幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【資料編】京都新聞『夢幻軌道を歩く』とその補足

未成線廃線を特集する連載記事の内容補完および批評 ~

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(※アイキャッチ画像について:*1

 

京都新聞の連載記事に『夢幻軌道を歩く』というものがある。

京都・滋賀エリアおよびその周辺の未成線廃線跡を特集したもので、各路線の現在の状況や歴史的経緯、路線ルートやその辿り方などが分かりやすくまとめられており、京滋エリアなどの鉄道ファンの間でも評判の模様である。

とりわけ未成線に関しては特に力を入れているようで、一般には殆ど知られておらず、行政文書などの資料からしか分からないような昔の鉄道計画を幾つも取り上げていることは特筆すべきポイントで、同じく未成線分野に力を入れている本ブログとはいわば「競合コンテンツ」の関係にあるとも言える。

連載間隔は 毎月第2金曜日 。連載開始から現在までに連載間隔が不定期に変化しており、ごく最近も休載が見られたり、ウェブ版の掲載が遅れたりといったことがあったが、2018年11月現在、この間隔で掲載が続いている。

 

そんな『夢幻軌道を歩く』ではあるが、よくよく読んでみると、時々「ツッコミ所」があったり、ウェブ上や書籍等には既に情報が出回っていながら記事中では触れられていない事物が幾つかあったりする。また、記事の内容構成や登場路線のパターンを観察・分析してみると、未成線廃線ファンとしてはなかなか興味深い傾向が見えてくる。

本ブログにおいては、そのような記事中に書かれていない情報やウェブ・書籍などにおける関連情報を紹介し、記事に対する「ツッコミ」や内容構成の分析・記事の批評などを行うことにより、ウェブ上においてほぼ「初出」の情報も交えながら、『夢幻軌道を歩く』の幾つかの記事に対し補足を行っていくものとする。

 

(※本記事内の見出しでの路線名は一部、京都新聞の記事名とは少々違うものに適宜補正してある。)

(※本ブログおよびその執筆者は 京都新聞社とは一切無関係 なので、ご注意願いたい。)

(※本記事は非常に分量が多いため、下の目次より項目をかいつまんでお読みになることをオススメする。)

 

[目次]

 

 

未成線編 ★

連載の中心的内容の一つとなる未成線回から選んだ記事は、全部で7つ。ウェブ情報・資料・現地状況などを交えながら、一つ一つ詳しく解説していこう。

 

 

新京阪鉄道 山科線 -

(4)新京阪鉄道山科線

戦前、向日市から京都市伏見区や南区、山科区を結ぶ鉄道の計画があった。しかし、時代は戦争へと向かい、「幻」と消えた。21世紀を迎え、その沿線は発展が目覚ましい。もう一度、“光”をあてようと路線予定地を歩いてみた。

(↑記事冒頭文より引用)

現在の 阪急西向日駅から東進して山科区付近へ と向かう計画で、昭和3~12(1928~37)年の間に存在していた。山科からは京阪六地蔵線(未成:後述)を経由して 名古屋急行電気鉄道 (未成:京阪系)[*2]へと連絡する計画だったが、世界恐慌第二次世界大戦などの煽りを受け、実現することなく幻となっている。

予定地となっていた京都南部付近は、現在も東西の交通軸に乏しく田園地帯が見られる場所すらあるため、新聞記事にもあった通り、実現していれば現状とはまた違った発展の仕方をしていただろうことは容易に想像出来る。

 

さて、この新京阪山科線は西向日駅から分岐予定だったとあるが、現在の西向日駅周辺を見てみても、一見すると山科線分岐の準備やその痕跡が存在しているようには見えない。

しかし、全く準備が為されていなかったかといえばそうではないようで、昔の都市計画の地図を見てみると以下のようになっている。

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上は立命館大学アートリサーチセンター(ARC)の「近代京都オーバーレイマップ」で公開されている、昭和10(1935)年の「京都市都市計画基本図」(京都市都市計画局所蔵、京都市指令都企計第90号)より引用したもの。

丁度中央部分に現在で言う西向日駅が描かれており、実際の駅構造は2面2線となっているが、その周囲を見ると 駅用地が広めに確保されており、2面4線の待避線を持つ駅に拡張出来るようになっている のが見て取れる。

直接的な分岐用地は無いとはいえ、将来分岐駅となった際、より大きな規模の駅と出来るよう準備はされていた模様である。[*3

 

ちなみに、その現在の様子を航空写真で見ると以下のような感じ。

北側は並木が植えられている程度で少し面影が残っているが、南側は主に駐輪場や住宅用地などになっている。

駅拡張用地の多くの部分が他の用途に転用されており、地上から見ても何も痕跡が無いように見えるのも納得がいく。

 

 

- 京阪六地蔵線 -

(5)京阪六地蔵線

好景気に沸いた1920年代、京都市東部の山科盆地を走り抜ける京阪六地蔵線の建設計画があった。鉄道は大津を経て、さらに名古屋に達するという壮大な夢の始まりだった。しかし、ニューヨークに端を発した世界恐慌が日本経済にも及ぶ。資金が集まらず白紙に至った。そんな路線の予定地を歩き、当時の人びとの息づかいを感じた。

(↑記事冒頭文より引用)

 六地蔵駅から現在の京都市営地下鉄東西線の東側を通って、追分駅付近を経由し膳所駅近くまで 至る路線で、昭和2~12(1927~37)年の計画である。なお、六地蔵駅六地蔵線開通の際には、現在地より中書島寄り(西寄り)に移転する計画だったという。山科付近で前述の新京阪山科線(未成)と合流し、膳所付近からは名古屋急行電鉄(未成)に接続して 名阪ルートの一端 を担う予定だったが、やはり世界恐慌の影響を受けて計画は消滅している。

『夢幻軌道を歩く』の記事内には、立体交差箇所のうちの一つを描いた当時の図面が掲載されている。

山科駅から六地蔵駅にかけての山科盆地を通る鉄道の開通は、平成9(1997)年の地下鉄東西線と比較的近年であり、それまでの鉄道空白期間は相当長いものであった。仮に京阪六地蔵線が開通していたとすれば、戦前期から京阪が山科盆地の重要な鉄道ネットワークを担っていたことになり、同地における京阪の影響力も今よりも強いものになっていたかもしれない。

 

新聞側では、かつての路線用地の一部が道路(新奈良街道)に転用されていることや、京阪バスの山科営業所がかつての六地蔵山科駅予定地(場所および航空写真はこちら)だったことなど、六地蔵線計画の幾つかの痕跡について述べられているが、それ以外にも未成線の名残りは残されているようだ。

現在のJR六地蔵駅の所にその遺構が残されているらしいのだが、まず下のサイト2つではその存在についてまとめられている。

togetter.com

togetter.com

最初のまとめでは、Twitterのとある方がJR奈良線に「京阪電鉄橋梁」という謎の橋梁があることを発見してから、その橋梁が京阪六地蔵線(このページ内では「醍醐線」と非正式名称で呼ばれている)の未成線遺構である可能性を見つけるまでの経緯が、一連のツイートが引用される形でページ内にまとめられている。

また次のまとめでは、「醍醐線」の呼称が「六地蔵線」という正式名に改められると共に、Twitterの同じ方がその歴史的経緯や関連資料の存在などに触れつつ、件の「京阪電鉄橋梁」が六地蔵線計画関連のものであることを再確認している。

 

つまり、上のまとめサイトに掲載されている情報をまとめると、 JR奈良線六地蔵駅の場所には、京阪六地蔵線がアンダーパスする予定だった「京阪電鉄橋梁」という橋梁が存在 している、ということになる。

 

この橋梁が現在どのような姿になっているか、「京阪電鉄橋梁」を発見された方が現地の写真をTwitterに上げておられるので、そのツイートを引用させていただこう。

ツイートにもある通り、現状は橋梁というよりコンクリートのガードという感じで、高さは低く幅は狭く、下には小河川が流れており、知らなければ鉄道がアンダーパスする予定だった橋梁とはとても思えなくなっている。

 

では、この橋梁はかつてはどのような姿をしていたのか。昭和36~44(1961~69)年頃の航空写真を見てみると以下のようになっている。

奈良線の築堤を斜めに横切る京阪電鉄橋梁の切れ込みが(画面中央に)はっきり写っており、幅も京阪宇治線(画面外下方)の線路と比べてみると、複線分の線路が十分通せそうである。橋梁も(画質は不鮮明だが)ガーターによるものと思われ、現在は橋の下を流れている小河川もこの当時には存在していないのも見て取れる。

切れ込みの方向や複線分の構造などからも、この橋梁が当初は京阪六地蔵線を下に通す前提で造られていたと見られるのがよく分かる。

 

さて、ここから話は変わるが、京阪六地蔵線計画が潰えたのは昭和12(1937)年ということになっているが、ここでこの計画が完全に終わりを迎えたかといえばどうやらそうではないらしく、以下のサイトではそれに関連した戦後の新聞記事を取り上げている(なお、PCからアクセスすると少々読み込みに時間がかかり、調子が悪いようである)

青いバス停『京阪六地蔵線計画』

それによると、戦前に計画が廃止されたはずの 六地蔵線の敷設運動が昭和30(1955)年頃に行われていた というのである。

先にも触れた通り、平成9(1997)年に地下鉄東西線が開業するまでは、山科駅から六地蔵駅にかけての一帯は長らく鉄道空白地帯で、六地蔵線はじめ鉄道計画が浮上しては消えていった地区だけに、住民のじれったい思いは切実なものだったのだろう。

なお、この時取り上げられたルートは夢幻軌道記事の紹介とは違い、 路線の北端は四宮駅と設定 されている。

これに対する当時の京阪電鉄の見解は、新聞記事によると、計画の実現には問題が山積しており具体的な計画の発表は差し控えたい、としている。やはり一度計画が頓挫したものを再起させるのは、時代が流れていることや費用・用地・駅設置などの問題から、そう容易ではなかったようである。

 

京阪六地蔵線計画に関してはこの他にも、京都府立総合資料館(現:京都学・歴彩館)の専門家の方が、同館の紀要『京阪六地蔵線、新京阪山科線と名古屋急行電鉄 ―行政文書から探る昭和初期の鉄道計画― 』という論文を寄稿しており、前述の新京阪山科線や名古屋急行線も含めて、当時の計画の有効な資料となりそうである。

またごく近年、六地蔵線関連の新聞記事が夢幻軌道以外にも京都新聞に掲載されたことがあるそうだが、そちらは既にウェブ上からは削除されてしまったらしく、どのような記事なのかは確認出来なかった。

 

六地蔵線開業の際に六地蔵駅が移設予定だったのはこの辺り。中書島方面を望む。現行駅から西行してカーブが終わった直線部分に設けられるはずだった。

 

↑夢幻軌道記事にあった醍醐駅予定地を道路上から見るとこんな感じ。山科方面を望む。幅の広い道路が一直線状に続いており、名阪連絡の鉄道の姿は幾らか想像しやすい。

 

 

- 鞍馬電気鉄道 支線 -

(12)鞍馬電気鉄道支線

約1万2千人の学生が通う京都産業大京都市北区)や京都市北部の人口増加地域を通る鉄道が、かつて計画された。京都を襲った未曽有の水害「鴨川大洪水」で頓挫して幻となった路線予定地は、今やバスがひっきりなしに行き交う街道となっている。

(↑記事冒頭文より引用)

叡山電鉄 二軒茶屋駅から京都産業大学付近や西賀茂近くを通り、現在の地下鉄烏丸線北大路駅付近まで 至る路線で、大正11(1922)年 ~ 昭和29(1954)年の間に計画されていた[*4]。鞍馬電鉄本線(現:叡電鞍馬線)開業時から日本に影を落としていた世界恐慌や、昭和10(1935)年に京都を襲った京都大水害(鴨川大洪水)、その後の戦時色の強化などが、路線計画を実現出来なかった要因だという。

『夢幻軌道を歩く』の記事内では、もう一つ 同時期にあった上賀茂付近から東方の上高野付近まで至る路線計画 の存在にも触れていたが、本項目ではその路線についても幾らか詳しく紹介する。

京都産業大学近くを路線予定地が経由していたのであれば、普通なら「大学の学生輸送に本領を発揮していただろう…」と考えたくなるが、記事では大学関係者に話を聞いた上で「戦後に開校したこの大学は敢えて閑静な上賀茂の地を校地に選んだので、もし鉄道が通っていたら大学はこの地には無かったかもしれない」と違った視点でたられば論を展開している点は、興味深いポイントとして評価出来る。

 

これらの計画線については新聞記事の冒頭に掲載された絵地図だけでなく、鞍馬電鉄が戦前期(昭和4(1929)年以降)に発行した『鞍馬山の遊覧』というパンフレットにもしっかりと掲載されている。

