幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【廃線跡】スカーボローのミニ廃線跡を歩く(イギリス)

~ 英国東海岸のリゾート地で見つけた、ささやかな鉄道跡 ~

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イギリス(イングランド)の東海岸に、スカーボロー(Scarborough)という町がある。

最寄りの主要都市はヨーク(York)。そこから、列車で50分ほどの距離である。

スカーボローの位置。イギリスやイングランドのどの辺りに位置しているのか、町はどんな風になっているのか、そもそも日本とイギリスの位置関係は……などについては、適宜上のGoogleマップを拡大・縮小して頂きたい。

 

海岸沿いに位置しているだけあって、ここはイギリスきってのリゾート地。

海沿いには砂浜が存在し、ビーチ沿いにはゲームセンターや飲食店などの店舗が立ち並び、町の中心部には旧市街の建物が広がっている。賑やかな町なのでやや雑多でゴッチャリした印象はあるが、それほどリゾート地として人気を集め、賑わいを見せているということであろう。

おまけに言うなら、ここはイギリス現地ではポピュラーなリゾート地でありながら、アジア圏においてはそれほど知られていないためか、アジア系の人を見かけることはあまりない。アジア系の多い空間から少し離れて、ヨーロッパやイギリスの雰囲気の純度が高い場所で時を過ごすなら、このスカーボローという町はうってつけの場所とも言うことが出来るかもしれない。

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スカーボローの美しい海岸と街並み。町にある小さな半島の山の上には、古城跡も存在している。

 

さて、自身がイギリスを旅行中にこのスカーボローの街を歩いていると、街中でちょっとした「廃線跡」を幾つか見つけることが出来た。

今回は紀行文のような形で、この時に見つけた2ヶ所ほどの「ミニ廃線跡」を、ミニリポート的に紹介することにしよう。

 

(※この町(Scarborough)の日本における呼び方は「スカボロー」や「スカーブラ」など様々あるようだが、本記事における表記は実際の発音に忠実に合わせ「スカーボロー」で統一することとした。)

 

★ ミニケーブルカーの廃線跡

スカーボローの海岸沿いには崖のような地形が存在するため、その高低差往来の利便を高めるために、この町には合計で3つの短いケーブルカーが造られてきた。

 

うち現在でも現役なのは2路線。残り1路線は短距離であるためか、現在では廃線となっている。

 

この項で紹介するのは、その廃線となったミニケーブルカー。

距離・軌間・廃止時期…などの詳しい路線データは調べていないため割愛するが、下の廃線跡の現地リポートにも掲載しているように、かなり広軌で相当短距離であるなど、日本のケーブルカーとは違った特色が幾つも見られる。

 

早速にはなるが、その実際の姿と現地の様子を以下で見ていこう。

 

・撮影時期:2017年4月

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 以下しばらく【ア】の地点。

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ミニケーブルカーの廃線跡全景。ご覧の通りその距離は極端に短く、ケーブルカーというよりは斜行エレベーターといった印象である。

 

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ケーブルの全景をもう少し近くより。全線に渡って複線で、軌間もかなり広いことから、日本でいう京都の蹴上インクラインを想起させる。

 

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下側の駅の建物は現在、アイスクリームなどを販売する店舗となっている。建物内にも上から来たレールが残存していたが、特に何も買わなかったため内部の撮影は控えておいた。

 

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台車及び軌道の近影。軌道中央には1本のレールが設けられており、台車下部をよく見るとそのレールを挟み込むような何かが見えるため、ブレーキ用のレールの役割をしていたらしい。鋼索を通していた設備が軌道には見当たらないため、現役時どのような構造だったかが気になる。

 

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廃線跡を横から。距離は相当短いながら軌道はかなりしっかりした造りとなっている。上に留められている2台の車両は、台車は現役時使われていた本物のようだが、車体は廃線後に造られたダミーのように見える。

 

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軌道下部を近くから。コンクリート製の立派な高架構造であり、短距離で廃線になったのが勿体ないくらいだ。

 

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軌道を至近から。中央のレールは標準的な「エ」形のものだが、両側の走行用レールはよく見ると「逆T字型」となっているのが面白い。右写真の下側の駅の上部は現在、オープンテラスに改造されている。

 

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上側の駅も現在はカフェに改装されている。建物は奥に停められた車両と一体構造となっている。

 

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【イ】

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【ウ】

現在も現役で活躍する他2つのミニケーブルカー。現地では「Tramway」(軌道) や「Lift」(エレベーター) などと呼ばれている。高低差の移動手段であるだけでなく、そのクラシックな風格がスカーボローの町のシンボルのようにもなっている。日本のケーブルカーとの構造的な違いも興味深く、機会があればまた別途改めて詳しく紹介したい。

 

★ リフトの廃線跡

町の中心部から外れた町北部の海岸沿いを歩いている時に発見したもの。

 

現地の様子や地図(航空写真)などを見てみると、海岸沿いから小高い丘の上の遊園地と思しき場所までを結んでいたらしい。

これも詳しい路線データは調べていないため割愛するが、Googleマップの航空写真などを見る限り、先ほどのケーブルカーよりも長い距離を運行していたようである。

 

本項も廃線跡のリポートが中心となるため、詳しくは以下の現地の様子をご覧頂きたい。

 

