幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【廃線跡】車庫跡に埋まる京都市電のレール

~ 40年以上経た今なお線路はアスファルトの下に ~

 

ある日、とある町歩きミニツアーのウェブサイトを見ていると、こんな趣旨の情報が目に飛び込んで来た。

 

京都市電の線路が埋まってる場所が、まだ他にもある――」

 

私は本当に驚いた。「市電のレールが他に残ってる所がまだあるのか!」と。

実際、稲荷電停跡や七条大橋に市電の線路が埋まったまま残っていることは(後述)以前から知っていたが、なにせ40年以上も前に路線網が全廃された京都市電のこと、線路が撤去されずに残っている所が更に存在しているとは思ってもみなかったからだ。

しかもその場所は、10年ほど前に市電のレールが掘り返されたと聞いていた場所。掘り返されたからには完全撤去されたのだろう…と思い込んでいただけに、なおさら予想外だった。

 

情報元のサイトに書かれた内容を読み込んでみると、その場所は かつて市電の壬生車庫があり、現在一部が京都市バスの壬生操車場 となっている所。ストリートビューでも同地をチェックし、レールが埋まっているのがその場所であるという確認を取ることが出来た。

 

本ブログでは急遽、執筆者が現地に赴き、現在もアスファルトの下に残されている京都市電の線路について、本記事でリポートし まとめることにした。

 

★ 概要 ★

市電の更なるレール残存箇所がかつての壬生車庫跡(現在一部は市バス操車場)であることは分かったが、「そもそも壬生車庫とは?」という基本事項について説明しておく。

 

この車庫は京都市営の路面電車が営業開始した明治45(1912)年に開設され、京都市電の中でも古い歴史を持つ。車両工場も併設され、四条通など市内中心部を走る系統(1系統ほか)を受け持つなど、市電の「要」となる機能を担っていた。

車庫廃止前には計5つの系統を受け持っていたが、3つの路線(四条・大宮・千本線)の廃止と同時に、車庫も昭和47(1972)年に廃止京都市電の全廃が昭和53(1978)年なので、その6年前には無くなったことになる。[*1

場所は上の地図の通りで、阪急大宮駅や嵐電四条大宮駅の近く。地図中のピンを中心として、アルファベットの小文字の「r」のような形をした敷地がかつての車庫である。

中京警察署の右隣にある交差点の名前が「壬生車庫前」のままである所にも名残が見られる。

跡地は市バス操車場などの一部を除き、現在は大規模な団地となっている。

 

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上の図は沖中忠順(著)『京都市電が走った街 今昔』(2000年、JTB出版事業局)のP.133より引用した、当時の壬生車庫の構内図。横倒しで描かれているため、左が北である。

こうして見てみると、先にも述べた車両工場の各種部門が所々に配置されており、左上には京都市交通局の庁舎も置かれていたため、かなり大規模な施設であった。市電の主要車庫であり、京都の市営交通の拠点でもあったことが分かる。同じく左上の車庫入口付近には、複線の大型ループ線も設けられていた。

 

なお、現役当時の様子については、こちらのウェブサイトに写真が沢山掲載されている。

全廃前の市電の車庫の中では最も歴史が古かっただけあって、構内には印象的なレンガ造りの建屋があったそうだ。

 

さて、ここからが本題である。

下の図は上で引用した構内図の左上を拡大したもの。交通局庁舎と運輸事務所の間の車庫入口の辺りである。

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おおよそこの付近が現在 市バスの壬生操車場となっているのだが、その操車場の入口部分に、図の 赤丸で囲った部分の線路が今もアスファルトの下に埋もれており 、それを見ることが出来るというのである。

 

この情報を知ったのは、京都及び関西圏で町歩きを催行している「まいまい京都」と呼ばれるミニツアーのウェブサイト。そこに掲載された以下のページからである。

www.maimai-kyoto.jp

このツアーコース自体はバスをテーマの主軸に据えたものだが、京都市バスの歴史を取り扱っていく上で京都市電についてもツアー内で紹介されるようで、その一環として今回のレールの件も取り上げられる模様である。

「操車場にレール」という文言に目が行った時点で「何処のことだろう…」と思い、上のページ内に掲載された写真や、壬生操車場がツアーコースに入っている点をヒントに、ストリートビューで確認したところ「これは市バスの壬生操車場、つまりかつての市電 壬生車庫跡にあるんだな」と突き止めたわけである。

 

壬生車庫跡といえば、10年ほど前まで残っていた京都市交通局の庁舎を取り壊す際に、(記事冒頭でも触れた様に)市電のレールが発掘され、後にそれがカット(小分け)されてイベントで販売された、という話が記憶に残っている(後述)。

その時まで埋まっていた線路は、その全てが発掘されたわけではなく、一部は掘り返されることなくそのまま残されたということになるようだ。

 

上記ツアーコースについてはスケジュールの都合から参加しないこととなったが、今まで残っているとは思わなかった車庫跡のレールだけは、別の日に独自に見に行くことを決め、現地状況をチェックしてきた。

以下で実際の現地状況と遺構の様子を見てみよう。

 

★ 遺構を訪ねる ★

・現地踏査時期:2018年10月

 

レールが埋まっているのは以下の地図、丁度ピンを立てている辺り。

 

(※以下全て敷地外から撮影。)

 

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現在の市バス壬生操車場。左にかつて京都市交通局の庁舎が建っていたが、近年移転して取り壊され、今は中京警察署が建っている。線路が残るのは右の操車場入口である。

 

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ご覧のようにバスが並ぶすぐ目の前に、緩やかな右カーブを描いた線路の形が、アスファルトの表面に浮かび上がっているのがお分かりだろうか。

 

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もう少し至近で撮影。ごく短いながらレールが下に埋まっているのがはっきり見て取れる。この時は丁度良い感じで太陽光がアスファルトに当たっていたため、よりくっきりとレールの形が浮かび上がって見えた。

 

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線路の片方を拡大。一番下ではアスファルトが割れていたため、このままいけばレール本体が露出してくるだろうか。上方では2本のレールが並んでいるとみられるので、どうやら脱線防止レール(左)と走行用レールの2つが埋まっているようである。

 

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更に2本のレール(青い網掛け部分)の周りをよく見てみると、枕木か敷石と思しき形の亀裂までもが、アスファルト表面に確認出来る。