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その路線図(抜粋)によると、二軒茶屋から北大路付近までの計画線は(夢幻軌道記事にもあった通り) 途中に「柊野」「西賀茂」「大宮」の駅 を設け、 終着駅は「小山」という名で設定されていた。

また、上賀茂付近から上高野方面へ向かうもう一つの計画線は「大宮」から分岐 し、 途中「上賀茂」「深泥池」「松ヶ崎」の各駅 を経由し、 山端駅(現在の宝ヶ池駅)に至る 路線計画であったことが分かる。

 

さて、ここからが問題なのだが、 新聞の一番下に掲載された路線のルート図 を見た時、私は強い違和感を覚えた。

「この図、 事実と違うのではないか …」と。

というのも、記事側のルート図の描き方が明らかにその記事中の絵地図(原典)に準拠した描き方となっており、なおかつ自身がかつて同じ路線を調べた時に、ある書籍に全く違ったルート図が掲載されているのを見たことがあるからである。それらについて詳しく解説していこう。

 

まず、夢幻軌道のルート図の原典になったと思われる絵地図についてだが、実は自身も同じ絵地図を持っているため、(新聞記事側に掲載されている物と同じだが)今回の計画線に関わる部分を以下に抜粋することにする。

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この地図は昭和3(1928)年に鞍馬電鉄が発行した『鞍馬電鉄沿線名所交通鳥瞰図』[*5]のもので、戦前の絵地図(鳥瞰図)界で名を轟かせていた吉田初三郎により描かれたものである。画面中央に今回の計画線が朱色の点線で描かれているのが分かる。

この鳥瞰図、どの辺りにどのような名所や路線が存在しているかが分かりやすく・見やすく描かれており、なおかつ色使いも華やかで見た目にも楽しく、見る者を旅の気分へと掻き立ててくれる絵地図となっている。

しかし逆に言えば、見やすさ・分かりやすさ・名所等の強調・見た目の華やかさなど、あくまで目で見て楽しむことに主眼を置いて描かれている「絵地図」のため、国土地理院の地形図のような 地理的な正確さは前提としていない 

これを踏まえた上で、この絵地図と夢幻軌道の文末のルート図を照合してみると、 前者の絵地図での路線の描かれ方を、実際の地図に合わせて後者に投影させただけ とみられることが分かる。

 

つまり、新聞の記事末で描かれたルート図は、地理的正確さを差し置いた絵地図での描かれ方をベースとしているため、 ルートは正確ではなく、駅位置も誤りである と考えられるのである。

 

では、正確にはどのようなルートだったのか?

これに関しては、田中真人(他)『京都滋賀鉄道の歴史』(1998年、京都新聞社)という書籍の中に答えが書かれている。

その248ページに以下の図が掲載されているのだ。少し引用させていただこう。

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ご覧のように二軒茶屋~小山間の計画線は、夢幻軌道のルート図とは随分違った線形をしている。その上、新聞側では詳しく書かれていない大宮~山端(宝ヶ池)間の計画ルートも描かれており、一部途中駅の位置も載っている。

さらに、このルート図は何処ソースなのか本を読み進めてみると、出典として「京都府行政文書『地方鉄道免許命令書調査』」と示されていた。つまり、この鉄道計画の敷設免許にまつわる 行政文書をソースとしている ようである。恐らくこの文書の中に計画線の図面原本も含まれているのであろう、上記ルート図の信憑性はグッと強いものになる。

 

これで夢幻軌道記事のルート図よりも書籍にあった上記ルートの方がより一層正確であろうと言えるようになったが、実際の詳しい地図だとどの辺りを通る予定だったのか、現代の地図に落とし込むと以下のような感じになる。

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書籍の図と実際の地図とのズレを考慮して、計画線は実線ではなく網掛けで示しているが、これでも線路予定位置に厳密な史実とは多少の誤差がある可能性はある。そして、一部途中駅の位置が書籍の図には載っていないため、位置不詳の途中駅に関しては自身も先の絵地図を参照の上、おおよその推定位置を目安程度で表記しておいた。

それでも計画線ルートとしては、大宮~山端(宝ヶ池)間含め、少なくともこちらの方が史実にずっと近いであろう。駅位置に関しても「大宮」は新聞側にあった元町小付近ではなく加茂川中(御薗橋南)付近、「西賀茂」は詳細な位置こそ分からないものの、少なくとも大宮小付近の賀茂川西岸ではなく東岸の方が正しいはずである。

 

それにしても、この計画線に関しては行政資料の原本が存在しているばかりか、同じ京都新聞社から出版された本にも出典付きでルートが載っていたにもかかわらず、なぜ夢幻軌道の記事は双方に行き当たることなく事実と一部ズレた記事内容となってしまったのか、不思議な気すらしてしまう。 

 

ちなみに、自身が随分昔に京都の資料館でこの路線の資料を調べた時、資料館の人が「二軒茶屋から北大路までの路線があったらもっと便利だったでしょうね~」と言っていたのを記憶している。現在大学がある場所を通り、鉄道空白域・西賀茂付近の宅地を通り…となれば、鉄道が実現しなかったのを惜しく思うのは、やはり鉄道ファンだけではないようである。現在の観点から見てもこの路線の発想は、今も色褪せていないのであろう。

 

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二軒茶屋駅の南西部分には、支線を分岐するためと思しきスペースがある。上賀茂・北大路方面への路線敷設に備えて、分岐用地を準備していたのだろうか。(2005年撮影)

 

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宝ヶ池駅には留置線があるが、こちらも松ヶ崎・上賀茂方面への分岐準備として設けられたと思われる。現在は途中で単線になってから本線に合流しているが、かつては複線のまま本線に入っていたようだ[*6]。(2015年撮影)

 

 

新京阪鉄道 洛西線 -

(19)新京阪洛西線

昭和天皇即位の式典を前に京都が祝賀ムードに包まれていた1927年、現在の阪急京都線長岡天神駅長岡京市)から西に延びる路線が計画された。しかし実際には着工もされないまま、歴史のはざまに消えていった。机上のみ存在した路線を求めて長岡天神駅へと向かった。

(↑記事冒頭文より引用)

 長岡天神駅から西方に(直線距離で)1.5km先の「海印寺(奥海印寺通りと光風美竹通りの交差点付近) まで 至る路線で、昭和2~4(1927~29)年の計画[*7]。路線は北方に大きく弓なりのカーブを描いており、長岡天神海印寺間を遠回りするような線形だった。阪急京都線の前身である新京阪鉄道が嵐山への進出を目論んでいた際に、嵐山~海印寺間を京都電燈の路線計画(後述)が先行しており、これとの接続と長岡天神付近~嵐山付近の敷設権取得を目指すために計画され、ほぼ同時期に京都電燈の路線敷設免許も譲り受けている。しかし、免許譲受を達したのと長岡天神~嵐山間が現在の阪急京都線嵐山線ルートで開業したことにより用済みとなったのか、僅か2年ほどで計画は廃止。着工どころか用地買収すらされなかったようで、殆どペーパープランに近い代物だった。

新聞記事では京都の資料館に勤める専門家同行の下に路線予定地を辿っており、マンションが計画線ルートと同じ向きに建てられている場所では、その土盛部分や電柱を築堤や架線柱に見立てて「今にも電車が走ってきそう」と想像を膨らませているのがユニークだ。だが、記事全体は「路線が実現していれば良かったのに」という論調になっているが、これだけ距離が短く他社の敷設免許が主な目当てだったこの盲腸線計画を、果たして実現したところでその存在意義や必要性を発揮できたのだろうか、という疑問は抱いてしまう。阪急甲陽線のように沿線開発をして通勤路線としてしっかり育てるなどしたならまだしもだが、このような泡沫路線計画に対して、副見出しに「実現性乏しく」と入れている反面「実現して欲しかった」と反実仮想の考えを当てはめるのには共感しかねる部分もある。

 

本項では洛西線計画の本体に対する補足というよりも、それに関連する2つの路線計画を、洛西線計画と絡めながら紹介するのが中心となる。

 

1つは「柳谷登山鉄道」

洛西線の海印寺駅予定地から直線距離で南西に約2.4km(長岡天神駅からだと約3.8km)の場所に位置する 楊谷寺(通称:柳谷観音)付近のケーブルカー計画 で、大正11(1922)~昭和10(1935)年に存在。 路線長は0.7km を予定していたという[*8]。当時の起業目論見書によると敷設目的は、柳谷観音は参詣客が多いながらそこに至るには険しい道を通らなければいけないため、鋼索鉄道を敷設しアクセスの便を図る、ということだそうだ[*9]。免許取得・失効年だけ見れば、新京阪洛西線よりも先に登場し、後に消滅したことになる。

 

この計画に関しては以下のように、既にWikipediaの記事も作成されている。

『柳谷登山鉄道』 - Wikipedia

他の鉄道記事と同様に、路線データや接続路線、歴史がもう少し詳しく書かれており、路線計画の大まかな中身を知る一助となる。また出典を見る限りは、専門家の同テーマの論文や各種人事録、官報などをソースとしており、かなりしっかりしているようにも見える。やはりこういう鉄道系の記事には、しっかり調べて書こうとする熱心な人達もしばしば集まるようだ。

 

しかしWikipediaのことだけあり、ここはおかしいのでは…と思われる記述も見受けられる。

ページ中に「この路線とは別に、向日町 - 楊谷寺間に同じような路線が計画され」とあるが(2018年12月現在、以下同)、これは誤りと考えられる。何故なら、長岡京・向日町付近から柳谷観音(又はその手前)まで至る路線計画は、新京阪洛西線以外には聞かれないからである。あるいは、後述する「洛西電鉄」という別計画を指している可能性もあるが、こちらは海印寺付近(新京阪計画線の終点)から嵐山方面に北上するものであり、「同じような路線」と言うにはだいぶズレている。

またその後に「長法寺校(※執筆者注:現在の長法寺小学校)前には測量杭がずっと打ってあったという」と続いているが、これに関しては文献で読んだ記憶がある。随分昔に柳谷登山鉄道について調べた時の資料情報のプリントアウト・資料内容のメモ書きが手元に残っているのだが、そのプリントアウトに書かれているのは「長岡京市史編さん委員会 (編)『長岡京市史 本文編 2』(1997年、長岡京市役所)」とあり、そのページ数「P.510、511、512」もメモ書きとして添えられている[*10]。また、裏側には「 向日町~今里~長法寺~楊谷寺 図面あった。 長法寺校前に測量杭 」などという内容のメモも書かれている。これらを合わせて考えると、長岡京市史 本文編 2』の510~512ページに柳谷登山鉄道(や新京阪洛西線)に関する項目があり、その中に「長法寺校前に測量杭(が打たれていた)」との記述があったということに なる。

これらを総合すると、Wikipediaの上記記述に関しては「長法寺小学校の前にはかつて、新京阪洛西計画線の測量杭がずっと打たれていた(出典:『長岡京市史 本文編 2』)」と正すことが出来ると自身は考える。上記で紹介したメモ書きのうち「今里」「長法寺」「楊谷寺」の地名[*11]が新京阪計画線の経由地・関連地名とほぼ一致するため、それを考慮すれば「長法寺校前の測量杭」は新京阪洛西線の物と考えることも出来るであろう。正確なところは実際に当該文献を改めて読み直すなどするべきなのだが、少なくとも現在のWikipediaの記述よりは史実に近づくことが出来たのではないだろうか。そうだとすれば、新京阪は洛西線計画に関して用地買収も地元の人との接点も無かった中で、測量杭だけは打っていたということになる。

 

柳谷登山鉄道(および洛西線計画)に関するウェブページは他にも幾つかあり、「伏見経済新聞」というメディアのFacebookページには以下の投稿が掲載されている。

m.facebook.com

京都新聞の記事にも登場されていた、京都の昔の鉄道計画を研究されている専門家の方の講演について報告したもので、講演内容は新京阪洛西線や柳谷登山鉄道に関する内容だったことが、短い文章と共に4枚の写真付きで紹介されている。

文章による説明は極めて手短で簡潔ではあるものの、添付された4枚の写真は講演中の様子だけではなく、周辺地域の複数の計画線を示した図や、後述の洛西電鉄の用地買収にまつわる文書の写し文などが載せられている。特に 2枚目の写真 の「洛西線(一部)及び柳谷登山鉄道」と題されたスライドには、京都新聞の記事末でも言及されていた 新京阪のバス専用道計画のルート も載っており興味深い(「新京阪計画道路」との説明が添えられた線)。

 

なお、先ほどのWikipediaの記事中には、 楊谷寺には現在でも「柳谷参道電灯線路工事有志連名」の奉納額が残っている 、という趣旨の記述があるが、これについては既にウェブ上に写真が何枚か流通している。 上のFacebookページにもその写真(3枚目)が掲載 されているが、 下のウェブサイトでは真ん中の上から5枚目 (PC表示基準)にその写真が載せられている。

chidori-jyuku.jimdo.com

「柳谷登山鉄道があったかも。」というキャプションが添えられており、ズームして細部を見られる上に奉納額の周囲も少々写っており、現在も残る計画当時の貴重な遺物の様子が分かりやすい。ある種の柳谷登山鉄道の数少ない「痕跡」であり、機会があれば実際に柳谷観音まで見に行ってみたいものである。