(※イギリスでは「リフト」(lift) と言うと「エレベーター」のことを指すので、イギリスに行かれる場合は留意されたい。)

(※リフトのような索道系が鉄道と言えるのかどうかは議論が分かれるところだが、本ブログでは一定のガイドウェイに沿っていく軌道系の交通機関であることに変わりはないとして、鉄道の一種と見做すことにした。)

 

・撮影時期:2017年4月

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 以下しばらく【エ】の地点。

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海岸沿いの乗降場跡。乗降ベースだけでなく、リフトが折り返していた巨大なホイールも、錆びついた状態で残っている。

 

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乗降場跡を横から見る。一部で蓋が失われて機械がむき出しになっている。

 

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海岸沿いの一連のリフト乗り場跡は特に柵も何もされておらず、公園の一部として自由に出入り出来る状態なのが少々驚きである。

 

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ケーブルを失った支柱は完全に無用の長物として、曇天の空の下に立ち続けている。

 

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支柱の滑車部を拡大。右側に蔦か針金が絡んでいることが、朽ちつつあることを物語っている。

 

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丘の上に向かって勾配を稼ぐ。意外と高所を通過していたようだが、落下時の防護ネットは元々設けられていなかったのか、それとも廃止後撤去されたのか。

 

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登っていく支柱を別角度より。写真を少し加工すれば、丸田祥三氏風の廃墟写真が作れそうである。

 

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スカーボローの半島や海と廃リフトの支柱。この時の曇天とも相まって、哀愁たっぷりの光景である。

 

【オ】このリフトがどこまで続いていたかGoogleマップで辿ってみると、丘の上には遊園地の廃墟区画のような場所があり、ピンを立てた場所の下にリフト乗り場跡が見える。廃リフトの先に廃遊園地…だとしたら更に凄い物が見られそうだが、海外で面倒事を起こすわけにもいかないので、現地で現場に立ち入るのは控えておいた。

 

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ちなみにこのリフト跡のすぐ横には、ミニサイズの遊覧鉄道(現役)が走っている。訪問時は運行日ではなかったようだが、イギリス規格の鉄道が小スケールで再現されていたり、これ大丈夫か…と思ってしまうようなガタガタのレールが見られたりと、こちらも興味深い。

 

★【補記】その他の廃線跡

本記事で紹介したのは街中や周辺で見つけたちょっとした廃線跡だったが、スカーボロー周辺にはこの他にも、旧イギリス国鉄系の廃線跡も存在している。

 

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その存在を見つけたのは、スカーボロー駅に掲げられた古い路線図。

かつてイングランド北東部の鉄道路線を運営していた「北東鉄道」(North Eastern Railway) という会社の路線網を描いたもののようだ。

 

その中のスカーボロー周辺付近を見てみると、駅より西に少し外れた場所から分岐し、北に向かって延びていく路線の存在が確認出来る。

 

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同じく駅に掲げられた現在の路線図を見てみると、同じ場所からは先程の路線が消えている事が分かる。

つまり、駅の近くにこの路線の廃線跡が存在しているということである。

 

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この路線がスカーボローのどこを通っていたか、Googleマップなどで廃線跡の場所を調べ、現代の地図に落としたのが上の図である。点線部分は航空写真だけではルートが不明瞭だった箇所である。

 

自身がスカーボローを訪ねた時には、街歩きに専念していたことや街中から距離があったことから、この廃線跡を直接訪ねることは叶わなかったが、廃線跡と交差する一般道のストリートビューから現地の様子を伺うことが出来るので、以下で少しだけ紹介したい。

 

【カ】現在、廃線跡の大部分は木立ちに囲まれた散策路として整備されている模様。Googleマップによれば、この鉄道はかつて スカーボローとウィットビー(Whitby)という町を結んでいた もののようで、現在でも廃線跡の遊歩道は「旧スカーボロー・ウィットビー鉄道」(Old Scarborough to Whitby Railway) と呼ばれているそうだ。

 

【カ】同じ地点の踏切跡の様子。丁度線路が交差していた部分には、あたかも線路を彷彿とさせるような形でタイル・ブロック舗装がなされている。線路跡を再現したものなのか単に横断帯を描いただけなのかは分からないが、何だか粋である。

 

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イギリスは単に遠く離れた異国であるだけでなく、鉄道発祥国ということもあり、日本とは違った鉄道システムが数多く見られる。

そして、かつては多くの鉄道網が国内に張り巡らされ、消えていき、そして多くの廃線跡も生まれてきた。

 

自身も先の旅行で幾多のイギリスの鉄道スポット、及び幾つかの廃線跡を訪ねてきたし、未踏の場所にもまだまだ面白そうな所は沢山存在しているので、訪ねたものは順次このブログでリポートしていきたいし、将来的にも機会があれば、廃線跡や鉄道スポットを更に訪ねていきたいと思っている。

 

(※参考文献:なし)

【未成線】奈良電気鉄道の小倉~宇治を歩く(京都)

~ 本線から支線に降格し消滅した、奈良電の当初計画 ~

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京都と奈良を結ぶ私鉄が近鉄に吸収合併され、同社の京都線となってかなり久しい。

 

