幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【未成線】高取鋼索鉄道を歩く(神戸)

~ 長田にそびえる高取山に目論まれた参詣路線 ~

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神戸市長田区の北部にそびえる、高取山。

長田のシンボルと言わんばかりに目立つこの独立峰は、その昔鷹が多く営巣したからだとか、この地区が大水に見舞われ山まで浸かった時に、山頂に居たタコを捕らえたからだとか、山の名のいわれは様々である。

現在では六甲全山縦走路の一部となっており、早朝登山の場ともなっていることから、ハイカーから地元の人まで親しまれる定番の山となっている。

 

また、山頂には高取神社が鎮座しており、創建は1800年以上前とも、いわれは皇族とゆかりが深いともされるこの神社は、国家鎮護・家内安全・商産業の安全発展にご利益があるとして、古来から多くの信仰を集めてきた神社で、整備された参道や登山道沿いにある茶店の多さからも、人々の信仰が昔から厚かったことが伺える。

神社からの眺望も絶景で、神戸市内から淡路島まで望めるその景色は、まさしく壮観と言うに値するものである。

 

さて、この高取山、山麓から山頂までの登山道はその殆どが舗装されており、歩いて30分ほどで登れる山ではあるのだが、山の上まで登る手段は、ほぼ徒歩のみとなっている。

山頂までの公共交通が無いのはもちろんのこと、自動車道路すら整備されていないため、足腰の弱い高齢者や身障者も含めて誰もが気軽に登れる…というわけにはいかない。

 

そんな高取山にも、戦前にはケーブルカーの計画が存在し、参詣の便の向上と共に、周辺の開発を図ろうとしていたことがあった。これから本記事で紹介する、高取鋼索鉄道である。

 

なお本記事では、ケーブル計画と連携する形で計画されていた、神戸市電の未成区間についても触れることにする。

 

★ 概要と歴史 ★

このケーブルは、高取山の裏側に当たる北東部分に計画されていたもので、大正13(1924)~昭和3(1928)年頃のものである。

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(※図中の市電計画線は大まかな経由地と方向を示しただけで、ルートとしては必ずしも正確ではない。)

 

ケーブル自体の距離は短く、麓の口一里山(くちいちりやま)駅から、高取神社のかなり手前である高取山駅までを結ぶものだった。

なぜ終着点を山頂よりかなり手前にしたかは不詳だが、京都の愛宕山鉄道(廃止)など他のケーブル路線にも同じような事例が見られるため、地形や技術の関係もあったと思われる。

 

また、後に詳しく述べるように、このケーブル計画と関連したものとして、ケーブル近くまで神戸市電を延伸する計画や、山麓の駅への取付道路(未成)を含めた 都市計画道路との連携計画 も存在していた。

 

敷設の主な目的は高取神社への 参詣客輸送 だが、計画当時の新聞記事にはこう書かれている。

又山地開発のために計画せられつつある索道電鉄で既に認可申請中にあるものは僅に高取ケーブルだけで、長田名倉町より口一里山まで地上電鉄、それより高取山上までケーブルとなるもので住宅地開発が目的である。

 

――大阪毎日新聞「(下)山地開発の索道電鉄と命が縮まりそうな神戸市将来の電車網」『各郊外電鉄の市内乗入計画(上〜下)』(大正12(1923)年11月13~16日) より引用

そう、単に山に登るだけではなく、ケーブル周辺の 住宅開発 も目論んでの計画だったのである。

現在の高取山北東の山麓付近も既に宅地開発がなされているが、この近辺の開発は大正末期から企てられていたことが分かる。

 

当時の鉄道省文書によると、この住宅開発は山麓部だけでなく、高取山の 山上部にも計画 されており、併せてその高台と眺望を生かし、 遊園地を開設 することにもなっていたという。

現在は多くの自然が残る高取山も、ケーブルカーが通っていれば、今とは全く違う姿になっていたことになる。

 

-路線データ-

●形態:鋼索鉄道(ケーブルカー)

●距離:543m

軌間1067mm

●駅数:(起終点)

 

以下は当時の文書内に封入されている、ケーブル計画を書き込んだ広域地図。

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赤丸の中にケーブルの線が書き込まれているが、これをそのまま現代の地図に投影して計測してみたところ、路線距離などに不整合が見られることから、この書き込みはあくまで概略的な大まかなもので、実測的な観点においては不正確なものと考えられる。

 