 

ここまで柳谷登山鉄道の計画について詳しく説明してきたが、では路線はどのような位置に計画されていたか?(新京阪洛西線との位置関係はどうか?)という肝心な話も必要になってくる。

それに関しては、国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている鉄道省文書の図面でも見ることが出来る。

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↑(鉄道省文書『柳谷登山鉄道・大正十二年』(1923年、国立公文書館蔵、https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F0000000000000057465)P.161 より引用・抜粋・加筆)

上は計画線の位置およびその周辺の路線を示した概略的な図(そしてその拡大)なのだが、拡大図の方の赤い線が新京阪洛西線で、 緑系の複数の線が柳谷登山鉄道 。図面によると、当初は黄緑色の複数の線のように何度か計画位置が変更されてきたのち、 最終的に緑の線の場所へと落ち着いた ようだ。これらはいずれも楊谷寺の周辺でルート設定がなされており、洛西計画線からは幾らか離れた位置であったことが分かる。ちなみに緑線ルートの駅名は、東 (右) 側が「金ケ原」、西 (左) 側が「ミロク谷」と設定されていた。

 

そしてもう一つ肝心な物、ウェブ上から閲覧でき本項目でも何度か援用してきた国立公文書館デジタルアーカイブ上の文書についても、一次資料としてリンクを貼っておこう。

鉄道省文書『柳谷登山鉄道・大正十二年』

この中には先の図面のオリジナルだけでなく、起業目論見書や路線の詳細なスペック、当時の国とのやり取りの過程など、計画の歴史やそれを取り巻く状況などが更に詳しく読み取れて、この計画についてより知識を深めたい場合には面白いだろう。

 

話は変わり、新京阪に関わるもう1つの計画線が「洛西電鉄」

先の文章でも何度か触れてきたもので、フルネームで言うと「洛西電気鉄道」である[*12]。『レイル No.17』(昭和61(1986)年、エリエイ出版部)の40ページによると、区間は松尾付近~柳谷観音付近、阪神方面からの観光客などを呼び込むために 京都電燈が企図 したもので、実際に 敷設免許を取得 し工事の一部にも着手したという。しかし新京阪も同様の路線進出を目論んできたため、後に新京阪に敷設権を譲り渡すこととなり、現在の阪急京都・嵐山線ルートで取って代えられることとなった。

京都新聞の記事でも、京都電燈が 嵐山~海印寺区間 で計画していたことや、実際に 用地買収が進められて 所有地を分筆した農家もいたこと、そして新京阪がその路線免許を譲り受けたことなどが書かれている。

 

これ以上の詳しい路線データは確認出来ていないが、先にも紹介した柳谷登山鉄道の文書内にある図面には、洛西電鉄のおおよそのルートもしっかり書かれている。

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↑(鉄道省文書『柳谷登山鉄道・大正十二年』(1923年、国立公文書館蔵、https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F0000000000000057465)P.161 より引用・抜粋・加筆)

 青い線が洛西電鉄 で、北の起点は現在の阪急松尾大社駅の場所、南の終点は新京阪洛西計画線の海印寺駅予定地と同じ場所、その両者を南北に結ぶような計画だったことが分かる。

なお、この頃には既に計画変更でルート廃止がなされていたのか、線は複数の×印で消されており、また新京阪に計画が譲渡されていた関係か、路線の説明は「京阪洛西線」となっている。

 

「新京阪洛西線」「洛西電鉄」「京阪洛西線」……似たような呼称が幾つも出て来て非常にややこしいが、上の3つの内なら、どの呼称とどの呼称が同じ物を指して、どれが全く違う物か…を見分けられるようになったら、きっと一人前であろう。そして、用地買収が行われたという史実と共に上のような具体的ルートを示す図が存在しているとなれば、旧洛西電鉄用地は何処だったかなど、当時の計画の痕跡を探すことも出来るかもしれない。実際に探すとなればかなり本格的な研究調査が必要になるだろうが、今でも痕跡が残っているかも…と思いを馳せながらかつての計画の残り香を炙り出すのは、非常に探し甲斐がありそうである。

 

以上のように3つの計画線について紹介してきたが、実は新京阪洛西線のルートに関しては、京都新聞で記事化されるよりも前に、自身は柳谷登山鉄道の鉄道省文書で見つけてあった。いずれ本ブログで記事化しようかとも考えていたが、結局新聞側が記事を出して先行する格好となった。それでも、この路線が机上計画であり着工されていなかったという事実を出してきたことは、「痕跡はあるだろうか?」という問いに対する答えを既に示した形となったため、その点は実のあることを記事から知ることが出来たと思っている。

 

 

- 高雄電気鉄道(高雄鉄道)-

(22)高雄電気鉄道

京都市中京区から右京区妙心寺仁和寺など有名寺院の脇を抜け、紅葉の名所、高雄地区を結ぶ鉄道路線が昭和初期に計画された。紅葉狩りの行楽客だけでなく、同地区一帯で産出される材木も運搬する計画だったが、世界恐慌の波に飲まれ開通には至らなかった。紅葉を踏み分け、夢と散った路線を訪ねた。

(↑記事冒頭文より引用)

現在の 円町駅付近から北西に進んで高雄・神護寺より東に離れた辺りまで の路線で、昭和3~10(1928~35)年の間の計画である。円町~高雄間の本線だけでなく、 本線の途中 (平岡付近) ~ 嵐山の支線も 計画されていた。鉄道新線が相次いで開業し、建築ラッシュが起きていた昭和初期の京都の都市改造の流れに乗じながら、高雄などの地元住民の手によって立ち上げられた。上記の通り観光客や貨物を運ぶ計画で、一部区間の工事も着手されたが、恐慌の影響による資金不足で高雄付近のトンネル掘削途中で工事は中断、そのまま計画倒れとなった。なお、途中で動力(予定)を電気から内燃に変更したため、社名も計画中に「高雄電気鉄道」から「高雄鉄道」に変わっているが、行政上の記録においては後者の「高雄鉄道」の名で呼ばれることも多いようだ[*13]。

記事では一部で予定ルートの詳細な位置を辿ったりしているのも、とりわけ地元の人にとっては「こんな所にも高雄への鉄道が走るはずだったのか…」と目からウロコだと思われるが、何よりも着工された未成線の工事の痕跡が見られること自体ただでさえ事例は限られているのに、それが京都市内の高雄付近で「トンネル工事跡」として見られる、と紹介されている点は実に興味をそそられる。また、他の夢幻軌道の未成線回の多くでは「鉄道が実現していれば・・・だっただろうに」と、実現しなかったことを惜しむような論調が多い中で、この高雄電気鉄道の記事だけは「高雄は『聖なる』場所だけに、鉄道は実現しなかったのが丁度良かったのかも」と、幻に終わったことを安易に惜しまぬかのような冷静な論調で展開している所が何だかニクい。

 

この高雄電気鉄道(高雄鉄道)については京都新聞で記事化される以前から、既にウェブ上に詳しい情報が出ている。計画について一番詳しくまとめているのが以下のサイトである。

blog.livedoor.jp

その内容は『夢幻軌道を歩く』よりもかなり深く掘り下げられており、路線計画の詳細について深部まで理解することが出来る。見所を箇条書きでまとめると、

  • 全線を描いた詳細図面国立公文書館の文書には織り込まれていない)
  • 路線が企図された当時の背景
  • 詳しい歴史・路線データ(鉄道以外の事業計画の存在も)
  • 嵐山支線入りのルート図面・支線の詳細
  • 創立の動き・計画が頓挫するまでの詳細(発起人の人物背景・計画頓挫後の出来事も)
  • 着工したトンネルのかつての様子(地元の人の話)
  • 暗渠やトンネル跡など着工部分の遺構の現状(写真付き)

この中では、 花園駅省線(現:JR嵯峨野線)と連絡 する予定だった(貨物輸送のためか)ことや、後に路線が(トンネル部分を含む終点付近を除き) 複線で計画 されていたことなども書かれている。そして何よりも見応えがあるのが、(夢幻軌道では紹介されていない方の)トンネル工事跡の現状。わざわざ私有地の所有者に許可を取って、崩壊した坑口跡からの湧水により旧入口に池が出来ている状況を伝えている点は、現地状況にも感嘆させられるし、そのように遺構を見つけ出して来たことにも感服させられる。

計画線の軌間変更の説明部分で幾らか表記揺れが見られたりなどはするものの(正しくは当初1435mm→変更後1067mm)、本来なら行政文書などの原資料を読まないとここまで詳しく知ることが出来ない情報を、各方面へのリサーチで詳しくまとめ、わざわざ原資料を読まなくても当時の路線計画の詳細を知ることが出来るようにした、というのは実に称賛モノである。

このサイトそのものに限らず、どうやらサイトを執筆された方自身も、資料館の行政文書を調べるだけでなく、資料館には置いていない(?)ような資料を個人で収集されたり、地元の人への聞き込みを何度も行っておられたりと、普通の人なら炙り出せないような計画線の詳細像を次々に把握され明らかにしていらっしゃるようで、我々素人には到底及ばなさそうな研究活動ぶりには脱帽と言わずにはいられない。

そのような高雄電気鉄道の「エキスパート」と言える方が執筆された上記サイトは、必読に値すると言って良いだろう。

 

ただ、そんな上記サイトにも一つ、補足できる点がある。

サイトの最後の方で「開業していたらどんな社章(中略)であったのか」という一節があるのだが、実は 高雄電気鉄道(高雄鉄道)の社章は鉄道省文書の中に見ることが出来る のである。しかもその文書は、国立公文書館デジタルアーカイブの中で公開されており、公文書館に赴かなくとも誰でも気軽に見られるようになっている。

その社章が見られるのは、『西ノ京高雄間工事施行ノ件(再提出)』(S5年) P.41などの「高雄電気鉄道」時代の文書と、『西ノ京高雄間工程表提出ノ件』(S8年) P.3[*14]などの「高雄鉄道」時代の文書。当初の社紋と社名変更後の社紋の2種類が見られるのである。早速以下で見てみよう。

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こちらが前記の文書などから引用した、その2種類の社章。 左が「高雄電気鉄道」を名乗っていた頃 のもので、 右が「高雄鉄道」に変更後 のものである。

初代の方は、外郭部がもみじの葉をかたどっており、一番中央に「雄」の字を配置し、それを「高」の字で内包する…という少し凝ったデザインとなっている。

一方2代目の方は、中央に逆三角形を配置し、それを3点の「T」の字をかたどったもので取り囲む円形をしており、初代よりもシンプルな印象である。ただ、中央に逆三角形+上に1点+下に2点、という象形は「京」の字をかたどったものとも思われ、これは京都市交通局の局章(以下参照)などにも見られる特徴である。

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【参考】京都市交通局の局章

このように未成に終わった鉄道会社の社紋が見られるというのは、比較的珍しい事例と思われる。実際に列車に付けて走ることの無かったこの2つの社章たちが、例えば木造の電車や気動車の車体側面に描かれて高雄の山あいを走っていたとしたら、どれだけ趣のある光景だっただろうか。とりわけ紅葉をかたどった初代の社章を付けた電車は、風流なものだったかもしれない。

 

その他にも、Twitterで「高雄電気鉄道」と検索してみても、着工箇所や遺構などに関連する情報が結構見受けられる。とりわけ先のサイトを執筆された方は、やはりTwitterでも高雄電気鉄道(高雄鉄道)に関する情報を時折呟いていらっしゃるようで、最近のものだと途中駅として計画されていた「福王子駅」の詳細図面や、その「福王子駅」予定地の現地の現状を画像付きで載せておられて大変興味を引かれる。現在でも高雄電気鉄道の研究・活動に精力的に取り組んでおられるようなので、今後も続報に期待したい。

(ちなみに「福王子駅」の図面と現在の地図を照合していると、図面左側の延長線上に相当する場所に、線路予定地と一致すると思しき細長い土地(「清水接骨院」とそこから南南東に延びる茂み)があるのを見つけた。場所は嵐電宇多野駅近く、かつて高雄電気鉄道(高雄鉄道)の線路用地だったのだろうか?)