この京都線近鉄となる55年前まで、路線は奈良電気鉄道という独立した鉄道会社のものだった。

開業は昭和3(1928)年と電鉄ブームの頃、当時の国鉄奈良線よりも近代的で高速の電車が京奈間の所要時間を短縮し[*1]、澱川橋梁や伏見高架橋の建設など土木史にも残るエポックを築いた一方[*2]、閑散地帯を走ることによる集客や経営への苦心や私鉄他社との利害対立[*3]、および政治的疑獄事件に巻き込まれるなど[*4]、波乱の多い会社でもあった。奈良電(近鉄京都線)は実に起伏の激しい歴史を秘めている路線なのである。

 

そんな奈良電が京都~西大寺間の本線(開業線)だけでなく、小倉駅付近から京阪宇治駅付近までの支線も計画していたことは、知る人ぞ知る話であろう。

敷設免許期間が比較的長かった路線計画でもあるが、正確にはどの位置を通る予定だったのか、そこまで知る人は少ないのではないだろうか。

 

今回、自身が奈良県側にその詳細な資料が残されているのを見つけたので、この路線がどのような姿で造られるはずだったのか、ここでは実際の駅や橋梁などの図面も交えながら、当時の詳しい計画像を中心に紹介したい。

 

なお、本記事の後半において、京都府内に存在した奈良電の他の未成区間についても、少し触れる形で紹介する。

 

★ 概要と歴史 ★

路線は奈良電本線(現:近鉄京都線)と京阪宇治線を結ぶように、国鉄 (JR) 奈良線の北側にほぼ並行する形で引かれたもので、計画期間は大正13~昭和34(1924~59)年と比較的長めである。

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しばしばこの路線の区間は「近鉄小倉駅~京阪宇治駅」として認知されるようだが[*5]、実際は奈良電(近鉄)側では伊勢田~小倉(現行)間で現在線と別れ、京阪側は京阪宇治駅の手前で合流するというルート設定が取られていた。

なお、小倉~宇治間が本線の一部として組み込まれていた頃は、伊勢田から小倉までは現在線のように直進せず、途中でそのまま東にカーブして、現在とは異なる場所に小倉駅(当初計画)を設ける予定だった。

路線名称については、最初は本線の一部に含まれていたのでまだ分かりやすいが、支線降格後にどのような線名で扱われていたのか、正確なところは分からない。「宇治支線」とでも呼ばれていたのだろうか。

計画線上には国鉄 (JR) 宇治駅の西側付近に新宇治駅を予定し、他にも一時は奈良電の他の計画線であった大阪線と直通運転させる話(後述)もあったという。

 

本記事ではこの計画線が「どのような姿で造られる予定だったか」という「計画像」に主な焦点を当てた内容とするため、歴史・時代背景・計画線を取り巻く状況といった既出度の高い文章的内容については、ウェブサイトや書籍から要点を拾ってまとめる程度に留めるとする。

計画像の詳しい内容については後述の「未成線を歩く」の項で詳説している。

 

下は当時の奈良県庁文書に封入されている、当該区間が記載された原図面(抜粋)。左側が北で、国鉄奈良線の左隣の白線が奈良電の計画線。先述の通り下端部で東にカーブしており、京都駅方面へ直進・北上する線はここには書かれていない。

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 450ページ目 より引用・抜粋)

記事の初頭から原資料を示したが、これは原資料について幾つか説明が必要なため。

 

本記事の執筆に当たって参照・使用した資料は、奈良県庁文書の「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」という簿冊なのだが、「奈良電は大正・昭和期の計画・開業なのに、なぜ参照元が明治期の資料?」と疑問に思う方も多いだろう。

実は結論から言うと、 大正・昭和期の奈良電の図面が明治期の文書に混入 しているのである。

 

これはどういうことか簿冊を読み解いてみると、文書内には明治期に存在した「奈良電気鉄道」という同名で全く別の計画について書かれており、これは奈良市内を走る路面電車として計画されていたらしく、最終的には敷設が認可されないまま終わったようだ(簡略的なルートマップも文書内に綴じ込まれている)。[*6

 

つまり、昭和初期開業のよく知られている方の奈良電の図面を、奈良県側が行政文書として整理する際に、明治期の文書の側に別の「奈良電気鉄道」という同名計画が入っていることが原因となって、昭和期にうっかり混入されてしまった可能性が考えられる。

このようなケースは国における鉄道省文書の事例でも起こっているようで、簿冊として整理される際や国立公文書館への「移管時に誤って混入したと思われる文書」(宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩くVII』(1999年、JTB出版事業局)P.234)の存在が認められているそうなので、奈良県庁のような地方の公文書の事例においても例外ではないということなのだろう。

 

文書内に封入されている(本記事で使用の)図面は、路線の平面図の一部を見るだけでも、線形やルートなどが現在の近鉄京都線とも明らかに殆ど一致しているので[*7]、紛れもなく開業した方の奈良電の図面としては本物と言うことが出来る。

 

では、その図面は奈良電のどの年代のものか?ということになるが、

①本線が途中で宇治方面へ曲がっている

②伏見・京都駅方面へ直進する経路が書かれていない

③本線の他の箇所でルート変更が赤線で書き込まれている[*8

これらの点を、一般に流布している情報と照らし合わせると、

①大正13(1924)年に本線の起点を宇治に設定[*9

②大正15(1926)年に小倉付近~伏見方面の経路が登場[*10

③昭和2(1927)年に本線の路線一部変更[*11

ということから、 図面は大正13~昭和2(1924~27)年頃のものではないか 、と見当を付けることが出来る。

 