 

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残された線路はあの1つだけかと思いきや、更にその西隣には、もう1つ線路の形の亀裂が。どうやら複線分の線路が埋まっているようである。(※2枚とも同じ写真。以下同)

 

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写真は小さいがもう少し至近撮影。先ほどの線路とは違い、こちらはレールの亀裂がやや薄っすら程度。よく見なければ気付かなさそうだ。

 

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亀裂の下端部を拡大。右下から左上に走っている僅かな亀裂の下にレールが埋まっている。特に右下の端部ではレールの形が出ているようにも見える。

 

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奥の方を見る。それほど目立つ形でレールの亀裂が出ていないため、斜めから見ると上方しか線路の形が見えなかったり、横から見ると比較的全体の線路の形が見えたりと、見る角度によって見え方が異なる。

 

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最後に複線分の線路を並べて撮影。2つの線路はやや離れて敷かれていた。市電当時の線路配置がアスファルト越しにそのまま見えている。

 

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ちなみに壬生操車場の前には、市電の架線柱(写真中央の2本の白い電柱)も残されている。かつて市電が通っていた後院通(こういんどおり)の風景も含め、廃止から40年以上経過した今でも、この周辺には市電時代の残り香がよく残っている。

 

 ★ こんな事実も ★

現地までレールの遺構を見に行った後、更にウェブ上を調べてみると、以下2つほどの事実を見つけた。

 

1つは、京都市電の廃線跡を取り上げたウェブサイトで最も有名なサイトの一つにも、何か関連する内容が書かれていないか見てみたところ、以下のページで関連する記述を見つけた。

『千本線の廃線跡探訪(壬生車庫前)』- 京都市電の廃線跡を探る

ページの中ほどには、今回新たに知ったレール遺構の 平成17(2005)年の様子 が掲載されており、それによると当時は レール・敷石各本体が地表に露出 していたというのである。

その当時から遺構が見えており、露出したレールや敷石まで見ることが出来たのなら、当時それを知らずにいて見に行けなかったことも少し悔やまれるが、何より当時からモロに本体が見えていた遺構が、撤去されることなく13年後の平成30(2018)年の現在まで、バス操車場という現役施設の地面に残り続けてきたことに驚きを感じる。

交通局庁舎の移転・解体やバス操車場の縮小(後述)という大きな変化を経ており、恐らくその過程で路面舗装の打ち直しも行われているだろうが、そのような中でも市電レールの撤去が行われなかったとなると、撤去せずに操車場の改変を行っていて支障は無かったのだろうか…と少し不思議にすら思えるものである。

 

もう1つは、京都市電の壬生車庫に関して他に何か情報は無いかと探していた時のこと。

数あるウェブサイトを当たっていたところ、以下の写真が掲載されているページを見つけた。

http://www.kyotofu-maibun.or.jp/news/h21-tyousa/21iseki/21img/heiankyou-01.jpg「平安京跡(京都市中京区壬生坊城町48番地16)」『平成21年度 発掘調査情報』- 公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター(公式サイト) より引用

上の引用元の記載にある通り、埋蔵文化財を調査研究する京都府の関連機関の発掘調査情報に掲載されていたものなのだが、上記発掘調査(2009年)の際、かつての市電車庫跡構内の 分厚いアスファルトの下に、市電の線路が敷石ごと、そのまま丸々残っていたのが出てきた 模様である。

レールは錆び付き、敷石は泥だらけなどの状態ではあるものの、出てきた軌道はほぼ車庫営業当時のまま。廃止後も殆ど手付かずの状態でそのままアスファルトを被せられ、時が止まった状態で地面の中に眠り続けてきたようだ。

 

先にも少し書いたが、ここ壬生車庫(壬生操車場)にあった京都市交通局の庁舎を取り壊す際に、市電の レールが発掘され、それが小分けにカットされてイベントで販売された 、ということがあった。その時のレール販売の模様は、こちらのウェブサイトにも載っている。

この時に販売されたレールというのは、どうやら上の写真で発掘されたレールのことのようである。遺跡調査を始めるに当たり取り除かれて一部が販売に至ったようだが、交通局庁舎取り壊しも遺跡発掘調査も同じ平成21(2009)年に行われたもの。そしてレール販売はその翌年。

つまり、交通局庁舎解体の際に周辺敷地の発掘調査も行うことになり、その際に上の写真のような線路が掘り出され、遺跡発掘のために撤去され、その撤去された一部が小分けにされて販売された…との流れということになる。

 

ではここで、なぜ発掘調査は庁舎が建っていた場所だけでなく、その一部周辺でも行われたのか?ということになる。

実は庁舎解体の際に、どうやら市バス操車場の範囲が縮小され、南西部分が警察署用地へと割譲されたようで、そのために遺跡調査が必要となり、地面が掘り返されたということらしい。この操車場縮小は、2007年および現在の航空写真を見比べてみると分かるのだが、確かに後者では操車場の範囲が北東へと後退しており、前者で操車場の一部だった南西部分は別の施設が出来ている。

そのことを頭に入れた上で、現在の操車場敷地内でもレールが埋まっており、過去の操車場南西部分だった所でもレールが埋まっていたとなれば、「それなら市バス操車場の敷地内なら大体(過去の範囲含め)レールが埋まっている(いた)のでは?」と考えたとしても不自然ではないだろう。

そのような推察を前面に据えつつ、市電時代の航空写真 および先の2つの航空写真、市電レールが掘り返された最初の発掘調査(2009年)およびその後の発掘調査(2010年)の模様、そして本記事で取り上げた現在も残るレールを合わせて考えると、以下のようなレール残存状況の推察図が出来上がる。

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「現存」は言うまでもなく本記事で取り上げた、操車場入口に現在も残る線路のことである。

「現存の可能性あり」は先述の「操車場敷地内なら他所にも線路が埋まっているのでは?」という推察に基づくもの。現在および過去の操車場内でのレール残存例から推測したものだが、あくまで「可能性」の域を出ないものであるため、実際に現在も残っている確率は高いとも低いとも言えない。

「過去に残存」は文字通り、近年まで残っていたが現在は撤去されたもので、先述の発掘調査で掘り返された線路のことを指す。範囲は最初の発掘調査(2009年)の状況だけでなく、その後の発掘調査(2010年)の状況も反映させている。ちなみに現在この位置には、中京警察署関連の建物が建っている[*2]。