 

また、国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている鉄道省文書第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・高雄鉄道(元高雄電気鉄道)・免許取消・昭和五年~昭和十年(1930~35年)の各文書内からも、新聞記事内や先述のサイト内のどちらにも書かれていないような、計画の更なる詳細を知ることが出来る。本来あったはずの図面が相当な割合で抜けている部分も多いが、路線のスペックなどをかなり細かい部分まで知ることが出来る資料も沢山封入されており、古資料の読解が苦手でなければ、高雄電気鉄道(高雄鉄道)の計画について一層理解が深められて面白いだろう。

 

↑嵐山方面への支線は途中、広沢池のすぐ西側を通ることになっていた。本線だけでなく支線も開通していれば、この道のすぐ横を線路が通り、池の畔を列車がコトコトと走り行く趣のある光景が見られたことだろう。

 

 

- 日露支通運電鉄 -

(27)日露支通運電鉄

約90年前、大阪市から亀岡市南丹市を通り若狭湾までを縦断する鉄道が構想された。その鉄道は関西からの旅客や荷物を中国、ロシアへと運ぶと期待された。しかし、山がちな地形での難工事が見込まれ計画は実現しなかった。大阪から丹波高地までの路線予定地をたどった。

(↑記事冒頭文より引用)

 大阪駅(梅田)から北上して南丹市付近を経由し、丹波山地を越えて福井県の小浜湾まで 至るもので、大正15(1926)年 ~ 昭和8(1933)年の計画である。小浜湾から大陸方面への航路とセットで関西圏からの旅客・貨物をロシア(ソ連)・朝鮮半島・中国方面へと輸送する経路として目論まれたが、山地の多い地形から難工事が予想されることや、京都府大阪市などから否定的意見が相次いだことから、申請は却下され敷設特許は取得出来なかった。なお、軌間は1435mmの広軌で全線複線を予定していたという。

大阪の中心部から福井の若狭湾沿いまでと路線距離がかなり長いためか、今回の記事では路線予定地のトレースは全線の半分強に留まっている。それでも辿った区間はやはり、電車やバスを乗り継ぎ公共交通で丁寧に辿るということをやっており、更には記事末でかつての計画線に沿うバス路線(阪急池田駅並河駅までの数路線)の本数の少なさまでガイドしている。果たして記事を読んで実際に旧計画線を同様のやり方で辿る人がどのくらい居るのかは分からないが、それでもそのようなスタイルは夢幻軌道の記事らしさを感じさせてくれる。

 

この路線計画についてはその行政文書が国立公文書館デジタルアーカイブで公開されているため、計画線に関わる原資料をウェブ上で直接閲覧することが出来る。

鉄道省文書『日露支通運電鉄大阪市、本郷村間敷設願却下ノ件』

文書は昭和8(1933)年付けのもの。今回の記事ではどうやらこのデジタル公開されたものを使ったようで、上のリンクから文書の後半(P.27~)を見てみると、夢幻軌道内に掲載されている原図面とほぼ同じような(モノクロ画像の)図面を見ることが出来る。

また、この文書を少々読んでみると、この路線が長大距離ながら軌道法で申請されていたことや、敷設特許申請が却下されたにもかかわらず計画期間が長かったのは鉄道省側の書類焼失が理由だったらしいこと、そして申請が却下された他の背景として当時の鉄道大臣が江木翼(免特許交付に厳しかった[*15])だったことも考えられるなど、新聞側には書かれていない様々な路線の詳細が読み取れる。

 

他にも、申請が却下された他の背景として、鉄道省文書内には理由として直接書かれてはいないものの、阪急宝塚線山陰本線小鶴線(未成)…等々の、計画線も含めた並行路線の存在も影響したのではないかと推定される。既存路線や既存計画線に並行する路線計画は認可されないのが通例だったので、仮に難工事の見込みという要素が克服可能だったとしても、認可・実現はどのみち難しかったのではないだろうか。

 

 

近江鉄道伊賀上野線」-

(30)近江鉄道伊賀上野線

北陸や滋賀県北部から伊勢神宮三重県伊勢市)への参拝客を運ぼうと、かつて近江鉄道三重県伊賀市まで延伸する計画を立てた。しかし、計画が進まないうちに戦争となり、線路用地を農地として貸し出していたところ、不在地主所有地とされ、払い下げとなった。滋賀県県政史料室に残る文書を基に農地改革に消えた路線をたどった。

(↑記事冒頭文より引用)

 貴生川駅より南下して伊賀鉄道広小路駅まで 至る延伸計画で、昭和2~33(1927~58)年に存在していた[*16]。上記の通り北陸・湖北から伊勢神宮方面への連絡を目論んだもので、記事によると広小路駅より現在の伊賀鉄道へと直通し、青山町駅で現在の近鉄大阪線へと連絡する、という計画だった。一時は用地買収まで着手されたが、恐慌・戦争・戦後の農地改革により計画はストップし、そのまま掻き消されてしまった。

今回の記事は滋賀県の県政資料室の文書等を基に書かれているといい、かなりしっかりしたソースをベースに構成されたものだと思われた。しかし本文を読み進めてみると、文中の記述と記事末のルート図が微妙に噛み合っていなかったり、一般に出回っている情報と相違点があったり、そもそも記事にある路線名は正式名なのか通称なのか不明確な部分があったりと、疑問符が浮かぶ箇所が結構見受けられる。それらに関しては、これから本項の文中で詳しく触れることにする。

 

この計画線に関しては近江鉄道 未成線 」でウェブ検索 してみると結構色々な情報が出てくるが、上記『夢幻軌道を歩く』の記事は文中に「未成線」の単語が入っていないためか、(2018年12月現在)この検索ワードではヒットしない。ただ近江鉄道 伊賀上野線 」で検索 すると、京都新聞の記事だけでなくもう少し多くの情報が引っ掛かる。

その多くのサイトの中ではWikipediaの記事も作られているほどで、ここではこの計画線は「宇治山田延伸構想」の名で紹介されている。

『近江鉄道宇治山田延伸構想』 - Wikipedia

このページの中には京都新聞の記事に書かれているものとはまた違ったことが書かれており、近鉄大阪線・山田線(当時は参宮急行電鉄)に乗り入れて宇治山田駅まで直通する予定だった旨の説明や、米原~宇治山田間の所要時間の想定、近江鉄道近鉄大阪線の接続駅が青山町だけでなく複数検討・計画変更されていた話などがある。Wikipediaのことなので何処まで情報が正確なのかは分からないが、「米原~宇治山田間の所要時間が3時間弱を想定」という内容の記述に関しては、こちらの学術論文の18ページ(PDF)を見るにどうやら正しいようである。

 

ページ末には参考情報として、以下の古新聞へのリンクも掲載されている。神戸大学附属図書館 新聞記事文庫のオンラインデータベースに載っている、昭和初期の新聞記事の文面である。

大阪時事新報『近郊電鉄の新規開業と延長価値』(昭和6(1931)年1月24~28日)

その記事内では複数の電鉄会社に関する話題の中で、近江鉄道の計画線についても言及されている。計画の進捗状況や工事予算、実現した際の交通ネットワークや省線国鉄)における競合特急列車の存在などを、当時の記事の原本から読み取ることが出来る。

 

ここで、これら含め各情報を読み解いていると、幾つか気になる点が浮かび上がる。

まず、 伊賀上野側の終点 京都新聞の記事やWikipedia他では、伊賀鉄道(計画当時は伊賀電気鉄道)の「広小路駅」と説明されているが、ある所では「伊賀上野(駅)」とされていたり[*17]、またある所では「上野町」とされていたり[*18]、と結構バラつきが見られる。それでも後述のように、広小路駅に関しては近江鉄道との接続に向け詳細図面が作成されるなど計画がかなり具体化していたようなので、幾つかの計画(案)の変更を経て 最終的に広小路駅に落ち着いた 、と考えるのが妥当であろう。

次に伊賀上野線」というネーミング 京都新聞でこの路線名を最初に見た時「そんな線名あったっけ?」というのが第一印象である。各所に出回っている情報を見てみても、先述の「宇治山田延伸構想」だったり「伊賀上野延長線」だったりと、延伸計画の呼称はまちまちである。「正式な路線名は特に決められていなかったのでは?」とも考えたのだが、こちらの文書(PDF)では京都新聞と同じ「伊賀上野線」の呼称が用いられており、その文書の参考文献として挙げられている『近江鉄道70年のあゆみ』は京都新聞側でもその名が挙がっていた。すなわち、その近江鉄道 社内誌においては「伊賀上野線」の呼称が使われ、鉄道会社側の公式ソースで用いられていた呼び名として、京都新聞記事ではその路線名を採用した可能性 もある。だが、実際にそうかは当方では確認を取っておらず、特に正式な路線名が存在していなかった可能性もまだまだ否めないので、本項の見出しでは「伊賀上野線」という路線名は括弧書きとしておいたのである。

ちなみに上記PDF文書によると、開業区間である彦根米原間(米原線)は、伊勢連絡を担う貴生川~伊賀上野方面の延伸ありきで計画され造られたそうである。結局伊賀上野への進出は叶わず米原方面だけが造られた格好だが、開業区間にも幻の区間を見越したいきさつがあったとは興味深い。

 

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貴生川駅の終端部から先を望む。右端の線路はかつて草津線に接続していたからか ややJR線路側に寄っており、貴生川駅から実際の一直線上先は写真中央の駐車場となっている。伊賀上野方面への線路はここに敷かれる予定だったのだろうか。

 

他にも注目すべきものはある。

京都新聞記事が参照した資料は滋賀県の県政史料室が所蔵する文書だと記事中に書かれていたが、その資料は聞く限りだとその史料室でしかお目にかかることが出来ないようにも思える。

しかしウェブ上を探してみると、以下のようなサイトが存在するのである。

びわ湖鉄道歴史研究会『近江鉄道 貴生川〜伊賀上野未成線 関連図面』

このページでは何と、県政史料室が所蔵している上野延伸線の図面を、ウェブ上で幾つか公開してくれているのである。わざわざ史料室まで赴かなくても、ウェブ検索するだけで計画線の図面を簡単に閲覧出来るようになっており、これは非常に有難い。

 

ここでこの上記サイトと絡んでくるのが、京都新聞記事における本文の記述と記事末の図との不整合である。

 

まず、記事末の路線図とその横の解説文についてなのだが、 ルート図に書かれている駅名と横の説明文の駅名が合っていない のである。これは単に駅の名前のみならず、図中には書かれていない駅が横の文章では書かれていたり、といったものもある。

これはどういうことか、実際に記事中の図と上記サイトで公開されているこちらの全線図面(1)を比べてみると、図面に書かれている駅名と新聞記事側の図の駅名がほぼ一致することが分かる。また、図の横の説明文では「社内誌『近江鉄道七十年のあゆみ』(中略)には、」とした上で駅名を列挙している。

つまり、記事側の路線図は(1)の図面を参照したと考えられ、説明文は説明文で社内誌を出典としたことから、 両者それぞれ別々のソースを参照し、共にそれらに忠実になぞらえてしまった結果、説明文と図との不整合が起こった ものと考えられる。これは意図的にズレた記述としたのか、それともチグハグ止む無しとしてこうなったのかはよく分からない。

 

次に問題になってくるのが、 新聞記事の最初の方の記述と記事末のルート図との不一致 。記述では「計画では貴生川から甲南駅付近までは草津線と並走する」とあるのだが、記事末の図では草津線とさほど並走せず、甲南駅よりもかなり手前、貴生川駅を出てすぐの所で草津線を跨いで同線から離れていくように描かれているのである。

記事終わりのルート図の出典は(1)の全線図面と考えられることは先にも述べたが、では「貴生川から甲南駅付近までは草津線と並走」という情報は何処から出て来たのか?ということになる。

これに関しては上記サイトにある図面のうち『貴生川付近ルート検討図』というものを見てみると以下のようになっている。

http://biwakorail.web.fc2.com/reference/oumi_rail/igaueno/three_route_plans.jpg

びわ湖鉄道歴史研究会『近江鉄道 貴生川〜伊賀上野未成線 関連図面』 より引用

左端が貴生川駅。図が細かくてここでは少々分かりにくいが、上部に青・赤・黄の3色の線が描かれ、貴生川付近では複数のルート案が検討されていたことが分かる。

そのうち一番下の黄色の線は、貴生川駅を出発後カーブしてすぐに草津線を跨ぎ、同線から離れていってるのが見て取れる。この線は(1)の全線図面や京都新聞のルート図に描かれているものと同じと考えて良い。

では、残りの2本はどうか。見てみると、赤の線は途中まで草津線と並走し、甲南駅(当時は深川 (ふかわ) 駅。図中では「省線深川停車場」とある)に達する手前で同線を跨いで離れている。また、青の線は甲南(深川)駅を越えてもなお同線と並走を続け、同駅からしばらく行った所で同線と離れている。

これらのことから、新聞側の「貴生川から甲南駅付近までは草津線と並走」という記述は、上の図面でいう赤線または青線を根拠 としているようだ。実際上の図面を参照したのか他のソースを基にしたのかは分からないが、この記述と記事末のルート図とのズレは、流石に記事内容の構成ミスではないだろうか。

 