なお計画線については、現在の小倉駅が当初計画とは異なる位置に造られたことや、大阪線(計画)と直通列車を走らせる目論見も一時期あった(後述)こと、そして小倉~宇治間が実現しなかった要因にユニチカの工場敷地問題があった[*12]ことを考えると、同線が支線降格後に計画線のルート変更が行われた可能性も考えられるが、その事実を示す資料の存在については確認していない。

本記事で用いる中心資料は先にも述べた奈良県庁文書であるため、先の図面の年代を基にすると、この記事では大正末期~昭和初期時点での計画像を取り上げることになる。

 

-路線データ-

●距離

 ◎京阪分岐~小倉駅(当初計画):2.2km*13

 ◎未成区間全体:2.7km*14

●線数:複線(全区間)[*15

●駅数:(未成区間内のみ)[*16

●備考:動力(電流方式・電圧)・軌間は奈良電の開業線(現在の近鉄京都線)に同じ

 

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180では、区間は「京阪宇治~近鉄小倉」と紹介されており、その距離が「2.2」kmとなっているが、現在の京阪宇治駅から近鉄小倉駅までの距離を国土地理院地理院地図(電子国土Web)で計測してみると、一直線に結んでようやくギリギリ2.2km台、それを鉄道らしい自然な線形で結ぼうとすると、どう線を引いても2.2km台を超えてしまう。

これを、上記の京阪分岐~小倉駅(当初計画)として実際の計画線に沿って計測してみると、ほぼピッタリ2.2kmに一致する。このことから「小倉~宇治間の距離2.2km」はこのように「小倉駅(当初計画)~京阪分岐」間の距離を指すようである。

 

奈良電そのものは実際に工事まで着手され開業へと漕ぎ着けた路線だけあって、文書内には詳細な各種の設計図面が残されている。

これは未成に終わった小倉~宇治間も例外ではなく、本記事の一番最初に示した原図面を見てみると、どの設備を区間内のどの辺りに造ろうとしていたかが詳しく指南されており、現代の地図にそれらを落とし込むと以下のようになる。

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駅の位置や宇治川橋梁の存在はもちろん、水路に架ける予定だった溝橋とその径間、更に別の図面を参照すると信号機の設置位置[*17]までが事細かに分かってくる。

実際には未成に終わり線路は造られなかったにもかかわらず、その路線像がかなり生き生きと伝わってくる。

信号機の位置については各駅の個別の図面にも更に詳しく書き込まれており、それらは後述の「未成線を歩く」の項で詳しく解説している。

 

下は奈良電が昭和3(1928)年に発行した沿線案内の抜粋。ここにも点線で小倉~宇治間の計画線が書き込まれている。

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↑(奈良電気鉄道株式会社「奈良電車沿線案内」(昭和3(1928)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 1ページ目 より引用・抜粋)

ここで触れられている計画線は、この路線のみ。

奈良電には他にも、大阪線・奈良・桜井延長線といった計画があったのだが、各々の免許取得時期は昭和4(1929)年・昭和3(1928)年・昭和4(1929)年[*18]となっているため、この案内が発行された頃にはまだ、それらは存在し始めたか免許申請中かということで、この時点では触れられなかったのだろう。

小倉~宇治間については、自身は他の昔の絵地図でもこの計画線が書かれているのを見た記憶があるので、ひょっとしたら鉄道路線の絵地図に触れられる機会も多く、奈良電も実際特に実現を望んでいたのかもしれない。

 

-歴史-

●大正13(1924)年:本線の起点を京阪宇治付近に変更

免許自体は大正11(1922)年に奈良電本線のものとして取得しており、起点も別の場所に定めていたが、当初予定より建設距離を短縮することを狙い、計画変更の形で起点を京阪宇治駅付近に設定。これが、小倉~宇治間の路線計画の興りである。[*19][*20

大正14(1925)年:奈良電気鉄道の創立事務所を久世郡宇治町*21、後に本社三室戸出張所を京阪三室戸駅前に設置*22

昭和2(1927)年:小倉~宇治間の着工を見送る

工事を見合わせた要因として先にも少し触れたように、線路予定地がユニチカの工場敷地と重複する問題が発生。そのため経路などの設計変更が必要となった。この年は奈良電本線の工事が始まった年でもあるため、当該区間を差し置いた上で他区間(小倉~西大寺)から先に着工することとなった。[*23

昭和3(1928)年:本線と伏見支線が一体開業し、小倉~宇治間は事実上支線に降格

本線よりも後発で登場した伏見支線(小倉~桃山御陵前)の方が先に建設されることになり[*24]、開業時にはかねてからの本線(小倉~西大寺)と一体となる形で運行を開始[*25]。桃山御陵前(後に京都まで延長)~西大寺間が現在の近鉄京都線に続く実質的な本線のような形となり、小倉~宇治間は枝分かれする支線のような格好に。

● 年 代 不 定 :大阪線(計画)と宇治方面の直通運転が目論まれる

別の計画線であった大阪線(小倉~新玉造)と小倉~宇治間を繋いで直通列車を走らせることも奈良電は考えており、 昭和2(1927)年 大阪線免許出願時には既に目論まれていたそうだ。また、 昭和7(1932)年 大阪線を「京阪急行電鉄」という別会社を設立して建設・運行しようと試みた際にも、宇治~新玉造間の所要時間は29分と具体的な数字まで弾き出されている。[*26