また、本来ならケーブルの右側辺りに神戸電鉄の路線が記されているはずだが、この地図には掲載されていない。

実は、このケーブルが計画されていた当時、まだ現在の神戸電鉄は開業していなかった。

高取鋼索鉄道の敷設免許が失効したのは、昭和3(1928)年10月のこと。また、神鉄の前身である神戸有馬電気鉄道が開業したのは、同じ年の11月。つまり、高取ケーブルの計画は、現在の神鉄が開業する前に存在していたことになり、如何に昔の計画であったかが良く分かる。

現代の地図(本記事の冒頭付近参照)で見てみると、ケーブルへのアクセスは神鉄の長田駅か丸山駅から行った方が近そうだが、神鉄(開業時は神有)からのアクセスを想定せず、先述の引用新聞記事に「長田名倉町より口一里山まで地上電鉄」とあるように、わざわざ 独立した平坦線を山麓に敷設しようとしていたのは、当時まだ神鉄(神有)が未開業だったため である。

 

次に示すのは、当時の道路計画と絡めた、ケーブル及び周辺の詳細な図面。

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赤丸の中に、かなりうっすらとではあるが、ケーブルの計画線が書き込まれており、また青丸で示しているように、ケーブルの山麓側までは、ヘアピンカーブを描いた道路で連絡する予定だった。

この図面に書き込まれている道路の大部分は、現代においても現存しているが、 青丸内の連絡道路 は、ケーブルが未成となったこともあり、 結局造成されることは無かった ようである。

 

なお、この図面の場合、一部において少々の地形のズレは見られるものの、前に紹介した物と違い、詳細な図面とだけあり概ね正確であり、ケーブルの線も現代の地図に投影して計測してみても、距離もちゃんと一致する。

 

そして、先にも何度か言及した通り、このケーブル計画は、当時の 神戸市電の路線拡張計画とも連携 していた。

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上の概略図(※私鉄は省略)に示している通り、当時の神戸市電には、長田・湊川大倉山より北に路線網を拡張する計画があり、それに付加する形で、計画線の左上(北西)から更にケーブルの山麓側まで路線を延ばすとされていた。

ケーブル連絡線の起点は名倉町付近。後述の「未成線を歩く」の項で出てくる【イ】の地点付近である。

 

市電計画線との連携の存在については、当時の文書内にも同様の概略図がしっかりと書き込まれている。

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後に開業している平野までの市電路線が計画線として書かれているなど、多少の相違点は見られるものの、当時まだ未開業だった神戸電鉄神戸有馬電気鉄道)の起点が、現在の湊川ではなく平野付近と表記されている点も興味深い。

 

ただ、当時の文書(起業目論見書や広域図面など)には 自動車連絡を基本とする 旨も書かれており、市電の五番町七丁目電停、市電の路線拡張が実現した場合には明泉寺下(名倉町付近)より、ケーブルの山麓の駅までバスによる連絡輸送を行うともしていた。

先述の引用新聞記事には「長田名倉町より口一里山まで地上電鉄」の一文があり、文書内にも市電計画線の存在が書かれていることから、市電とケーブルの間を鉄道で連絡する計画があったことも間違いないようだが、バス連絡と鉄道連絡どちらか一方の計画が有力だったのか、それとも最初はバス連絡で始めて、後に鉄道連絡に移行する予定だったのか、やや不明確な点は残る。

 

-略史-

●大正13(1924)年:敷設免許を申請

●大正15(1926)年:免許を取得

高取神社への参詣輸送や周辺の開発に貢献する点が評価され、免許の交付は無事に受けるに至った。

●昭和2~3(1927~28)年:工事施行認可申請を3度延期

計画は動き出したが、折も悪しくも世は昭和金融恐慌(昭和恐慌の前の不況)に突入。資金集めに難航し、工事に向けた手続きの先延ばしを連発するようになる。

●昭和3(1928)年10月:免許が失効

多くの鉄道計画を淘汰してきた、昭和初期の経済不況。この高取鋼索鉄道も例外なくその煽りを受けることとなり、計画から僅か4年程で、ケーブル計画や高取山の開発計画は、儚くも水泡と帰すこととなってしまったのである。

 

未成線を歩く ★

・現地踏査時期:2018年2月

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【ア】長田神社南交差点で、かつて市電は右へと曲がっていたが、高取山方面へと向かう計画線は、そのまま直進する予定だった。

 

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【イ】名倉町付近で市電計画線は、東方向(右)へ曲がる路線と、高取山方面へ直進する路線に分かれることになっていた。写真中央の道路は戦後造られたものだが、分岐予定地はこの辺りだろうか。

 

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【ウ】高取山北東の山麓付近。長田神社付近からやって来た市電計画線の終点が想定されていたのは、この付近だろうか。

 