余談だが、上の図面の赤線上にある赤丸(駅予定地。深川(甲南)駅直下)の下には「深川市場」の地名表記が見られる。京都新聞の記事末の説明文で、中間駅として社内誌にあったと解説されている「深川市場駅」とは、この赤丸の場所のことではないかと思う。

 

まだまだ当時の資料を取り上げたサイトはある。

上野延伸線の終点とされていた広小路駅に関して、近江鉄道の当時の計画像について述べた以下のサイトがある。

『189.伊賀鉄道広小路駅の近江鉄道未成線ホーム用地』鉄道雑画帳

ここでは広小路駅のどの辺りに近江鉄道が乗り入れる予定だったか、現在の現地の写真と共に紹介されているだけでなく、広小路駅近江鉄道が乗り入れた場合の当時の詳細図面も紹介しており、広小路駅への乗り入れ計画がかなり具体化していたことが伺い知れて大変興味深い。

上のサイトでは「未成線ホーム用地が今でも残る」と紹介しているが、実際に用地買収が行われたのかどうかは分からない。それでも詳細図面が残っている以上、実際の駅のどの辺りに近江鉄道の線路が来る予定だったのかがかなり明確に分かるため、当時の計画を解説するものとしては特筆に値すると言えよう。

 

ここでも気になることがある。

上のサイトで掲載されている広小路駅の図面と、先に出て来た(1)の全線図面の終点付近を見比べてみると、明らかに 線路の向きと終点の位置が異なっている のである。それだけでなく(1)の図面では 終点の駅名も違っており 、「広小路」ではなく「上野町」となっている。

ただ、これに関しては恐らく答えは簡単で、(1)の図面が作成された頃にはまだ計画は比較的初期の段階で、後になって計画が詰められるにつれ幾らかの 計画変更が生じ 、結果として伊賀上野側の終点は「上野町」から伊賀鉄道(伊賀電気鉄道)の「広小路」に変更され、上のサイトのような広小路駅の詳細図面が作成されるに至った……と考えることが出来る。上野延伸線は先述の甲南駅付近のように何ヶ所かでルート変更などが検討されており、伊賀鉄道に乗り入れる目論見もあったので、広小路駅付近(伊賀上野側)でも例外ではないのであろう。

一応これをもう少し分かりやすくするために概略図に起こすと、下のような感じではないだろうか。

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オレンジの線が(1)の全線図面で描かれていたもので、広小路駅の赤線が上記サイトの駅詳細図面で描かれていたルート。(1)の図面が作成された頃には、まだオレンジの線で真っ直ぐ向かい伊賀鉄道の線路に直角に横付けし「上野町」という独立した終着駅を設ける予定だったが、伊賀鉄道への乗り入れ計画に伴い変更を行い、赤線のように広小路駅に乗り入れ伊賀鉄道と線路を接続することにした…という感じだろうか。だとすれば計画は、オレンジの線で真っ直ぐ「上野町」に向かうルートから、途中でピンクの線の方に経路を変えて赤線に接続し広小路駅に入る…という風に、 ピンク線部分のようなルート変更も生じていた可能性 が高い。

 

この点に関しても 京都新聞側のルート図に問題 が見受けられる。

新聞側の路線図は先述の通り(1)の図面に準拠していると考えられるため、比較的初期の計画ルートを描いていると見ることが出来る。しかし新聞側の図の終点は(1)の図面のように「上野町」とせず変更後の「広小路」としてしまっており、反面 線形は伊賀鉄道に直角に取り付けるルートのままとなっている。

 初期計画と変更後の計画のどちらかに統一・修正せず、図中で情報を混同 してしまっている模様である。今回の伊賀上野線の記事は細部の「ツッコミ所」が結構見られる印象である。

 

以上のように伊賀上野線の記事に関する多くの点を補足してきたが、記事側も記事側で、かつてこの計画線が用地買収まで着手していたという、計画が単なるペーパープランではなかったという注目すべき事実を紹介していたことは評価したい。未成線用地だった所はどうなっていたのか(或いは今どうなっているのか)、昔(や今)の航空写真などを調べてみて、鉄道用地らしき形が農地の中に見られるかどうか、時間があれば探してみるのも面白いかもしれない。

そしてこれは個人的な余談だが、近江鉄道もかつては「近鉄」という略称で呼ばれていたそうだ。なおかつ伊賀鉄道が近年まで近畿日本鉄道の路線だったことはよく知られた話である。仮に近江鉄道伊賀上野広小路駅まで予定通り延伸・接続していたとすれば、近江鉄道は後に近畿日本鉄道に吸収され、かつての略称通り本当に「近鉄」の路線となり、同社の「近江線」として滋賀県域にまで近鉄の路線網が及ぶことになっていたかもしれない。歴史に「もしも」は無いとはいえ、夢想するとロマンは尽きない。

 

 

廃線編 ★

もう一つの主要コンテンツである廃線回から選んだのは、全部で3つ。現在や過去の写真などを織り交ぜながら見ていこう。

 

 

東本願寺引込線 -

(16)東本願寺引き込み線

明治の末、東本願寺真宗大谷派本山、京都市下京区)の巨大な門を再建するため、京都駅付近から寺の南側まで、木材などを運搬する専用の引き込み線が敷設された。現在はビル街となった京都駅前を歩き、わずか3年で姿を消した、1世紀以上前の路線跡をたどった。

(↑記事冒頭文より引用)

 初代京都駅の西側から分かれて現在のヨドバシカメラ京都店の場所まで 敷かれていたもので、明治42~44(1909~11)年頃にあったという。江戸期に焼失した門を再建するのに多くの巨木を日本各地から搬入すべく敷設され、門再建完了後にはその役割を終えた。なお、動力が機関車なのか人力なのかは分からないという。

100年以上も前の東本願寺の門再建のためだけの、たった200mほどの仮設と思われる線路をわざわざ取り上げるとは「よくぞこんなマニアックな路線を」と驚いた人も少なからず居たことだろう。当時の運行実態を記す資料や引込線の写真は無いらしく、当時を示す物といえば東本願寺に残る図面ぐらい。そのような貴重な資料を記事中に掲載しつつ、歴史の片隅に埋もれかけていたものを大々的に記事として取り上げるとは、もはや脱帽の一言である。

 

そんな東本願寺引込線ではあるが、一点だけ夢幻軌道の記事に補足出来ることがある。

それは記事の中ほどよりやや後ろ寄りにある、 ヨドバシカメラ建設時の発掘調査の際には引込線の遺構は見つからなかった 、という内容の記述についてなのだが、これについて自身は当然であろうと考えている。

何故なら、かつて引込線の荷下ろし場があった現在のヨドバシカメラの場所には、ヨドバシが建つ以前にも別の建物が建っていたからだ。

 

その建物とは、旧近鉄百貨店京都店。戦前に完成したという歴史のあった建物で、Wikipediaの記述を基にすると昭和11(1936)年以前には既に存在していたらしい。

この建物は近鉄百貨店の閉店に伴い平成20(2008)年までに取り壊されたが、その取り壊し完了直後に自身が撮影した写真がある。

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撮影時期は写真に表記の通りで、京都タワー展望室より。見てみると、跡地は当時まだ旧1階部分(地面レベル)がコンクリートの床で覆われている。実は、この下には更に地階が存在しており、先ほどのWikipediaの記述によれば、ビル完成当時には既に地下1階まであったそうだ。上の写真を撮影した時点では、その下の地階はまだ取り壊されていなかった。

 

つまりこれらから何が言えるかというと、引込線の撤去(明治44 (1911) 年)の僅か25年ほど後(昭和11(1936)年頃)には、引込線の荷下ろし場だった場所に後の近鉄百貨店京都店となる建物が建てられ、 その際に引込線が敷かれていた土壌は掘り起こされて 、百貨店の地階や1階の床などが造られた…と考えられるということである。

明治末期の土壌は昭和10(1935)年頃の時点ではまだ地表からごく浅い部分だったと思われ、百貨店が地階まで造られたとなると、その時に引込線当時の土壌(地表面)は取り払われてしまった可能性が高い。ヨドバシ建設前の発掘調査で引込線遺構が出て来なかったのも無理はないだろう。

 

ちなみに、ヨドバシ建設前の発掘調査の様子についてはこちらのウェブサイト(1)にて、建設開始直後の様子についてはこちらのウェブサイト(2)にて写真付きで紹介されている。(1)によればこの時の調査で出土したのは、平安時代室町時代の遺構だったそうである。また、(2)で紹介されている段階では、百貨店ビルの構造物をまだ僅かに残した状態のままで建設工事が行われていたそうである。

いずれのサイトにおいても、百貨店の地階が地面レベルからどのくらいの深さまで達していたか、発掘調査で掘られたのが地面レベルからどのくらい深い所でどの年代の土壌だったのかなどが、発掘・建設当時の写真もあってより深く理解いただけると思う。

 

 

- 京阪石山坂本線 三線軌条部 -

(23)京阪石山坂本線三線軌条部

通常、鉄道にはレールが2本敷設されているが、かつて大津市の京阪石山坂本(石坂)線の一部には3本のレールがある「三線軌条」の区間があった。車輪幅の異なる京阪の電車と、国鉄の汽車などを同じ線路に通すための工夫だ。明治の鉄道の名残をとどめ、高度成長期に姿を消した三線軌区間を求めて大津市に向かった。

(↑記事冒頭文より引用)

 区間膳所浜大津 で、大正2(1913)年 ~ 昭和44(1969)年の間に存在[*19]。元々この区間は明治13(1880)年に国有鉄道の路線として造られたが、後に京阪石山坂本線の前身の一つである大津電車軌道が浜大津石山寺間を敷設する際、国有鉄道と線路を共用することになり、以来大正初期から昭和の戦後まで国鉄と京阪が同じ線路敷を走ってきた。琵琶湖西岸を走っていた江若鉄道が廃止されるのに伴い国鉄も同線に直通していた貨物列車の運行を取り止め、その連絡線だったこの三線軌区間も使命を終えた。

記事では当時の写真や占領期に戦車輸送列車も走ったエピソード、現代においては小橋梁に残る「鉄道省」のプレートや沿線に今も立つ「工」マークの境界杭など、当時の姿や現在も残る国鉄三線軌区間の名残りを伝えている。

 

しかし、 そんな夢幻軌道記事においても、一つ抜けているものがある。

記事の末で、JRと京阪の線路が膳所付近で並行する箇所(つまり当時、国鉄が京阪の線路に入っていた場所)の解説をしており、「両者をつないだ線路の痕跡は見当たらなかった」としている のだが、これは事実とは異なる

実は今でもよく見ると、ちゃんと 国鉄と京阪を繋いでいた線路の路盤は残っている のである。

 

まずは以下の写真を見ていただきたい。

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これは髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔Ⅰ』(2002年、JTB出版事業局)の107ページより引用(一方の写真はその拡大)した、現役当時の国鉄と京阪の連絡部分の写真。書籍では撮影年は昭和35(1960)年とある。

狭軌国鉄線路が真っ直ぐ進んで京阪の線路と別れ、膳所駅に向かって延びているのが見える。当時の国鉄と京阪の連絡線はこのような感じであった。

 

それをほぼ同地点から捉えた現在の様子がこちら。

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撮影は2017年、京阪電車の車窓より。先ほどの現役時の写真とよく見比べてみると、京阪の線路敷から膳所駅構内へと上る連絡線の路盤が、深い雑草に覆われ残っているのが確認出来る。また、一番手前の京阪の架線柱が、(旧) 連絡線の路盤を跨いでいる点も変わっていない。現在この先の路盤上には、JR膳所駅の建物が建っている。

そして実際、先の現役時の写真の原典『関西 電車のある風景 今昔Ⅰ』にも、旧連絡線跡について「線路用地が残る」「雑草に覆われている」としっかり書かれている。

 

このように京阪と国鉄を繋いでいた連絡線の痕跡は、線路が剥がされ深い藪に覆われただけで、路盤は撤去されることなく今も残っているのである。新聞記事においては、どうやらその存在に気付くことが出来ずに見逃してしまったようだ。

 

 

- 伏見インクライン

(26)伏見インクライン

インクラインと聞くと多くの人は、桜の名所として知られる蹴上(京都市左京・東山区)の風景を思い浮かべるだろう。しかし、かつては伏見区にもインクラインがあり物流の一端を担った。国道へと姿を変えた傾斜鉄道の跡地を訪ねた。

(↑記事冒頭文より引用)

 近鉄伏見駅近くで疏水の東西を結んでいた もので、明治28(1895)年 ~ 昭和21(1946)年の間に存在していた。時代と共に交通手段が舟運から自動車へと変化したことで使命を終えたという。当時は有名な蹴上インクラインよりも勾配は急だったというが、現在も線路の残る蹴上と違い、伏見の旧線路敷は国道へと転用され、跡形もない。