●昭和34(1959)年:免許が失効

その後しばらく目立った動きは無かったようだが、時と共にその必要性が薄れてきたためか、この年に計画は消滅。奈良電がまだ近鉄に合併する前のこと、計画存在期間は35年間だった。[*27

 

未成線を歩く ★

・現地踏査時期:2018年4月

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【ア】本線(近鉄京都線)との分岐点。現在線は直進しているが、宇治方面へは右の緑の斜面辺りで分岐し、東へ向かってカーブしていく予定だった。

 

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【イ】赤矢印の辺りが線路予定地。家並みが計画線の形に沿っているようにも見えるが、これは周辺地形の関係によるものと思われる。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 476ページ目 より引用。見やすくするため画質を補正してある)

【ウ】の地点には小さな水路を跨ぐため図のような「溝橋(径間6尺)」が予定されていた。橋台は立派ながら橋は小規模なものである。

 

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【ウ】現在の同橋梁予定地の様子。橋はおろか水路ですらその姿を消しており、面影はすっかり失われている。かつて水路があったのは歩道の部分だろうか?

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 492ページ目 より引用)

【エ】小倉駅(当初計画)の設計図面。上が南、下が北である。現在の近鉄小倉駅とは異なり、宇治方面へ東進したカーブの途中に造られる予定だった。プラットホームだけでなく、信号機の位置なども詳細に書き込まれている。

 

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【エ】上の図面を旧予定地の現在の航空写真に写し取るとこのようになる。空撮画像の画質が少々悪いのはご愛嬌だが、同地点のどの部分にどの施設が造られるはずだったか、一目瞭然である。

 

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【エ-Ⅰ】現地から見た現在の旧・駅予定地。撮影のために立っていた場所が丁度線路内で、赤丸内の辺りが駅入口およびプラットホームの位置である。すぐ近くには現在、奈良線JR小倉駅が出来ている。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 475ページ目 より引用。見やすくするため画質を補正してある)

【エ-Ⅱ】小倉駅(当初計画)の手前にもまた、水路を跨ぐための「溝橋(径間4尺)」が架けられることになっていた。こちらも橋台は立派ながら、橋の長さは更に短い。

 

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【エ-Ⅱ】現在の橋梁予定地付近。ここも水路は暗渠化されており、コンクリートと金網の蓋が僅かに水路の面影を伝えるのみである。

 

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【オ】小倉駅(当初計画)予定地付近の航空写真を眺めていると、左の昭和21(1946)年の写真の中に 不自然な一直線状の土地 (赤丸内)が写っているのを発見した。右の平成20(2008)年の写真で見ても、赤丸内左寄りにその面影が残っているのが分かる。計画線の予定位置とは少々ずれているが、場所や形状的に全く関連性が無いとも考えにくい。かつて奈良電の未成線用地だったのだろうか?

 

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【オ-Ⅰ】直線状の土地の西端の様子。現地から見ても当時の土地形状のまま一直線に家が立ち並んでいるのが見て取れる。幅的にも複線分の線路を敷くのに丁度良さそうである。

 

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【オ-Ⅱ】直線状の土地の痕跡は断続的に続く。ここも家屋および土地形状が他の家の並びと違い少々斜め向きになっている。

 

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【オ-Ⅲ】現存する直線の土地の痕跡はここまでで、ここは数十mの道路および住宅用地(右側)になっている。一連の土地が旧奈良電用地あるいは近鉄用地だったという物証は見当たらなかったが、もしこれらがかつて奈良電用地だったとすれば、小倉~宇治間の未成線の数少ない痕跡ということになる。

 

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【カ】小倉方面を望む。未成線の痕跡というわけではないが、この道路は計画線の予定ルートの位置とほぼ一致した所を通っている。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 477ページ目 より引用)

【キ】の場所に予定されていたのは「溝橋(径間8尺)」。水路を跨ぐ溝橋としては、小倉~宇治間の中では最も径間が広い。

 

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【キ】の橋梁が予定されていたのはこの辺り。ここの水路も暗渠化されており、道路左半分のアスファルト舗装とマンホールに名残が見られるくらいである。

 

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【ク】宇治駅予定地近くより小倉方面を望む。ここも奈良電予定地だったわけではないが、鉄道が通るはずだったのはこの辺り。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 487ページ目 より引用)

【ケ】奈良電の宇治駅国鉄(JR)奈良線宇治駅の西隣付近に予定。この図面も上が南、下が北。側線や渡り線を有する3面3線の比較的大きな駅で、図面には場内・出発・閉塞各信号機の位置や構内配線図、貨物ホームの存在などその計画像がやはり詳細に書かれている。

 

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【ケ】上の図面を現地の航空写真に落とし込むと大体このようになる。図面と現地の様子がなかなか一致せず、実際の予定位置とは少々ずれている可能性もあるが、おおよそこの場所にこのような物が造られることになっていたと考えればよい。

 

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【ケ-Ⅰ】宇治駅構内の西端部付近。写真右側の背後が京都方面側の場内信号機の位置で、写真中央付近が側線の端部に当たる。