「現状不詳」は、少なくとも発掘調査前にはレールが残存していたと考えられるが、過去のあらゆる状況を総合的に鑑みると、現存の可能性の高低が全く予測付かない範囲。というのも、この部分は発掘調査(2010年)の際にアスファルトが全て剥がされ砂利の地面となり、その後警察署の敷地に転用されていながら、遺跡発掘の範囲からは外れており、地面を深く掘り下げたようにも見えないため[*3]、これらの要素などから予想が付け難い箇所なのである。加えて、2010年発掘当時の状況資料(写真)がさほど多くないことも判断をつかなくしている。もしかしたら普通に撤去されているかもしれないが、この位置に建物は建てられておらず、現存の可能性はゼロとは言えないのではないだろうか。

 

既に見えている箇所や過去に掘り出された箇所以外は、当然レール残存の有無が見えないため、特に「現存の可能性あり」の部分については、現在でも地中に残っているという確とした保証はない。換言すれば、個人的な願望も多かれ少なかれ混じった推測とも言えてしまうが、それでも市バス操車場内であれほどレールが残っている(いた)となれば、もしかしたら…と考えるのも当然であろう。まだまだ埋まっているかもしれない更なる残存レールの可能性を考えると、非常にロマンが湧いてくる。

 

★【補記】京都市内における他のレール残存箇所 ★

本記事の最初において、壬生車庫跡以外にも市電の線路が埋まっている所が かねてから数ヶ所ある旨を少し書いたが、それら(計2ヶ所)についても幾らか紹介しておこう。

 

七条大橋(東側)-

見出しの通り京阪電車七条駅すぐそばに埋まっているもので、地図で示すと丁度ピンを立てている位置となる。

以前から道路上に亀裂やレール本体が現れていたものと思われるが、ここ最近になって情報が広まり、前よりも比較的知られるようになった。

 

自身がこの遺構の存在を最初に知ったのは2014年。以来数年ごとに何回か不定期に見に行き、その状況を確認してきた。基本的な状態は大きく変化しなかったものの、ほぼ見に行く度に細かい変化があったのが見られた。

本項目では2014年・2017年・2018年の計3年分の状況を紹介し、遺構がどのように変化してきたかを見ていこう。

 

(※なお、本項目で掲載している写真のうち、2014年と2017年のものについては、かつて存在した自身のツイッターアカウントで使用した物を、一部ブログ用に再編集の上で再掲載している。)

 

〈 2014年 〉

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レール埋没部の全体を眺める。矢印で示したように、線路が下に埋まっていることを示す亀裂や割れ目、レールの露出部が路面に見られる。

 

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南側の線路。ご覧のように軌道の形がくっきりと浮かび上がっており、右下ではレール本体も露出していた。

 

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左の写真のように北側の線路では、片方のレールがモロに地表に露わになっており、自動車により付いたと思われる傷が表面に幾つもあった。右写真は南側線路のレール露出部を拡大したものだが、地表面よりもやや引っ込んでおり、レール表面も北側の物より錆び付いていた。

 

〈 2017年 〉

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最初の訪問から3年後の2017年に再訪すると、僅かな変化が見られた。まず、南側線路のレール露出部がアスファルトにより塞がれ、路面が補正されている。

 

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傷だらけのレールが地表に露わになっていた北側線路も、2017年には露出部が埋められている。雨天時のスリップの可能性などが考慮されたのだろう。

 

〈 2018年 〉

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レール露出部が塞がれ もう生のレールは見られないのかと思いきや、この時の訪問時にも僅かな変化が。南側線路において、以前埋められた青丸部分は特に変わっていなかったが、赤丸部分で新たにレールが露わになり始めたのである。

 

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今回新たに露出した部分の拡大。上に被さっていたアスファルトが剥がれ、すっかり錆び付いたレールが地表に姿を見せている。ここもそう遠くない日に塞がれるだろうが、今なら再び、市電当時のレールの姿をしばらく見ることが出来そうだ。

 

ちなみに、現役当時の七条大橋の市電の姿(および現在の風景)については、こちらの京都市電廃線跡のサイトにも掲載されているが、何故かこのサイトでは、今回の残存レールの件については触れられていない。

京都市電の廃線跡を扱うサイトとしては大御所であり、このサイトを書いた人がこのレールの存在を知らないとは思えないのだが、もしかしてサイト掲載で情報が広まることにより、撤去されてしまうのを恐れているのだろうか。

 

(※この線路が残っているのは交通量の多い道路上であり、遺構は横断歩道から少し離れた所に位置しているため、見に行かれる方は事故に注意されたい。)

 

- 稲荷電停跡 -

かつて京都駅より南下して途中で京阪中書島駅へ向かう線(伏見線)と別れ、東進して伏見稲荷大社の近くに至っていた「稲荷線」の終点だった場所に残っているもので、地図で示すと丁度以下のピンの位置になる。

この遺構については結構昔から各所のウェブサイトにも掲載されており、残存する京都市電の線路の中では最も有名な遺構である。

そのため、本記事においては簡潔な紹介に留めるものとする。

 

このレール遺構を取り上げたサイトを1つ例示するなら、やはり本記事でも何度も取り上げている以下のサイトが代表的だろう。

『稲荷線の廃線跡探訪(稲荷駅終点)』- 京都市電の廃線跡を探る

 このページの一番下の方に写真が載っている のだが、公園に転用された稲荷電停跡のコンクリートの段差の下に、 僅かに当時の線路の一部が顔を覗かせている のである。

 

壬生車庫跡や七条大橋とは違い線路全体が見えているわけではなく、片方のレールの切断された先端部だけがチラリと見えているだけではあるものの、恐らく上に被さっている分厚いコンクリートの下には、当時の線路が眠っているのかもしれない。

というのも、自身も現地を何回か見に行ったことがあるのだが、そもそもこの稲荷電停跡自体、電停施設だった橋をそのまま残し、公園化の際にそこに少し手を加えただけで、かつて電停だった構造物がほぼそのまま残されている模様だからである。

そのため、電停の旧軌道部分はコンクリートで埋められた程度であり、なおかつ当時の線路の一部が露出しているとなると、その埋めたコンクリートの下に線路が残されているかも…と考えても不思議ではないだろう。