記事においては巻き上げ機のあった敷地やインクラインを乗り越えていた陸橋の遺構、当時の写真や路線長・軌間・勾配などの路線データが紹介されており、あまり知られていないインクラインの詳細を窺い知ることが出来る。

 

夢幻軌道内で紹介された名残り以外は直接の痕跡や目立った遺構は残されていない伏見インクラインだが、知らなければインクラインがあったとは分からないこの廃線跡沿いにも、記事では紹介されていない、そのかつての存在を伝える物がある。

何と近くにインクライン」の単語が名前に入ったバス停 があるのである。

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その名も「伏見インクライン前」京都市バスのバス停である。この写真の撮影は2002年だが、インクラインが存在していた痕跡が殆ど消え去ってもなお、廃線跡近くのこのバス停の名前からは「インクライン」の語が消えることなく残り続けていたのである。当時これを見つけた私は「こんな所にインクラインの『痕跡』が!」と感動したと共に、バス停の名前にだけインクラインの存在が残り続けてきたことを不思議に思ったものである。

 

このバス停が現在どうなっているかというのは、以下のストリートビューの通り。

伏見税務署のそば(画面右側)を見ると、流石に看板は新しくなっているが、「伏見インクライン前」と書かれたバス停が見えている。インクライン名のバス停は今も健在で、この近くにかつてインクラインが存在したことを伝え続けている。

 

インクラインの名残りを伝える物としてこれほど目立つ物が近くにあるにもかかわらず、何故か夢幻軌道の記事ではこのバス停については一切触れられていない。「インクライン」の単語がダイレクトに入った現役のバス停である以上、幾らか知られた物として省かれたのだろうか。それとも、直接関係のある遺構ではないと見做されたのだろうか。

 

 

★ その他のオススメ記事 ★

特に目立って補足すべき事物は無いものの、個人的に面白い・興味深いと思った記事も幾つかあるので、それらも5路線分紹介しておこう。

 

 

- 琵琶湖若狭湾快速鉄道(若江線)-

(6)琵琶湖若狭湾快速鉄道

鯖街道の鉄路、要望今も

(↑記事冒頭の副見出しより引用)

 JR湖西線近江今津駅から小浜線上中駅までを短絡 する路線。元々は国鉄 若江線 (じゃっこうせん)として大正11(1922)年に国の改正鉄道敷設法に定められたもの。国鉄の計画としては昭和62(1987)年の同法廃止により消滅したことになっているが、沿線予定地の自治体では、若狭地域と関西圏を短絡する路線計画だけあって『夢幻軌道を歩く』の記事名にあるような路線名で、ごく最近まで鉄道の新設を望む声があった模様である。

なお、鉄道の予定ルート沿いには昭和12(1937)年に開通した省営 (国鉄) バスを源流とする西日本ジェイアールバスの路線が、現在も近江今津駅小浜駅間を走っている。

 

記事によれば、途中には「日置前」「角川 (つのかわ) 」「熊川」の3駅が予定されていたそうで、JRバスに乗りながら予定ルートを辿り、沿線各所の様子を取り上げたり、「もしここに鉄道が出来ていれば…」という想像を巡らせたりしており、鉄道が出来た場合のロマンを十分に掻き立ててくれる。加えて、想定所要時間や途中のトンネル箇所数など幾らか詳細な路線データも紹介しているため、この路線の具体像をイメージしやすい。

 

この路線については夢幻軌道以外にも、 森口誠之『鉄道未成線を歩く 国鉄編』(2002年、JTB出版事業局)の111ページ に詳しいことが書かれている。国鉄の計画として定められたのは大正期だが、若狭と近江を短絡する鉄道計画自体は明治30(1897)年頃にまでルーツがある……といった話などが解説されている。また新聞の記事内でも触れられていた、近江今津から上中までの短絡線の早期実現を訴える看板についても、写真付き(※但し出版が2002年なのでその当時の物)で紹介している。

 

ウェブ上を検索してみても計画推進の公式サイトがあったり、Wikipediaの記事があったりなど情報は沢山出てくるものの、近年になって北陸新幹線敦賀~新大阪間が小浜・京都ルートで決定したことや、この快速鉄道の計画を中止し新幹線でもって代える話が出たらしいこともあり、国鉄若江線計画に由来するこの路線が実現する可能性は殆どしぼんでしまった。明治期から必要性が訴えられながら何故現代まで実現してこなかったのか、不思議さすら感じさせられる。

 

 

びわこ京阪奈線

(9)びわこ京阪奈線

空港整備とともに立案

(↑記事冒頭の副見出しより引用)

 近江鉄道および信楽高原鉄道米原~貴生川~信楽を経由し、信楽から先は新線を造り京田辺まで 達する路線計画。1989年(平成元年か)から始動し、現在も存続している計画である。元々はかつて沿線に計画された びわこ空港とセットで計画され、空港計画が消滅した後も鉄道計画だけが残された。実現の暁にはカーブの多い信楽高原鉄道区間の線形を改良し、京田辺から先は松井山手駅まで列車を乗り入れさせる予定だという。現在は近江鉄道信楽高原鉄道の両社間において「びわこ京阪奈線フリーきっぷ」なるPR乗車券まで発売されている。

 

夢幻軌道の記事ではこのびわこ京阪奈線ルートを(バス路線の無い地域を除き)電車とバスの乗り継ぎだけで辿るというツワモノ的なことをやっており、よほどの未成線マニアや新線マニア、あるいは相当な妄想鉄でもない限りやらないようなことを、全線で5時間以上かけてやっている点は、まるで冒険のようですらあり読み応えがあって面白い。

 

なお、びわこ京阪奈線が必要とされる理由の一つとしては、滋賀県のホームページの情報を基にすると、大阪方面へ抜ける鉄道が実質的に東海道本線くらいしか無い湖東地域においては、そのバックアップとなるもう一本の大阪⇔滋賀間の連絡鉄道があるべきだから、ということだそうだ。確かにその理屈は分からなくもないが、経由地(起終点含む)とその沿線の様子を考えると、本当に採算が取れそうかどうかは大いに疑問である。例えば土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線のように非電化で単線の新線として造るのなら何とかいけそうな気もしなくもないが、仮に複線電化で4両以上の都市型電車を走らせるつもりだとすれば、明らかに無茶な計画である。果たして本当に実現するのか、それ以前に計画がいつ頃まで存続出来るのか、怪しい要素を少なからずはらんでいると思うのは自分だけではないはずである。

 

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近江鉄道の車内には、一時期このような路線図付きの広告が掲げられていた。乗客たちはどのような考えで見ていたのだろうか。(2016年撮影)

 

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近江鉄道 水口駅の案内看板にも、下に小さく びわこ京阪奈線の計画推進を訴える文言が入っている。これは現在でも見ることが出来る。(2017年撮影)

 

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↑新聞記事にも出てきた信楽高原鉄道 信楽駅の線路終端部。元々はここから関西本線の加茂駅まで延伸予定だったため、駅自体が途中駅の構造で、線路も先に延びそうな感じで止まっている。反対を振り返ると・・・(2018年撮影)

 

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↑終端線路の延長線上には、更に直線状の用地が続いている。看板に「信楽高原鉄道」の文字があるため、現在でも同社の所有地のようだ。元々はこの場所にも留置線が敷かれていたようだが[*20]、現在線路は撤去され、まるで未成線用地のようになっている。びわこ京阪奈線もここを通るのだろうか。(2018年撮影)

 

 

地下鉄烏丸線 三栖延伸部 -

(15)京都市営地下鉄烏丸線 三栖延伸部

「新設すべき」のまま40年

(↑記事冒頭の副見出しより引用)

 地下鉄(近鉄竹田駅から油小路通京阪本線の交差地点まで 至る路線計画で、昭和46(1971)年に新設すべき路線として登場し、現在も一応存在している計画である。竹田から京阪との交点までには「城南宮」「大手筋」「三栖 (みす) 」の3駅が想定され、国交省近畿地方交通審議会では2004年に「京阪との直通運転を検討すべき」とも答申で述べているという。しかし、地下鉄事業の借金の多さから事業化の目処は立っておらず、先の2004年の答申でも「中長期的に望まれる路線」との位置付けに留まっている。

 

地下鉄竹田駅から更に南にも引上線や線路用地が延び、延伸に備えているらしいことは夢幻軌道の記事でも述べられているが、そこから城南宮駅予定地まではどの辺りを通るかまだ未定らしい。その他にも記事内では、烏丸線建設関連の文献から想定駅も書かれた国の審議会資料を引用して掲載したり、城南宮駅予定地を中心として計画線沿線の様子を解説し、地理的・立地的条件からどのような利用・効果がありそうかなどをリポートしており、計画線像やその沿線についてイメージしやすい。

 

京都市営地下鉄の計画線といえば、同じく停滞している東西線の洛西・長岡京方面への延伸計画(参考:拙ブログ記事)があるが、そちらではなくこの烏丸線の竹田以南の延伸計画を取り上げたのは、後者の方が比較的知られていないからと思われる。

計画線の通る油小路通沿いには夢幻軌道記事にもある通り、レストラン等の店舗が沢山立ち並んでいるのを自身も地図で見たことがあるので、ここに鉄道が通っていればより賑わいが…と自身も随分昔に考えたものである。

そして、延伸されれば京阪との直通が検討されることになっているが、現在の京阪は一部車両を除けば主に3扉車が主流。対して地下鉄は近鉄規格に合わせられているため、4扉車が主流。加えて地下鉄は既に一部駅で可動式ホーム柵を導入済で、京阪も今後一部駅に導入予定であると聞かれる。相互直通運転を本格的に検討することになれば、両者の扉位置の違いも乗り入れの障害として問題になってきそうである。

 

なお、この烏丸線延伸計画は、三栖(京阪との交点)から更に南にも路線を延ばし「洛南新都市」に達する、という話も聞かれたが、京阪や宇治川の南部にある巨椋池干拓地には現在もだだっ広い田園地帯が広がるのみで、夢物語のような響きだけがある。

 

 

- 小鶴線 -

(20)小鶴線 前編

毎年工費計上も凍結

(↑記事冒頭の副見出しより引用)

 

(21)小鶴線 後編

新幹線希望も果たせず

(↑同上)

 山陰本線日吉駅(旧称:殿田駅)より福井県小浜駅まで 至る路線計画で、大正11(1922)年の鉄道敷設法成立と共に登場、昭和54(1979)年に工事計画凍結となった。路線名は計画線の途中にある鶴ヶ岡地区と北の終点・小浜から取って「小鶴線(こづるせん)」と呼ばれた。京都と若狭の短絡が目的で、熱心な敷設運動により一時は着工の一歩手前までいったものの、戦前の恐慌や戦争、戦後の国鉄の赤字などにより工事に着手されることなく潰えてしまった。なお、この計画線の役目を事前に担うものとして、省営バス(後に国鉄バス)の路線が京都駅から鶴ヶ岡地区まで、戦後の一時期は小浜駅まで運行されていたが、路線の大部分は廃止され、現存するのは後継の西日本ジェイアールバスが運行する京都駅~周山地区間のみとなっている。

 

小鶴線の距離自体が長いためか、本路線の回は前編と後編に分かれている。この計画線もバスなどの公共交通機関だけで辿るという熱心な「未成線マニア」的なことをやっており、道中の詳しいリポートは読み手をも旅している気分にさせてくれるだけでなく、かつて国鉄が実際に計画線沿線に進出していた頃の「遺構」である、旧国鉄バス車庫の建物まで見つけ出している。なお、この路線は茅葺き屋根の集落で知られる美山地区の近くを通ることになっており、路線が出来ていれば茅葺き集落へ向かう観光客で列車も賑わっていただろう、と新聞側ではしているが、鉄道が通じていれば沿線が開発されていた可能性も否定出来ず、美山の茅葺き集落もちゃんと現存していただろうかといえば、どうだろうか。

 

この路線も 森口誠之『鉄道未成線を歩く 国鉄編』(2002年、JTB出版事業局)の110ページ にも幾らか違った説明の仕方で詳しいことが書かれており、当時の敷設運動や実際の敷設・準備に向けたプロセス、敷設を目指した背景や計画線を辿る省営(国鉄)バスの歴史・遷移など、夢幻軌道よりももう少し踏み込んだ解説をしている。また、京都新聞側にもあった北陸新幹線の誘致運動との関係やその影響についても触れている。

 

 

- 京都電気鉄道 三宅線 -

(25)京都電気鉄道三宅線

市電に押され構想消滅

(↑記事冒頭の副見出しより引用)