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【ウ】先程の場所より少し南下した、鷹取橋東詰交差点。現在の道路はここから直進しているが、本来は青矢印のように右に曲がり、写真中央の山の辺りでヘアピンカーブを描き、ケーブルの山麓の駅へと通じる道路が分かれる予定だった。

 

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【エ】ケーブル口一里山予定地付近。赤丸の辺りから線路は山中へと突入し、山上へと直進するはずだった。戦後の宅地開発でやや地形が変わっているようだが、駅予定地はこの辺りと思われる。

 

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【オ】高取山駅予定地は、図面通りならこの付近ということになるが、平らな場所が殆ど無く右側は急斜面となっているため、駅を造るには少々条件が悪そうにも見える。

 

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【オ】先程の場所から少し上がった辺り。ここから奥に少々降りると多少平らな場所があるので、実際にはこの辺りに駅を造ることを想定していたのかもしれない。

 

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【カ】高取山頂への参道の途中より。御嶽山の分社の上より分かれる左側の道が、かつてのケーブル駅予定地へと通じる道。ケーブルが実現していれば、この道ももう少し立派に整備され、乗降客が行き交っていたに違いない。

 

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【キ】高取山頂に鎮座する高取神社。境内の厳かな雰囲気と共に、そこからの神戸市内の眺望は絶景である。ケーブルカーが通っていれば、現在よりも更に有名な展望の名所となり、同時に造られる予定だった遊園地と共に賑わいを見せていたことだろう。

 

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記事の冒頭でも少し書いたように、高取山の麓から頂上までは、自分で歩いてみても分かったのだが、確かに30分ほどで登ることが出来た。

そのような標高の低い山にわざわざ短いケーブルカーを通すというのは、いくら山麓と山上の両方を開発するとはいえ、果たして本当に採算が採れ得たのだろうか、と思う人もいるかもしれないが、現代の例で考えてみても、戦後に開業した京都の鞍馬ケーブルは、距離も短く鞍馬寺の境内を開発したわけでもないながら、現在でも立派に参拝客の登山交通として機能している。

加えて、現代のバリアフリーという観点で考えてみれば、鞍馬ケーブルもバリアフリー設備の一種という風に考える事も出来るので、仮に高取山にケーブルカーが実現していたとしても、高取神社へ参拝するためのバリアフリー設備として、より幅広い人達が参拝できるようになっていただろう、とも言うことが出来る。

そこに鉄道開業による知名度向上の可能性だけでなく、高取山上の住宅開発や遊園地開設の計画が当時は付加されていたのだから、利用者の数だけで見れば、十分利用率は見込めたとも考えることが出来る。

 

現在、高取山から最寄りの登山交通と山上遊園施設といえば、山陽電鉄が運営する須磨浦ロープウェイ他と須磨浦山上遊園。こちらは、戦後になって開発されたものである。

もし、高取山の方に戦前の段階で登山交通と遊園地が開業していたならば、そちらの方が先に栄え、神戸西部の娯楽施設の勢力図は、今とは全く違ったものになっていたかもしれない。換言すれば、現在の須磨浦山上遊園は、高取山と至近過ぎて開園していなかった可能性すら有り得るのではないだろうか。

 

ただ、現在は自然と静寂が豊かに残り、高取神社や多くのお社が山中に点在する高取山のこと。

この自然と信仰のオアシスが、もし住宅開発や観光開発により今とはかなり違った姿になっていたとしたら、地元の人々や高取山を愛する人達がどう思うかは、賛否が大きく分かれるところだろう。

 

★ 参考文献 ★

鉄道省文書「第十門・地方鉄道軌道及陸運・二、地方鉄道・高取鋼索鉄道・失効・大正十五年~昭和三年」(1926~28年、国立公文書館蔵)https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F0000000000000047655

  1. 「神戸市長田村地内鉄道敷設免許ノ件」https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000387608
  2. 「工事施行認可申請期限延期ノ件」(S2.7.) https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000387609
  3. 「工事施行認可申請期限延期ノ件」(S2.9.) https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000387610
  4. 「工事施行認可申請期限延期ノ件」(S3.3.) https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000387611
  5. 「工事施行申請期限ノ件ニ関スル回答並免許状返納ノ件」https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000387612

(※記事中の原資料画像は全て上の鉄道省文書より引用(および一部は加筆)。)

●大阪毎日新聞「各郊外電鉄の市内乗入計画(上〜下)」(大正12(1923)年11月13~16日、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 電気鉄道(05-056) )http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00097269&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(平成13(2001)年、JTB出版事業局)

宮脇俊三『鉄道廃線跡を歩く III』(平成9(1997)年、JTB出版事業局)

 

その他書籍、ウェブサイト、街頭説明板等若干