 

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【ケ-Ⅱ】プラットホームが予定されていたのはこの辺り。道路の交差点やマンション等になっており、とても駅予定地だったとは想像もつかない。

 

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【ケ-Ⅲ】ユニチカ宇治工場専用線廃線跡。新宇治駅東端はこの専用線と交差することになるが、駅の図面には書かれていない。専用線との交差問題も小倉~宇治間の実現を妨げる一因となったのだろうか。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 476ページ目 より引用。見やすくするため画質を補正してある)

【コ】の位置に予定されていた「溝橋(径間6尺)」。路線の最初の方で出てきた6尺の溝橋、再びの登場である。もちろん図面も最初に出てきたものと共通。

 

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【コ】現在の同溝橋予定地の様子。病院駐車場や歩道として整備されており、かつて存在したであろう水路が暗渠化されているのかどうかすら分からなくなっている。

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 458ページ目 より引用。見やすくするため画質を補正してある)

【サ】宇治川橋梁に入る手前辺りに設けるとしていた「宇治避溢橋」。溝橋よりかは大きめのサイズの小橋梁で、架道橋や小河川に架けるような橋といった趣である。

 

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【サ】左の写真の巨大アパートの場所が宇治避溢橋のはずだが、橋梁予定地を感じさせるものは微塵もない。撮影した場所には丁度、右写真のような暗渠もあったのだが、実際はここに造るはずだったのだろうか?

 

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↑(奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 454~455ページ目 より引用・抜粋。上の全体図は2つに分かれていたものを1つに接合してある)

【シ】京阪宇治線に入る前に渡るのが、当線のハイライト・宇治川橋梁。全体図や橋台設計図などの詳細な図面が残されている。備考にあるように第2・4・6号橋脚には架線柱を設置するなど、架けられるはずだった橋の姿をかなり鮮明に伺い知ることが出来る。

 

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【シ】橋梁予定地の現在の様子。あれだけ詳細な図面が残されているのを見ると、現地に何も残っていないのが逆に不思議にすら感じられてしまう。

 

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【ス】宇治川橋梁を渡り切ると線路は緩やかな左カーブを描き、奥の京阪宇治線に合流していく。この辺りは現在も広い空き地だが、用地買収は行われたのだろうか。

 

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【セ】奥で京阪の線路が左カーブする辺りで、右から奈良電が宇治線に合流する。京阪宇治駅の乗り場も平成7(1995)年に現在位置に移設されており[*28]、計画当時とは状況が様変わりしている。

 

★【補記】京都府内の他の未成区間

本記事で紹介した小倉~宇治間の支線(旧本線)の計画以外にも、奈良電は京都府内に合計3つの計画線を有していた。この機会にそれらも簡潔に紹介したい。

 

-八幡支線(新田辺~八幡市)-

現在でいう近鉄京都線新田辺駅付近から、京阪電車八幡市駅(かつての駅名は八幡町駅)までの間を結ぶ路線計画。

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路線距離は10.9km国土地理院地理院地図(電子国土Web)を用い、上の大雑把な概略図の通りに両駅間を直線距離で計測してみると、この距離を下回ってしまうため、実際はもう少し遠回りするようなルートを採る予定だったのかもしれない。

敷設免許の取得は大正11(1922)年と奈良電本線と時を同じくしているが、失効は大正14(1925)年と僅かその3年後、本線すらまだ開業していない時期に計画は消滅している。[*29][*30

 

ちなみに、この界隈にはかつて「奈良軽便鉄道という計画も存在していたそうで、路線の出願は大正2(1913)年、翌年の大正3(1914)年に却下となっている。

そのルートの一部を見てみたのだが、現在の新田辺駅付近から八幡市駅付近までを結ぶ部分があり、この奈良電の八幡支線と路線設定がそっくりなのである。

しかも、発起人の中には「太田 光凞」の名が含まれており、これは明らかに「京阪系」の計画である。[*31][*32

 

奈良電気鉄道も京阪の出資を受けている[*33]など幾つか共通点が見られるので、奈良電の八幡支線の計画はもしかしたら、この奈良軽便鉄道の計画の一部を流用しているのかもしれない。

早期に計画が頓挫したとはいえ、2度に渡って恐らく京阪の手で、奈良方面から八幡方面への路線が目論まれたということは、京阪にも何か思う所があったのだろうか(奈良方面から石清水八幡宮への旅客誘致なのか)。

 

-「新」京都駅(東寺~京都(新)駅)-

現在の近鉄京都駅は元々仮設駅として造られたもので、本来は国鉄(JR)京都駅の北口に本設の駅を改めて造る予定だった。

その形態は、北口の駅前広場の西側に高架ターミナルを造る計画だったとも[*34]、中央口(北口)の直下に地下駅を建設予定だったとも言われており[*35]、諸説錯綜している模様である。

路線距離は0.9km区間を東寺~京都(新)駅として)、免許取得は昭和2(1927)年と奈良電本線よりも遅く、失効は昭和38(1963)年近鉄への合併直後だった。[*36

 

この未成区間に関しては、開業線との分岐点付近にその痕跡を見出すことが出来る。

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左の昭和21(1946)年の航空写真では、(少々不鮮明だが)赤丸の中に本線から分かれていく未成線用地の形が確認出来る。