出町柳駅近くの 出町橋西端より高野川沿いに三宅八幡宮 八幡前駅付近)に至る路線計画で、明治36(1903)年 ~ 大正5(1916)年頃のもの。日本最初の営業用電車を走らせた京電による路線拡張計画で、当時近畿中から参拝者が訪れていた三宅八幡宮への参詣の便を図ろうとしていたが、敷設特許取得より僅か3年後から路線網を広げていった市営電車(京都市電)に既存路線の経営を圧迫されたため着工が何度も先延ばしにされ、遂には路線敷設に乗り出すことが出来ず果ててしまった。そして京電自体も敷設特許返納の約2年後には市電に買収されている。現在は計画消滅後に開業した叡山電鉄や京都バスがほぼ同一ルートを走っており、かつての計画線の代わりを果たしている。

 

実はこの計画線、 森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)180ページの免許線リスト にもかねてから掲載されており、自身はその存在についてかなり以前から知っていた。しかし、文字のみによるリストだけに計画線についての説明はほんの1~2行程度データが載っているだけで、地図上で示すとどのようなルートでどの辺りを通って…というのは全く分からず、どう調べて良いかも知らなかったため、それ以上解明するにも長らくなす術が無かった。それを京都新聞側が、京都府の資料館から現存する図面を引っ張り出してきて、夢幻軌道記事上において明らかにしてきた時は本当に「これは恐れ入った…」と驚いたものである。個人的には自身の手で最初に解明してみたかった気もするので「先を越されたか…」と思わなくもなかったが、一人の未成線ファンとして今後のリサーチの手本や参考になった部分もあり、記事や路線の内容自体にも素直に感心してしまった。

記事内容に関する事はというと、旧計画線沿線の高野川沿いには桜並木があったり、大型商業施設や大学、区役所などがあることから、開業していれば美しい光景が見られ、より便利になっていたかもしれない…という論が見られるが、計画当時から桜並木があったかについては(少なくとも個人的には)分からず、仮に開業していたところで街の様子が現在のようになっていたかどうかも分からないし、そもそも市電が全廃された京都のこと、路線が現在まで存続していただろうかといえばそうとも言い難いだろう。しかし、もし路線が開業していれば叡山電鉄が全く別のルートで出来ていたりと、洛北の交通図が多少変わっていたかもしれないことは言えると思われる。

 

 

★ 登場路線の傾向と分析 ★

廃線未成線共に京滋エリアを中心とした様々な路線が登場する『夢幻軌道を歩く』だが、それではこれまでの記事を見てみると、路線の登場にはどのような傾向が見られるのか、以下3つの視点を基に見てみよう。

 

 

-「却下線」が少ない -

私設鉄道未成線は、次の2種類に大きく分けられる。

  • 免許線……国から敷設免許を取得出来た計画線
  • 却下線……敷設免許の申請を国から却下された計画線

これら2つに関しては特に正式な呼び名は無いと思われるが、少なくとも本ブログではこれらに対して「免許線」「却下線」の呼称を便宜上用いるものとする。

 

このうちここで取り上げるのは「却下線」、つまり敷設免許を取得出来なかった計画線である。その数は概ね免許線よりも多い傾向にあるようで、 京都府滋賀県の両域 で見ると、国立公文書館に文書が残り完全に未成に終わった路線だけでも 20件を超え 、開業線の路線拡張構想・免許計画線の却下区間国立公文書館に文書が無い物も含めると更に多いとみられる。つまり、鉄道未成線は免許線だけでなく却下線も加えると、京滋エリアだけでもかなりの数に上るということになる。

 

しかし『夢幻軌道を歩く』における却下線の扱いはどうだろうか。連載開始から現在までに至る全ての未成線記事を一通り見てみると、(2018年12月現在)そのうち却下線は、

この たった2つ だけなのである。

先に示した「20件を超え」という数に比べると、驚くほど少ない。なぜ却下線をあまり取り上げないのか理由は定かではないが、鉄道趣味の世界全体でも未成線と言えば、一般的に免許線が取り上げられることの方が多く、却下線は免許線よりも脚光を浴びることは少ないように思える。そのため『夢幻軌道を歩く』においても「国から免許が認められた計画こそが、幻の鉄道計画の王道」という考え方があるのかもしれない。

 

そのようにして日陰者になりがちな却下線ではあるが、いざ国立公文書館のウェブサイトなどでデジタル公開されている当時の文書を読み解いてみると、意外な場所で計画が立てられていたり、突飛な計画が存在していたりと、なかなかユニークで面白い。

それゆえ本ブログでは、未成線は免許線だけでなく却下線も積極的に取り上げることとしている。京滋エリアに絡むものも幾つか記事化してあるので、以下に拙ブログよりそのうちの1記事を例示しておこう。却下線には例えばどんな路線計画があったのか、より理解を深めて頂けるかもしれない。

gentramb.hatenablog.jp

 

 

- ケーブルカーの未成線が登場しない -

鉄道未成線は地平を走る普通鉄道の他にも、山麓と山上などを結ぶケーブルカー(鋼索鉄道)のような特殊鉄道も存在する(当然ではあるが)。

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』の巻末 (P.180) や国立公文書館に残る文書を見てみると、 京都・滋賀の両府県におけるケーブルカーの未成線の数 は、免許線・却下線合わせて 約10件程度 の存在が認められる。

 

ところが『夢幻軌道を歩く』における扱いはどうかというと、これらは1件も登場していないのである(2018年12月現在)

廃線跡であれば京滋エリアの代表的路線である愛宕山鉄道鋼索線が連載初回で登場しているのだが、未成線の方はというと1つも取り上げられる気配が無いのだ。免許線なら戦前における鞍馬電気鉄道の鋼索線計画(鞍馬寺付近)は知る人ぞ知る計画であると思われるし、それ以外にも本記事の「新京阪洛西線」の項で取り上げた、柳谷登山鉄道(長岡京市付近)という計画もある。却下線ですらマイナーな計画線が多い中で、後述の拙ブログ記事の例示にあるように一大観光地に計画されたものまである。

そのように新聞のネタに出来そうな路線計画だけでも幾つかあるにもかかわらず、なぜ京都新聞においてはケーブルカーの未成線を全く取り上げないのか、これもよく分からない。しかし、 これまでの未成線記事全てを一通り見てみると、取り上げられているのはほぼ普通鉄道のみ で、ケーブルカーに限らず特殊鉄道自体が一切登場していない。この傾向から見ると、もしかしたら未成線記事の題材とするのは、基本的に普通鉄道中心で特殊鉄道は原則として取り上げない、という方針を採っているのかもしれない。あるいは他の理由として、ケーブルカーの未成線自体がマイナーな存在だから、という考え方もあるのだろうか。

 

京都新聞側の題材としては全く扱われていないケーブルカーの未成線だが、これも前項の却下線のように当時の文書などから色々調べてみると「こんな所にも計画されていたのか!」と意外性抜群で、結構調べ甲斐がある。本ブログではそのような考えの下でケーブル未成線を幾つも記事としてまとめており、わざわざ「未成線(ケーブルカー)」というカテゴリーを設けたほどである。

京滋エリアの計画線に限るとまだ記事数は多くないが、京都・滋賀の各府県からそれぞれ1路線ずつピックアップしてあるので、それら拙ブログの記事2つを参考として例示しておきたい。京都の代表的観光地にも鋼索鉄道計画の史実があったり、滋賀の瀬田川南部の山中にも計画があったりと、その土地を知る者にとっては初耳の人が殆どだろう。いずれも却下線で敷設免許は取得していなかったが、京都新聞では扱われない特殊鉄道の幻の計画というのも一見の価値はある。

gentramb.hatenablog.jp

gentramb.hatenablog.jp

 

ちなみに全くの余談だが、本項で少し触れた夢幻軌道の愛宕山ケーブルの記事では、かつて山麓清滝川駅跡に車両が放置されていた頃の貴重な写真が載っており、こちらも併せてチェックするに値すると言えるだろう。

 

 

- 2018年は廃線編が多い -

廃止路線だけでなく幻に終わった鉄道計画も数多く取り上げるこの連載記事だが、 2018年分 の記事たちを見てみると、路線選びに例年とは多少異なるパターンが見られる。

それは、未成線編よりも 廃線編が多い ということである。

ウェブ版の2018年分の記事一覧から、廃線未成線それぞれの路線数(記事数ではない)を数えてみると、

 

〈2018年〉

廃線跡=6

未成線=4

 

このように廃線の路線数が未成線を上回っているのが分かる。

では、他の年の場合はどうなっているかというと、連載開始以後の2年分は以下の通りである。

 

〈2017年〉

廃線跡=3

未成線=6

・両方=1(←※『(18)国鉄篠山線』

 

〈2016年〉

廃線跡=4

未成線=5

・その他=1(←※『(11)太湖汽船鉄道連絡船』

 

「両方」や「その他」のように、どちらか一方あるいはどちらにも分類出来ないものも混じっているが、 例年は廃線よりも未成線の方が路線数が多かった のが見て取れる。

ゆえにこれらのことから、2018年は過去の年とは違い、廃線の方が未成線よりも高頻度で取り上げられていることが読み取れる。

 

2018年以外の年は未成線編の方がよく登場しており、それが事実上 この連載のウリともなっていたと思われるのだが、なぜ2018年だけは廃線編の方が多くなったのだろうか。Twitter上では「ネタ切れ感があるような…」といった趣旨の声も見受けられたが、その通り最近はネタ探しにやや苦戦しているのだろうか。それとも新聞社側の編集方針上、ネタ選びの制約が大きくなっているのだろうか。

 

 

********************

 

 

以上のように長々と『夢幻軌道を歩く』の幾つかの記事に対する補足や批評などを行ってきたが、最後に連載そのものに関するエピソードも少し紹介しておこう。

こちらのウェブサイトによると、最近とある集まりで、連載を執筆している記者の人が連載開始の経緯といった「秘話」を話す機会があったそうだ。文章中にはあまり詳しいことは書かれておらず、ページ自体もその集まりの様子を簡潔に紹介しているだけだが、1枚目の写真に写っているスライドの内容(画質が不鮮明だが)を読んでみると、連載が始まった2016年は京都鉄道博物館嵐電 撮影所前駅の開業といった、 京都の鉄道に新しい動きがあったことが企画が始まった背景 であることや、「廃線」テーマよりも「未成線」テーマを重視していること、そしてそのような中で 初回記事のトピックは廃線愛宕山鉄道とするよう上司から指示があった ことなどが書かれている。また、『鉄道廃線跡を歩く』シリーズの刊行などで鉄道界に大きく名を馳せた 故 宮脇俊三氏の影響を、記者の人自身も大きく受けている こともページの文章中で触れられている。

このようなエピソードは記事本編からはまず読み取ることの出来ない貴重な裏話である。初回記事に対する上司からの指示の話は、新聞社が出すコンテンツだけに必ずしも個人サイトのように自由自在に路線選びが出来るわけではないという事情を窺わせてくれるし、未成線廃線トピックの記事を書いている記者が故 宮脇氏の影響を受けている話も「やはり」と思わせてくれる。本編の内容だけでなく「制作秘話」も、聞いてみるとなかなか興味は尽きない。

 

そんな『夢幻軌道を歩く』だが、本ブログとは「京滋(を含む関西圏)の知られざる未成線廃線を重点的に扱う」という点でテーマがモロ被りしているため、連載が続く限りこのサイトにとっては競合関係であり続けるだろう。しかし、新聞社のコンテンツだからこそ持たせられる記事の信頼性や、手頃な分量で分かりやすくまとめられた内容、そして専門家や地元の人など各方面の人の話も織り込んだ構成など、新聞ならではの強みを持っているのもまた事実である。そのようにして今後はどの路線がどのような形で取り上げられ、世に送り出されていくのか、今後の展開にもぜひ期待したい。

 

 

★ 主な参考文献・脚注 ★

 

(※参考文献についてはこれら以外にも、本文中に登場するウェブサイト・書籍・資料等もある。)

*1:背景に使用している写真は、『夢幻軌道を歩く』に登場した路線のうち、自身が実際に訪問・撮影したものを使用している。左上から時計回りに、愛宕山鉄道鋼索線愛宕山鉄道平坦線、信楽駅終端部(びわこ京阪奈線に関係)、舞鶴線支線(中舞鶴線)、貴生川駅終端部(近江鉄道延伸計画伊賀上野線)に関係)、伏見インクライン(前バス停)。

*2:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.144

*3:なお、情報源は右記のツイート(https://twitter.com/iloha_train/status/959414010490773504)からである。

*4:但し、森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』の180ページにおいては、敷設免許取得年は大正15(1926)年となっている。また、田中真人(他)『京都滋賀鉄道の歴史』(1998年、京都新聞社)P.250においては、路線計画の起業廃止決定は昭和15(1940)年5月末とある。

*5:夢幻軌道の記事では『鞍馬電鉄沿線名所図絵』とされているが、これは誤りである。

*6:髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔II』(2002年、JTB出版事業局)P.109

*7:但し森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』180ページのリストでは、免許期間は大正13(1924)~昭和5(1930)年と、京都新聞とは違ったデータが記載されている。

