P.132・133

*2:先述の3つの航空写真参照。

*3:先述の「その後の発掘調査(2010年)の模様」リンク内の写真を参照。