現代(右の平成20(2008)年の航空写真)においては、用地の北半分は新幹線などに譲ったため面影は残っていないが、南半分は現在も近鉄から分岐する土地形状が残っており、その形のままで建物が建っている。

 

ちなみに京都~東寺間にはかつて「八条駅」というものが存在していたそうだ[*37]。現在のその区間ですら十分至近距離なのに、その間に更に途中駅があったとは驚きである。

 

大阪線(小倉~新玉造)-

京都~奈良間を結ぶだけでは安定した経営が望めなかった奈良電が[*38]京阪間を高速連絡しようと目論んだもので、小倉駅から京阪電車片町線学研都市線)の間付近を通って玉造に至るというものである。

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↑(森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.134の図を基に作成)

路線距離は33.7km。そこに途中駅数は5駅と、当時いくら沿線が閑散地帯だったとしても採算性は随分怪しそうにも見える。

運転計画は 京都~新玉造間の急行運転 のみならず、先にも述べたように 小倉~宇治間との直通運転 も構想されており、宇治~新玉造間を29分で直結するという想定も出されていた。

免許取得は昭和4(1929)年と奈良電が開業した翌年。一時は「京阪急行電鉄」という別会社を設立してでも路線の実現が図られたこともあり、失効は昭和42(1967)年と奈良電が近鉄に合併(昭和38(1963)年[*39])した4年後のことである。[*40

 

大阪線の計画内容や歴史などについては、森口誠之氏の著書『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)の133~143ページに最も詳しく解説されている。

近年この本を店頭で入手することは難しくなってきているようだが、大阪線計画の歴史を見てみると、乱立する他の計画線との認可合戦や駆け引き、鉄道他社との利害関係や紛争・便宜、認可を司る国との政治的取り引きや汚職疑惑による疑獄事件、戦前の鉄道界に影を落とす恐慌……などなど、波乱に満ちた歴史がそこには書かれている。

一社の中だけでの労苦や不成功のみに留まらず、関西や日本の鉄道史(および政治史)の主要な一端を成すような濃いドラマに溢れている、その計画線に秘められたストーリーは非常に読み応えのあるものである。大阪線計画について理解を深めるのであれば、或いはこの書籍を手に取る機会があれば、是非チェックされたい。

 

********************

 

もし計画通り、現在の近鉄小倉駅付近から京阪宇治駅付近まで、近鉄(あるいは京阪電車)が通っていたならば「ある程度は便利だっただろうし、面白かっただろうな~」と思えるには思えるが、果たしてそれが劇的に夢のような恩恵までもたらし得ていたかといえば、近鉄京都線が現状の形で通っていることも考えると、やはりさほどでもないように思えてしまう。

京奈間を連絡するにも宇治・六地蔵付近を経由している時点で大きく遠回りになるのは否めないし、奈良電(近鉄)の京阪乗り入れそのものも昭和20(1945)年に丹波橋駅経由での相互直通運転という形で実現しているし(昭和43(1968)年に廃止)、現に奈良電(近鉄)京都駅発の京阪宇治行きという列車も運行されていたので[*41]、小倉~宇治間をわざわざ造って宇治や京阪にアクセスする必然性は薄れてくる。奈良方面から宇治への旅客を呼び込もうにも観光客ぐらいで、需要そのものが限られるだろうし季節の変動も間違いなく大きそうである。国鉄民営化後に快速運転などの近代化が行われたJR奈良線とも完全に並行しており、地元の生活路線としての必需性も厳しいかもしれない。

 

では、同じく計画倒れに終わった大阪線との直通が実現していたらどうだろう。

大阪から京都郊外の観光地へと「直結」している同様の事例は、現役線なら阪急嵐山線がある。こちらは春や秋などの観光シーズンにこそ梅田などから嵐山へと向かう直通列車が運転されているものの、普段は殆どの列車が線内折返しで、路盤はかつての関係で複線分ながら現在も線路は単線のまま。京都の中心部へと向かっていない路線だけあって、ローカル級の路線に留まっているのである。

奈良電もかつて、大阪方面から宇治方面への直結も計画のキーポイントであるかのように考えていたようだが、きっと蓋を開けていれば、阪急嵐山線と同様に小倉~宇治間もローカル線レベルへと甘んじていたことであろう。需要としては相変わらず季節変動の激しい観光需要が多かっただろうし、大阪へのベッドタウン路線として安定した多数の旅客を獲得し得ていたかというのも少々疑問である。

 

本線から支線へ降格し、奈良電は厳しい経営状況に直面し、時と共に計画線を代替する要素は次々増え、そして路線計画の存在意義は奪われていった…… 実現しなかったのも無理はないのかもしれない。

 

★ 主な参考文献 ★

奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵)P.334~432 および P.450~508(まほろばデジタルライブラリーで画像閲覧可。ページ数は同サイトでの該当ページ)

(↑※資料への直リンクが出来ない可能性があったため、各自上記サイトで検索されたい)

●奈良電気鉄道株式会社「奈良電車沿線案内」(昭和3(1928)年、奈良県立図書情報館蔵、まほろばデジタルライブラリーで画像閲覧可)

(↑※これも資料への直リンクが出来ない可能性があったため、各自上記サイトで検索されたい)

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.133~143 および P.180

●髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔 II』(2002年、JTB出版事業局)P.98・130