 

分厚いコンクリートの下から実際に線路が掘り返されるのは、きっと橋が老朽化で撤去される頃でかなり先の話になるだろうが、僅かに見えているレールの先端から、厚いコンクリートの下に線路がもっと埋まっているかも…と思いを馳せるのは、なかなかワクワクするものがある。

 

********************

 

最後の路線の廃止からも40年が経ち、他の路線となれば半世紀近くも前に京の街から消えた、京都市電。

それほど昔に無くなっているにもかかわらず、道路上を走るという性質ゆえ本来撤去されやすい当時の線路が、分かっているだけで3ヶ所も残っているなど、普通は予想の付かないことだろう。

とりわけ今回写真付きで紹介したそのうち2ヶ所は、現役施設や主要道路の路面に平然と残されているものであり、撤去されずに残ってきたのはもはや奇跡だと言ってもよい。

これらは保存されているわけではないので、いずれそう遠くない日に取り払われる時が来るだろうが、それでも見た限りまだまだ撤去の気配は感じられないので、当面は安泰そうである。

加えて京都市電といえば、保存車両や廃線跡など、残された遺構は他の廃止路面電車よりも比較的多い。

ゆえにもしかしたらではあるが、当時の線路が埋まっている場所も、本記事で取り上げた物以外にまだ探せばあるかもしれない。

決して可能性は高くないのだが、例えば市電時代の面影が比較的残る上に交通局が管理している、バス操車場に転用されたかつての車庫跡となれば、ひっそりと地中などに残っていたとしても不思議ではない。

レールがまだ撤去されずに残っている所が他にもないか、機会があれば京都市電のみならず、他の路面電車廃線跡でも是非探し歩いてみたい。

 

★ 参考文献 ★

●沖中忠順『京都市電が走った街 今昔』(2000年、JTB出版事業局)

●『京都市電の廃線跡を探る』<http://www.geocities.jp/kyototram/index.html>(参照:2018年10月)

●公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター(公式サイト)<http://www.kyotofu-maibun.or.jp/index.html>(参照:2018年10月)

●京都の住民がガイドする京都のミニツアー「まいまい京都」(公式サイト)<https://www.maimai-kyoto.jp/>(参照:2018年10月)

 

その他記事中にリンクを貼り付けたウェブサイト・地図サイト等

 

- 脚注 -

*1:沖中忠順『京都市電が走った街 今昔』(2000年、JTB出版事業局)P.132・133

*2:先述の3つの航空写真参照。

*3:先述の「その後の発掘調査(2010年)の模様」リンク内の写真を参照。

【未成線】日本懸垂電気鉄道を歩く(大阪)

~ 日本初の営業用モノレールも大阪発…とはならず ~

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大阪といえば何かと「モノレールの町」である。

現代の視点から考えてみても、現在運行されている大阪モノレール大阪高速鉄道)は関西圏内で唯一のモノレール営業路線であるし(簡易式を除けば)、その総路線距離は日本一長く、かつては世界一でギネスブックにも認定されていたという並でない経歴を持っている。

過去に目を移してみても、昭和45(1970)年の大阪万博でも会場内でモノレールが運行されていたし、戦前の昭和3(1928)年の大阪交通電気博覧会で運行された「空中飛行電車」は日本の国土上を最初に走ったモノレールだとも言われている[*1]。

この他にも新線/未成線ファンにとってみれば、大阪モノレール門真市以南への延伸決定や彩都西以北の延伸中止など、近年においても何かと新しい動向に事欠かない。

このように、意識する人は少ないものの、大阪はモノレールとの縁が深く、その話題に溢れた町なのである。

 

そんな大阪とモノレールとのゆかりの深さは、当然戦前の営業路線計画においても例外ではない。

まだ日本でモノレールが実用化されていない戦前期、大阪ではモノレールを実用的な交通機関として走らせようと、幾つかの路線計画が立てられていた[*2]。

 

その内の一つが、大阪の市内交通として計画された「日本懸垂電気鉄道」。

本記事では、戦前の大阪へ導入が図られながら幻と化してしまったそのモノレール計画が、どのような姿で造られようと目論まれていたのか、自身が過去に訪問・乗車経験のあるドイツのヴッパータール空中鉄道を参考にしながら、その当時の計画像をイメージしていこう。

 

★ 概要と歴史 ★

届出上の正式名称は「日本懸垂電気鉄道」となっているが、平面図や縦断面図などの各種図面では「大阪懸垂電車」の呼称も用いられている。昭和4~6(1929~31)年の計画である。

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大阪の市内交通として計画されていたもので、ご覧のように北は梅田から南は住吉公園付近まで、大阪市内を南北に縦断する路線設定とされていた。

 

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↑当時の平面図。左側が北(梅田方)となっている。

鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.41・42 より引用・再編集)

 

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↑(鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.38・39 より引用・再編集)

上は当時の縦断面図。左が梅田方、右が住吉公園方となっている。

(この記事上では見えにくいかもしれないが)この図面の下半分を見てみると、西横堀川、難波入堀川、鼬川、十三間川…などの川の名前が書かれている。

また、今昔マップ on the webの当該年代の地図(1927~35年)で予定ルートを辿ってみると、ルート上の殆どで同じ場所に川が流れている。

すなわち、このモノレールはルートの殆どが 河川上に敷設される予定だった ということである。これは、ドイツのヴッパータール空中鉄道も同じように河川上に敷設されているため、それに倣ったものと考えられる。

但し、計画線の 梅田~中之島間 の場所には、当時の地図でも河川の存在が認められないため、この区間だけは 地平上に架設予定 だったようである。

 

-路線データ- [*3

●形態

 ◎単軌鉄道(モノレール)

 ◎懸垂式

●動力:電気

●距離:11.5 km

●線数:複線

●駅数:12(起終点含む)

 

当時の文書内の「懸垂電車ノ設計概要」によれば、当初の計画では「鉄柱上に架設した橋梁の上に軌間1067mmの線路を敷設し、そこから車両を懸垂させる」という独特の方式を採るとしていたが、後に提出された「地方鉄道敷設免許申請追申」や「決議書」では、これを「単軌」に変更している。