(↑※著者名の「禮=れい」の実際の字は「ネ」に「豊」)

●ウェブサイト「レイル・ストーリー12 - 奈良電の足跡」(2018年5月閲覧)

  1. 「前編」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden1.html
  2. 「後編」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden2.html

(↑※サイト各ページの文末にも、参考文献が4点示されている)

Wikipedia「奈良電気鉄道」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93(2018年5月閲覧)

●田中真人 他『京都滋賀鉄道の歴史』(1998年、京都新聞社

 

-脚注-

*1:奈良電気鉄道株式会社「奈良電車沿線案内」(昭和3(1928)年、奈良県立図書情報館蔵)※まほろばデジタルライブラリー 内容注記(冒頭文)

*2:「レイル・ストーリー12 - 奈良電の足跡(前編)」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden1.html(2018年5月6日閲覧)

*3:「レイル・ストーリー12 - 奈良電の足跡(後編)」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden2.html(2018年5月6日閲覧)

*4:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.142~143

*5:例えば、森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180の免許線リストでも、区間がそのように説明されている。

*6:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 283~324・440~443ページ目

*7:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 450ページ目

*8:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 450ページ目

*9:Wikipedia「経緯(路線敷設免許取得まで)」『奈良電気鉄道』(2018年5月7日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.5~6」および「『起業目論見書記載事項変更の件』 1924年10月25日 (国立公文書館蔵)」が挙げられている。

*10:Wikipedia「経緯(伏見支線の建設)」『奈良電気鉄道』(2018年5月7日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『小倉村、伏見町間延長線敷設免許の件』 1926年12月25日 (国立公文書館蔵)」および「『奈良電鉄社史』P.11」が挙げられている。

*11:Wikipedia「経緯(本線の建設)」『奈良電気鉄道』 (2018年5月7日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『線路及工事方法変更の件』 1927年8月12日 (国立公文書館蔵)」および「『奈良電鉄社史』P.9~10」が挙げられている。

*12:Wikipedia「経緯(本線の建設)」『奈良電気鉄道』 (2018年5月7日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.10」が挙げられている。

*13:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180を基に、国土地理院 地理院地図(電子国土Web)を用い独自に計測・照合。

*14:国土地理院 地理院地図(電子国土Web)を用い、小倉(当初計画)~現在線(近鉄京都線)分岐間を独自に計測したものに、上記の距離を足して算出。

*15:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 334~432ページ目 および 450~508ページ目

*16:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 450ページ目

*17:奈良県庁文書「甲明治三十二年県令第三十八号ニ関する書類」(明治39~41(1906~08)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 416・417・496ページ目

*18:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180

*19:Wikipedia「経緯(路線敷設免許取得まで)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.5~6」および「『起業目論見書記載事項変更の件』 1924年10月25日 (国立公文書館蔵)」が挙げられている。

*20:「レイル・ストーリー12 - 奈良電の足跡(前編)」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden1.html(2018年5月8日閲覧)

*21:Wikipedia「経緯(会社設立)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.6~7」が挙げられている。

*22:Wikipedia「経緯(本線の建設)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.9」が挙げられている。

*23:Wikipedia「経緯(本線の建設)」『奈良電気鉄道』(2018年5月7日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.10」が挙げられている。

*24:Wikipedia「経緯(伏見支線の建設)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の工事関連の記述の出典として「『奈良電鉄社史』P.14~17」が挙げられている。

*25:Wikipedia「経緯(開業から終戦まで)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.31」が挙げられている。

*26:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.134・135・139

*27:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180

*28:Wikipedia「歴史」『宇治駅(京阪)』(2018年5月3日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『くらしの中の京阪』1995年7月号」が挙げられている。

*29:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180

*30:Wikipedia「経緯(路線敷設免許取得まで)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.4~5」および「『田辺町、八幡町間鉄道免許失効の件』 1925年8月26日 (国立公文書館蔵)」が挙げられている。

*31:奈良県庁文書「大正三年 土木 奈良軽便鉄道鉄道敷設申請書」(大正2~3(1913~14)年、奈良県立図書情報館蔵)

*32:Wikipedia「太田 光凞」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%85%89%E5%87%9E(2018年5月8日閲覧)

*33:Wikipedia「経緯(会社設立)」『奈良電気鉄道』(2018年5月8日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電鉄社史』P.8」が挙げられている。

*34:髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔 II』(2002年、JTB出版事業局)P.130

*35:Wikipedia「経緯(京都延長線の建設での問題と完成)」『奈良電気鉄道』(2018年5月9日閲覧)。なお、Wikipedia側の出典として「『奈良電気鉄道(株)申請の京都駅表口、東寺間(未成線)地方鉄道運輸営業廃止について』 1963年10月15日 (国立公文書館蔵)」が挙げられている。

*36:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180

*37:奈良電気鉄道株式会社「奈良電車沿線案内」(昭和3(1928)年、奈良県立図書情報館蔵) まほろばデジタルライブラリー 1ページ目

*38:「レイル・ストーリー12 - 奈良電の足跡(前編)」http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail12/naraden1.html(2018年5月9日閲覧)

*39:髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔 II』(2002年、JTB出版事業局)P.130

*40:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.134~140

*41:髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔 II』(2002年、JTB出版事業局)P.98