「懸垂電車ノ設計概要」にはこの他にも、車両部品の材質、鉄柱の部材や形状、電車下端と地上との距離……など、(変更前のものとはいえ)その仕様が比較的詳しく記されている。

 

-懸垂式のうち どの方式が考えられるか-

さて、このモノレール計画が懸垂式になる予定だったことは分かったが、懸垂式とひとえに言ってもその方式は多様であり、ならばどの方式を採用するつもりだったか?ということになる。

公式記録の一つである鉄道省文書にはそこまで詳しくは書かれていないのだが、幾つかの情報を基にすると、考えられる方式は「ランゲン式」ではないか?と推定 される。

(※「ランゲン式」がどのようなものかは、後ほど写真付きで解説している。)

 

その論拠としては、

①当時実用化されていた懸垂式モノレールの代表格は「ランゲン式」である

②この計画線は軌道方式を「単軌」に変更している(先述)

③同じ運営会社の別の計画線が「ランゲン式」と思しき方式を採用予定だった

 

①については、ランゲン式を採用しているドイツのヴッパータール空中鉄道は 1901年 の開業である一方、日本国内における他方式である上野式(東京都交通局式)やサフェージュ式は戦後(昭和32(1957)年以降)登場の方式であるため、本記事の路線が計画されていた頃にはまだ存在していなかったものである[*4]。

ランゲン式であるヴッパータール空中鉄道は、1901年の開業から現在に至るまでずっと都市交通として機能し続けているため、大阪懸垂線計画時点での昭和4(1929)年当時でも、懸垂式としては最も安定した方式であっただろうと容易に考えられる。

これらのことから、当時の基準で懸垂式モノレールとなれば、都市交通としての運用実績が既にあったランゲン式が、最も信頼性があり現実味のある方式として、大阪懸垂線でも採用が考えられていただろうとする論拠のまず一つになる。

 

②については路線データの項の下でも先に述べた通りで、当初の計画では軌道は1067mm、つまり2条式の線路を採用する予定だったものを、後に「単軌」に、つまり1本のみのレールで構成される軌条に変更しているのである(これが計画の最終的な姿と考えて良いだろう)。

1条のレールだけで構成される軌道を有する懸垂式…となると、(の論点とも併せて考えると)ランゲン式が最も有力かつ現実的な形態と考えることが出来る。

(※これについても実際どのような姿かは、後々に写真を掲載している。)

よって、の論拠にを加えて考えると、ランゲン式採用の可能性は、推定としてより濃厚になってくる。

 

③についてなのだが、実は本記事で取り上げている「日本懸垂電気鉄道」、その運営母体は「本社」が東京 に置かれており[*5]、大阪のこの計画線だけでなく、神奈川県の 江の島付近にも別のモノレール計画 を有していたのである。

江の島の計画線についても簡単に説明しておくと、こちらは昭和3(1928)年に免許取得、翌年に本社設立、昭和10(1935)年に免許失効となっている[*6]。

この時に設立された本社の名称は「空中電気鉄道」で、大阪の路線計画を管轄していたと思われる「日本懸垂電気鉄道」も、この本社の中に内包されていたようである[*7]。

この江の島の計画線に関しては 軌道および車両の設計概略図 が残されているそうで、 以下のウェブページにその画像が掲載されている。

blogs.yahoo.co.jp

その図を見てみると、軌道は1本のみのレールから構成されているようで、その上に(両フランジと思われる)1枚の車輪を含む走行装置(普通鉄道でいう台車)が載っており、そこから車両を吊るアームが下に延びており…という構造をしている。

これは、後ほどに掲載しているヴッパータール空中鉄道の写真と見比べると分かるのだが、 ランゲン式モノレールに限りなく似通った造り なのである。

加えて上のウェブページによれば、その図が描かれた年代は 昭和4(1929)年と大阪懸垂線が計画されていた時期ともほぼ同一 のようである。

ゆえに、の論拠に加えて、同一会社の別の計画線が、同一時期に、ランゲン式と思しき軌道・車両設計図を作成していた…となると、大阪懸垂線の計画でも、江ノ島懸垂線で採用予定だった方式に準拠しようとしていた可能性は十分に考えられる。

(※注*8

 

これら①・②・③の要素から勘案して、 本記事のモノレール計画で採用予定だった方式は「ランゲン式」と推定される 、と自身は考えるのである。

 

-ランゲン式モノレールはどのようなものか-

では、大阪懸垂線計画では「ランゲン式」を採用予定だっただろうと(本記事では)事実上見做したとなると、そもそも「ランゲン式」とはどのようなモノレールなのか?という基本的な疑問が浮かぶ人も少なくないかもしれない。

それもそのはず、日本では現代においても歴史上においても、「ランゲン式」を採用したモノレールは一つも存在していないのである。我が国においては馴染みが薄いのも当然である。

 

この「ランゲン式」を採用したモノレールには代表的な路線がある。名前だけは先の文章でも何度も登場しているが、遠くヨーロッパはドイツにある、ヴッパータール空中鉄道(Wuppertaler Schwebebahn)である。

 

自身は2013年に実際に現地を訪れ、このヴッパータール空中鉄道に乗車している。ここではその時の写真を交えながら、ランゲン式モノレールとはどんな姿で、どんな造りなのか、大阪懸垂線が本来なるはずだった姿をイメージしながら、ここでは見ていこう。

 

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ヴッパータール空中鉄道における現代の車両。

(2013年9月、執筆者撮影)

基本的にランゲン式モノレールの車両は上のような感じ。

鉄製の軌道の上に、車両の上からのびた鉄製の走行装置が載っており、やや武骨な印象を受ける。モノレールの語の意味(イメージ)そのままに、1本の軌道にぶら下がっているという様態である。

1本の軌道に走行装置(車両)が載っているだけというシンプルな構造ゆえに、駅停車中に客が乗降していると、車両が横に少々大きくスイングしたのを記憶している。

 

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↑ランゲン式モノレールの走行装置および軌道。

(2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

こちらはその走行装置。普通鉄道でいう台車に相当する部分である。

「普通鉄道でいう台車」と書いたが、本当に普通鉄道の台車を車輪片側2枚だけにして車両の上に持ってきただけ、というような形態をしており、ある意味明快な造りである。また、そのような構造だけあって機器類やコードも剥き出しになっており、この点でも武骨さを感じさせる。

軌道はH鋼状の鋼製桁の上に普通鉄道用のレールを1本固定してあり、その上に両フランジの車輪が載っている。つまり、普通のレール1本に両フランジの車輪が引っ掛かっているだけという相当シンプルな造りで、その状態で重い車両をぶら下げながら空中を滑走していくのである。

 

車輪は僅かなフランジで1本のみのレールに引っ掛かっているだけだし、乗客が乗降すると車両は横に振れるし…となると、かなり頼りなさそうな造りにも見えてしまうが、これでもこのシステムはかなり安定したものらしい。

ヴッパータールの場合、少なくとも1度は車両の脱線・落下事故を起こしているそうだが[*9]、開業から現在までを通してそのような脱線・落下事故を起こしたことは滅多に無いようで、数ある乗り物の中でも特に安全な交通システムの一つであるとも目されている模様である。

 

ドイツ国内においてはそのように、ランゲン式は実用的な交通システムとして安定した運用と実績を積み重ねているわけだが、日本の場合はドイツとは(恐らく)違って台風や地震の多い風土のこと、一見頼りなさげにレールに引っ掛かる車輪や車両の横への振れやすさという特性を持つランゲン式が、果たして日本でもドイツと同じように安定した鉄道システムで居られるかといえば、どうだろうか。

 

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ヴッパータール空中鉄道における動態保存の旧型車。大阪懸垂線の計画は戦前のものなので、開業していればこんな感じの車両が走り出していただろうか。

(2013年9月、執筆者撮影)

 

なお、後の「未成線を歩く」の項でも、ヴッパータール空中鉄道の写真を多く織り交ぜているので、軌道や駅などの全体的な造りを見て頂けるだけでなく、大阪の予定地のこの辺りでは軌道が出来ていればこんな感じだったかもしれない…とイメージしやすいようにしてある。

自身が撮影した走行シーンの動画も数点交えているので、ランゲン式モノレールやその旧型車はどのような感じで動くものなのか…についても、理解を深めて頂けるようにしている。

 

-歴史- [*10

●昭和4(1929)年:敷設免許を申請

計画途中に軌道形態が「1067mmの2条式軌道」から「単軌」に変更されたことは何度も述べているが、この変更手続きが行われたのも 同年 のことである。

●昭和6(1931)年:出願が却下される

却下理由は「全線の殆どが大阪市の高速度線(地下並びに高架)と並行しており、高速度線は漸次実現の機運にあるため、更なるこの種の計画はその必要性を認め難いため」といった内容となっている。

 

上の却下理由で並行路線として示された「高速度線」については、幾らか説明が必要となる。

鉄道省文書のP.5~9(※注*11)にある当時の大阪府知事および市長からの副申書によると、その「高速度線」とは具体的には「市営高速度軌道第三号線」と書かれている。これは、現在の呼称でいう「地下鉄四つ橋線のことであり、現在でも四つ橋線の正式名称は「大阪市高速電気軌道第3号線」となっている[*12]。

この四つ橋線(3号線)の計画が最初に現れたのは、大正14(1925)年のこと。当時計画されていた区間大国町玉出間のみで、御堂筋線(1号線)の支線という位置付けだった[*13]。

すなわち、大阪懸垂線計画のあった昭和4~6(1929~31)年の時点では、 モノレール計画と並行するとされた「高速度線」として具体的に示されたのは、3号線(四つ橋線)の大国町玉出間 ということになる。

但し、3号線計画が現れるとほぼ同時に1号線(御堂筋線)計画も登場しており、あくまで3号線は1号線の支線扱いであったため、当時3号線の電車は1号線への直通運転を予定しており、梅田まで乗り入れることになっていた[*14]。

大阪懸垂線の文書の却下理由でも、「高速度線」と並行するのはモノレール計画線全線の「殆ど」という表現がなされているので、モノレール計画と並行するのは3号線の大国町玉出間だけでなく、 1号線の大国町~梅田間も 考慮の範疇に入っていたものと考えられる。

ちなみに、大阪初の地下鉄である1号線(御堂筋線)の最初の区間(梅田~心斎橋)が実際に開業したのは、モノレール計画消滅より2年後の昭和8(1933)年、3号線(四つ橋線)最初の区間大国町~花園町)の開業はその9年後の昭和17(1942)年[*15]、および3号線の当初計画区間である花園町から先の玉出方面への開業は昭和30年代のことである[*16]。

加えて、四つ橋線(3号線)の大国町西梅田間の開業は昭和40(1965)年[*17]。この区間は、かつてのモノレール計画ルートのすぐ西隣を走っているのだが、この区間四つ橋線の独立した路線として登場するのは戦後もかなり後になってからで、少なくとも昭和22(1947)年頃の時点までは、大国町以北の梅田方面へは1号線(御堂筋線)へと乗り入れる計画だった[*18]。つまり、現在の四つ橋線大国町西梅田間は、大阪懸垂線が計画されていた頃には(並行路線としては)まだ計画すら存在していなかったことになる。

 

並行する地下鉄計画の解説だけで長くなってしまったが、その他にもモノレール計画の申請が却下された理由としては、府知事や市長の副申書には、並行路線として大阪市電や南海鉄道(現在の南海電鉄)、阪堺電鉄(通称「新阪堺」。現在の阪堺電車とは別物)、南海急行電鉄(未成[*19])等があったことや、河川上などへの敷設による水陸交通の邪魔になることが挙げられている[*20]。

また、それ以外の背景としては、大阪市が民間鉄道事業者の市内乗り入れを大幅に制限していた「市営モンロー主義」の政策があったことや[*21]、敷設免許の認否を司る鉄道大臣が、免許交付に相当寛容だった小川平吉から厳格だった江木翼に交代したことも[*22]、大きく影響していると考えられる。

 

敷設に成功していれば日本初のモノレール営業路線を大阪から生み出していたかもしれず、大阪市外などもう少し別の場所に計画していればそれが実現していただろうが、あいにく敷設免許の取得は叶わなかった。当時前例のない「最先端」の乗り物を走らせる街としては、大阪の街中はあまりにも条件が悪すぎたのである。

 

未成線を歩く ★

・現地踏査時期:2018年6月上旬

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【ア】起点の梅田駅予定地は阪神百貨店西側〜第一生命ビルの辺り。駅が出来ていれば右のような光景になっていたかもしれない。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【ア】梅田駅予定地の反対側、住吉公園方面(南方)を望む。軌道予定地が道路直上なのか右のビル辺りなのかは明確ではないが、モノレールが造られていれば右写真みたいな感じになっていただろう。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【イ】堂島川を渡って右側、三井物産ビルと中之島フェスティバルタワーの間辺り(矢印の先端付近)が中之島駅の予定地。現在の京阪中之島駅からは大きく離れており、最寄り駅は京阪が渡辺橋駅、地下鉄四つ橋線肥後橋駅となる。

 

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【参考】中之島駅は線内の途中駅で唯一地平上に造られる予定だった駅のため(他は河川上)、駅が造られていたならこのような感じになっていたかもしれない。

(2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【ウ】土佐堀川を渡るとこの先、路線予定地は難波付近までしばらく阪神高速に飲み込まれる。ここから道頓堀付近までの高速道路用地(旧路線予定地)はかつて西横堀川という河川だったが、現在は埋められている。

 

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【エ】信濃橋駅予定地。最寄りは地下鉄四つ橋線および中央線の本町駅だが、かつては四つ橋線側も「信濃橋駅」を名乗っていた[*23]。

 

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【オ】四ツ橋予定地。最寄りの地下鉄四つ橋線の駅も同名である。四つ橋線西梅田大国町間はかつての計画線のすぐ西側を走っており、モノレール計画の代わりを果たしている。

 

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【カ】道頓堀駅予定地。かつての西横堀川の痕跡が僅かに残っている。駅が出来ていれば道頓堀への玄関口になったのみならず、ユニークなモノレールが行き交う光景も道頓堀の名物になっていただろう。

 

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【カ】道頓堀駅予定地の反対側、住吉公園方面を望む。モノレールは難波方面に向かって緩やかな左カーブを描いていく予定だった。当時の発起人達は右の1913年のヴッパータールのような光景が、この辺りにも現れることを夢見ていたのだろうか。

(右画像:Wikipedia『Wuppertal Suspension Railway』より引用。(※画像はパブリック・ドメイン元画像リンク))

 

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【キ】叶橋駅予定地は南海難波駅の北西角付近。南海や地下鉄などが難波駅なんば駅を名乗っている中で、駅名が「叶橋」とはちょっと捻りがある。難波付近ではかつて存在した難波入堀川(新川)の上空を通ることになっており、軌道が出来ていれば右のような感じだったろうか。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【キ】叶橋駅予定地の反対側(梅田方面)の光景。仮にここにモノレールが実現していたとすれば・・・(下に続く)

 

【参考】こんな感じの古典的な車両が上空を行く風景を、戦前から見ることが出来ていただろう。動画の後半に映っている駅を「叶橋駅」に見立てると、【キ】の地点の「幻のモノレール像」がよりイメージしやすいのではなかろうか。

(2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【ク】ここでモノレールは90度カーブし、一度西方向へと向かう。ここから芦原橋付近までもかつては鼬川(いたちがわ)という川が流れ、モノレールもその上に敷設することになっていたが、こちらの河川跡は現在見る影もない。

 

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【ケ】トヨタカローラのビルの場所が市場橋駅の予定地。最寄り駅は地下鉄御堂筋線および四つ橋線大国町駅。

 

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【コ】かつての河川の形に沿ってクランク状のSカーブを描き、関西本線を斜めに横断する。目の前を横切っていた関西本線も現在は地下化され、地上線の廃線跡は公園となっている。

 

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【サ】写真中央の建物群付近が芦原橋の予定地で、カーブ上の駅となる予定だった。現在の最寄り駅は大阪環状線の同名駅と、南海汐見橋線芦原町駅。かつてここには市電も通っていた。

 

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【参考】同じくカーブ上に位置する駅の例。これを芦原橋駅に見立てたならば、向いてる方は梅田方面で…と想像すれば良いだろう。

(2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【シ】南海汐見橋線と交差した先で、路線は再び90度カーブし南へ向かう。

 

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【ス】この付近から終点の住吉公園までは、十三間川という河川の上を通すことになっていた。こちらも川は埋められたが、南海汐見橋線に橋梁がそのまま残っていたり、琴江橋跡の碑や河川跡の遊歩道があったりする。かつてモノレール計画が存在した河川の貴重な痕跡だ。

 

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【セ】2つの阪神高速が合流する手前付近が西浜町駅の予定地。最寄り駅は南海汐見橋線木津川駅。現在この付近にはもう「西浜町」という地名は残っていないようである。

 

【参考】現在のヴッパータール空中鉄道の走行シーンを見ると、1本のレールに引っ掛かっているだけという頼りなさそうな構造に反して、電車は結構なスピードで飛ばしていくのが見て取れる。大阪でも実現していれば、西浜町付近でもこんな光景が見られただろう。

(2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【ソ】津守町予定地は南海の西天下茶屋駅から西にしばらく行った辺りで、すぐ近くにはバス停も設置されている。

 

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【ソ】駅予定地の反対方向(住吉公園方面)を望む。モノレールの軌道が出来ていたなら、右のようなイメージにかなり近かろう。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【タ】玉出町駅予定地。最寄りは地下鉄四つ橋線玉出駅。西浜町からしばらく周辺風景の変化に乏しく、やや単調である。

 

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【チ】現在は阪神高速がカーブを描いているこの場所も、モノレールが通っていたなら右のような車窓風景が電車から楽しめたに違いない。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

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【ツ】終点の住吉公園駅予定地。右のような感じの終着駅になっていただろうか。現在この辺りは人通りの少ない閑静な住宅地だが、駅が出来ていれば周辺には店が集まり、住吉大社への玄関口としても賑わっていたことだろう。

(右写真:2013年9月、ヴッパータール空中鉄道(ドイツ)にて執筆者撮影)

 

********************

 

鉄輪式の懸垂モノレールが、大阪の街に、戦前から出来ていたらどうなっていただろう。

現状では世界的に見ても数少ないであろう鉄輪式懸垂モノレールを、日本や関西に居ながら見られたかもしれない。実状では関東にしかない懸垂式モノレールそのものも、関西にもあるそれとして、代表的な路線になっていたかもしれない。あるいは、戦前から存在する路線として、その古式かつ古風なモノレールが大阪名物として広く知れ渡り、持て囃されていたかもしれない……

一方で、負の”もしも”も敢えて考えてみるとするならば、ランゲン式のような鉄輪タイプの懸垂式モノレールの特性から、地震・台風などで車両の脱線・落下を起こしやすいということで、早々と他のモノレール方式や交通機関へと置き換えになっていたかもしれない。戦後大阪の人口増から輸送可能量が限界に達し、どのみち地下鉄などの大容量の輸送手段に取って代わったかもしれない。あるいは、橋脚・軌道が鉄製ゆえに老朽化も早く、数十年で施設の全面改修が必要になっていたかもしれない…… 末永く存続出来得たかといえば、一概にそうとは言い切れなさそうだ。

これほど沢山の”もしも”を浮かべてはみたが、数々の民間鉄道事業者大阪市内参入を断固として阻んできた「市営モンロー主義」の事実があることもあって、大阪懸垂線がもし実現していたら…というのは高確率で有り得なかった話ではある。それでも路線計画を立てた場所が、せめて「市営モンロー主義」や並行他路線の影響を受けない大阪の他の所だったならば、日本初のモノレールを戦前の大阪から…が実現していた可能性も、無いとは言えないのではないだろうか。

 

結局は戦前の関西においてモノレールが営業路線として走り出す事は無かったが、関西におけるモノレール営業路線の登場そのものは、戦後21年経った昭和41(1966)年の姫路モノレールの開業が最初のようで(昭和54(1979)年に正式廃止)、大阪における恒久的なモノレール路線の開業は、大阪懸垂線計画から約60年後の平成2(1990)年まで待たなければならなかった。

 

★ 主な参考文献 ★

鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵)https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000385125

Osaka-Subway.comOsaka Metro(大阪メトロ)のファンサイト

●Osaka-Subway.com『マルコに恋して -大阪地下鉄道20の秘密-』(2017年、自費出版

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)

Wikipedia『日本のモノレール』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB(2018年7月閲覧)

Wikipediaヴッパータール空中鉄道』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%A9%BA%E4%B8%AD%E9%89%84%E9%81%93(2018年7月閲覧)

Wikipedia『モノレール』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB(2018年7月閲覧)

 

-脚注-

*1:右記のツイート(https://twitter.com/tangyorai/status/730712129913815040)が写真付きで紹介している。ツイートによれば掲載書籍は『世界の鉄道 昭和37年版』だそうだが、その書籍が掲載している図(写真)の原典は、大阪朝日新聞の「大阪市電気博の空中電車動く」(昭和3(1928)年11月29日 夕刊)のようである。

*2:本記事で取り上げる物以外の計画としては、京阪神単軌高架鉄道(原資料:鉄道省文書「京阪神単軌高架鉄道大阪市東淀川区今里町ー京都市下京区七条大橋西詰、大阪市東淀川区今里町ー神戸市天王橋附近間鉄道敷設願却下ノ件」(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵))が挙げられる。

*3:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.3・12・13・20・21など

*4:一般社団法人 日本モノレール協会「モノレールのあゆみ」『都市モノレール』http://www.nihon-monorail.or.jp/2015JAPANESE.pdf(2016年1月)P.2・3

*5:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.20・21・23~26

*6:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.185

*7:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.24

*8:なお、森口誠之の『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)のP.185には、空中電気鉄道(江の島の計画線)の軌間が「1067mm」と記載されている。大阪懸垂線の当初計画と同じように、江ノ島懸垂線でも当初計画では2条式の線路から車両を懸垂させる予定だった可能性もあり、その点でも大阪懸垂線とのプロジェクトの連動を見出せそうな印象を受ける。

*9:写真付きで解説が掲載:Wikipedia「事故」『ヴッパータール空中鉄道』(2018年7月閲覧)

*10:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.1・2

*11:国立公文書館デジタルアーカイブでのページ数。

*12:Osaka-Subway.com「10 路線ごとにつけられた各カラーの由来」『マルコに恋して -大阪地下鉄道20の秘密-』(2017年、自費出版)P.56・57

*13:『【コラム】縁起が悪いから?皿池から岸里になったもう1つの理由』http://osaka-subway.com/y18/(Osaka-Subway.com、2016年12月29日、閲覧日:2018年7月11日)

*14:『【今日の記念日】3月29日:大阪市営地下鉄の最初の敷設計画が決まる』http://osaka-subway.com/today0329/(Osaka-Subway.com、2015年3月29日、閲覧日:2018年7月11日)

*15:『【交通局最終日】大阪市営地下鉄85年の歴史を振り返ります(1944-1933)』http://osaka-subway.com/metro1days/(Osaka-Subway.com、2018年3月31日、閲覧日:2018年7月12日)

*16:「唯一の『ひげ文字』駅名標」『【コラム】縁起が悪いから?皿池から岸里になったもう1つの理由』http://osaka-subway.com/y18/(Osaka-Subway.com、2016年12月29日、閲覧日:2018年7月12日)

*17:『【今日の記念日】10月1日:四つ橋線西梅田大国町間開業』http://osaka-subway.com/1001y/(Osaka-Subway.com、2015年10月1日、閲覧日:2018年7月12日)

*18:Osaka-Subway.com「09 1947年の地下鉄計画はこうだった」『マルコに恋して -大阪地下鉄道20の秘密-』(2017年、自費出版)P.45~48

*19:原資料:鉄道省文書『南海急行電鉄西成区南開町泉南部佐野町敷設願却下ノ件』(昭和9(1934)年、国立公文書館蔵)

*20:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.5~9

*21:大阪市の「市営モンロー主義」と大阪府の存在』http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20070626/1182856142(とれいん工房の汽車旅12ヵ月、2007年6月26日、閲覧日:2018年7月12日)

*22:鉄道省文書『日本懸垂電気鉄道梅田町浜口町間鉄道敷設願却下ノ件』(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵) 同館デジタルアーカイブ P.5・10など および 森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.165

*23:『駅の名は…? 大阪市営地下鉄の現在と開業当初の駅名はこんなにも違った!』http://osaka-subway.com/yourname/(Osaka-Subway.com、2016年12月28日、閲覧日:2018年7月1日)