*8:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180

*9:鉄道省文書『柳谷登山鉄道・大正十二年』(1923年、国立公文書館蔵)P.60 https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F0000000000000057465

*10:これはどうやら正しいようで、長岡京市の公式サイトにある「長岡京市史索引(や行)」(http://www.city.nagaokakyo.lg.jp/0000001131.html)にも同じ情報が書かれている。

*11:その3つの前にある「向日町」とは現在のJR向日町駅のことではなく、向日市の旧態である向日町の町域のことを指すと思われる。

*12:先のFacebookページ(https://m.facebook.com/fushimikeizai/posts/833916236777973)の4枚目の画像(「寺有地売却願」)

*13:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180 および 鉄道省文書『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・高雄鉄道(元高雄電気鉄道)・免許取消・昭和五年~昭和十年』(1930~35年、国立公文書館蔵)

*14:この文書内では社章下の表記が「高雄電気鉄道」のままとなっているが、印字から「電気」を抜いていなかっただけのようである。

*15:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.165

*16:計画消滅年の出典:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180

*17:先述の古新聞記事、びわ湖鉄道歴史研究会『近江鉄道新規路線の拡張計画(1)』森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.180、など

*18:森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)P.110の図、『貴生川上野町間線路平面図』滋賀県県政史料室所蔵、びわ湖鉄道歴史研究会ウェブサイトより)

*19:髙山禮蔵『関西 電車のある風景 今昔Ⅰ』(2002年、JTB出版事業局)P.107

*20:昭和49~53(1974~78)年頃の付近の航空写真:https://maps.gsi.go.jp/#18/34.875496/136.059818/&base=std&ls=std%7Cseamlessphoto%7Cgazo1&blend=00&disp=111&lcd=gazo1&vs=c0j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0&d=vl

【廃線跡】車庫跡に埋まる京都市電のレール

~ 40年以上経た今なお線路はアスファルトの下に ~

 

ある日、とある町歩きミニツアーのウェブサイトを見ていると、こんな趣旨の情報が目に飛び込んで来た。

 

京都市電の線路が埋まってる場所が、まだ他にもある――」

 

私は本当に驚いた。「市電のレールが他に残ってる所がまだあるのか!」と。

実際、稲荷電停跡や七条大橋に市電の線路が埋まったまま残っていることは(後述)以前から知っていたが、なにせ40年以上も前に路線網が全廃された京都市電のこと、線路が撤去されずに残っている所が更に存在しているとは思ってもみなかったからだ。

しかもその場所は、10年ほど前に市電のレールが掘り返されたと聞いていた場所。掘り返されたからには完全撤去されたのだろう…と思い込んでいただけに、なおさら予想外だった。

 

情報元のサイトに書かれた内容を読み込んでみると、その場所は かつて市電の壬生車庫があり、現在一部が京都市バスの壬生操車場 となっている所。ストリートビューでも同地をチェックし、レールが埋まっているのがその場所であるという確認を取ることが出来た。

 

本ブログでは急遽、執筆者が現地に赴き、現在もアスファルトの下に残されている京都市電の線路について、本記事でリポートし まとめることにした。

 

★ 概要 ★

市電の更なるレール残存箇所がかつての壬生車庫跡(現在一部は市バス操車場)であることは分かったが、「そもそも壬生車庫とは?」という基本事項について説明しておく。

 

この車庫は京都市営の路面電車が営業開始した明治45(1912)年に開設され、京都市電の中でも古い歴史を持つ。車両工場も併設され、四条通など市内中心部を走る系統(1系統ほか)を受け持つなど、市電の「要」となる機能を担っていた。

車庫廃止前には計5つの系統を受け持っていたが、3つの路線(四条・大宮・千本線)の廃止と同時に、車庫も昭和47(1972)年に廃止京都市電の全廃が昭和53(1978)年なので、その6年前には無くなったことになる。[*1

場所は上の地図の通りで、阪急大宮駅や嵐電四条大宮駅の近く。地図中のピンを中心として、アルファベットの小文字の「r」のような形をした敷地がかつての車庫である。

中京警察署の右隣にある交差点の名前が「壬生車庫前」のままである所にも名残が見られる。

跡地は市バス操車場などの一部を除き、現在は大規模な団地となっている。

 

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上の図は沖中忠順(著)『京都市電が走った街 今昔』(2000年、JTB出版事業局)のP.133より引用した、当時の壬生車庫の構内図。横倒しで描かれているため、左が北である。

こうして見てみると、先にも述べた車両工場の各種部門が所々に配置されており、左上には京都市交通局の庁舎も置かれていたため、かなり大規模な施設であった。市電の主要車庫であり、京都の市営交通の拠点でもあったことが分かる。同じく左上の車庫入口付近には、複線の大型ループ線も設けられていた。

 

なお、現役当時の様子については、こちらのウェブサイトに写真が沢山掲載されている。

全廃前の市電の車庫の中では最も歴史が古かっただけあって、構内には印象的なレンガ造りの建屋があったそうだ。

 

さて、ここからが本題である。

下の図は上で引用した構内図の左上を拡大したもの。交通局庁舎と運輸事務所の間の車庫入口の辺りである。

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おおよそこの付近が現在 市バスの壬生操車場となっているのだが、その操車場の入口部分に、図の 赤丸で囲った部分の線路が今もアスファルトの下に埋もれており 、それを見ることが出来るというのである。

 

この情報を知ったのは、京都及び関西圏で町歩きを催行している「まいまい京都」と呼ばれるミニツアーのウェブサイト。そこに掲載された以下のページからである。

www.maimai-kyoto.jp

このツアーコース自体はバスをテーマの主軸に据えたものだが、京都市バスの歴史を取り扱っていく上で京都市電についてもツアー内で紹介されるようで、その一環として今回のレールの件も取り上げられる模様である。

「操車場にレール」という文言に目が行った時点で「何処のことだろう…」と思い、上のページ内に掲載された写真や、壬生操車場がツアーコースに入っている点をヒントに、ストリートビューで確認したところ「これは市バスの壬生操車場、つまりかつての市電 壬生車庫跡にあるんだな」と突き止めたわけである。

 

壬生車庫跡といえば、10年ほど前まで残っていた京都市交通局の庁舎を取り壊す際に、(記事冒頭でも触れた様に)市電のレールが発掘され、後にそれがカット(小分け)されてイベントで販売された、という話が記憶に残っている(後述)。

その時まで埋まっていた線路は、その全てが発掘されたわけではなく、一部は掘り返されることなくそのまま残されたということになるようだ。

 

上記ツアーコースについてはスケジュールの都合から参加しないこととなったが、今まで残っているとは思わなかった車庫跡のレールだけは、別の日に独自に見に行くことを決め、現地状況をチェックしてきた。

以下で実際の現地状況と遺構の様子を見てみよう。

 

★ 遺構を訪ねる ★

・現地踏査時期:2018年10月

 

レールが埋まっているのは以下の地図、丁度ピンを立てている辺り。

 

(※以下全て敷地外から撮影。)

 

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現在の市バス壬生操車場。左にかつて京都市交通局の庁舎が建っていたが、近年移転して取り壊され、今は中京警察署が建っている。線路が残るのは右の操車場入口である。

 

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ご覧のようにバスが並ぶすぐ目の前に、緩やかな右カーブを描いた線路の形が、アスファルトの表面に浮かび上がっているのがお分かりだろうか。

 

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もう少し至近で撮影。ごく短いながらレールが下に埋まっているのがはっきり見て取れる。この時は丁度良い感じで太陽光がアスファルトに当たっていたため、よりくっきりとレールの形が浮かび上がって見えた。

 

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線路の片方を拡大。一番下ではアスファルトが割れていたため、このままいけばレール本体が露出してくるだろうか。上方では2本のレールが並んでいるとみられるので、どうやら脱線防止レール(左)と走行用レールの2つが埋まっているようである。

 

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更に2本のレール(青い網掛け部分)の周りをよく見てみると、枕木か敷石と思しき形の亀裂までもが、アスファルト表面に確認出来る。

 

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残された線路はあの1つだけかと思いきや、更にその西隣には、もう1つ線路の形の亀裂が。どうやら複線分の線路が埋まっているようである。(※2枚とも同じ写真。以下同)

 

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写真は小さいがもう少し至近撮影。先ほどの線路とは違い、こちらはレールの亀裂がやや薄っすら程度。よく見なければ気付かなさそうだ。

 

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亀裂の下端部を拡大。右下から左上に走っている僅かな亀裂の下にレールが埋まっている。特に右下の端部ではレールの形が出ているようにも見える。

 

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奥の方を見る。それほど目立つ形でレールの亀裂が出ていないため、斜めから見ると上方しか線路の形が見えなかったり、横から見ると比較的全体の線路の形が見えたりと、見る角度によって見え方が異なる。

 

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最後に複線分の線路を並べて撮影。2つの線路はやや離れて敷かれていた。市電当時の線路配置がアスファルト越しにそのまま見えている。

 

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ちなみに壬生操車場の前には、市電の架線柱(写真中央の2本の白い電柱)も残されている。かつて市電が通っていた後院通(こういんどおり)の風景も含め、廃止から40年以上経過した今でも、この周辺には市電時代の残り香がよく残っている。

 

 ★ こんな事実も ★

現地までレールの遺構を見に行った後、更にウェブ上を調べてみると、以下2つほどの事実を見つけた。

 

1つは、京都市電の廃線跡を取り上げたウェブサイトで最も有名なサイトの一つにも、何か関連する内容が書かれていないか見てみたところ、以下のページで関連する記述を見つけた。

『千本線の廃線跡探訪(壬生車庫前)』- 京都市電の廃線跡を探る

ページの中ほどには、今回新たに知ったレール遺構の 平成17(2005)年の様子 が掲載されており、それによると当時は レール・敷石各本体が地表に露出 していたというのである。

その当時から遺構が見えており、露出したレールや敷石まで見ることが出来たのなら、当時それを知らずにいて見に行けなかったことも少し悔やまれるが、何より当時からモロに本体が見えていた遺構が、撤去されることなく13年後の平成30(2018)年の現在まで、バス操車場という現役施設の地面に残り続けてきたことに驚きを感じる。

交通局庁舎の移転・解体やバス操車場の縮小(後述)という大きな変化を経ており、恐らくその過程で路面舗装の打ち直しも行われているだろうが、そのような中でも市電レールの撤去が行われなかったとなると、撤去せずに操車場の改変を行っていて支障は無かったのだろうか…と少し不思議にすら思えるものである。

 

もう1つは、京都市電の壬生車庫に関して他に何か情報は無いかと探していた時のこと。

数あるウェブサイトを当たっていたところ、以下の写真が掲載されているページを見つけた。

http://www.kyotofu-maibun.or.jp/news/h21-tyousa/21iseki/21img/heiankyou-01.jpg「平安京跡(京都市中京区壬生坊城町48番地16)」『平成21年度 発掘調査情報』- 公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター(公式サイト) より引用

上の引用元の記載にある通り、埋蔵文化財を調査研究する京都府の関連機関の発掘調査情報に掲載されていたものなのだが、上記発掘調査(2009年)の際、かつての市電車庫跡構内の 分厚いアスファルトの下に、市電の線路が敷石ごと、そのまま丸々残っていたのが出てきた 模様である。

レールは錆び付き、敷石は泥だらけなどの状態ではあるものの、出てきた軌道はほぼ車庫営業当時のまま。廃止後も殆ど手付かずの状態でそのままアスファルトを被せられ、時が止まった状態で地面の中に眠り続けてきたようだ。

 

先にも少し書いたが、ここ壬生車庫(壬生操車場)にあった京都市交通局の庁舎を取り壊す際に、市電の レールが発掘され、それが小分けにカットされてイベントで販売された 、ということがあった。その時のレール販売の模様は、こちらのウェブサイトにも載っている。

この時に販売されたレールというのは、どうやら上の写真で発掘されたレールのことのようである。遺跡調査を始めるに当たり取り除かれて一部が販売に至ったようだが、交通局庁舎取り壊しも遺跡発掘調査も同じ平成21(2009)年に行われたもの。そしてレール販売はその翌年。

つまり、交通局庁舎解体の際に周辺敷地の発掘調査も行うことになり、その際に上の写真のような線路が掘り出され、遺跡発掘のために撤去され、その撤去された一部が小分けにされて販売された…との流れということになる。

 

ではここで、なぜ発掘調査は庁舎が建っていた場所だけでなく、その一部周辺でも行われたのか?ということになる。

実は庁舎解体の際に、どうやら市バス操車場の範囲が縮小され、南西部分が警察署用地へと割譲されたようで、そのために遺跡調査が必要となり、地面が掘り返されたということらしい。この操車場縮小は、2007年および現在の航空写真を見比べてみると分かるのだが、確かに後者では操車場の範囲が北東へと後退しており、前者で操車場の一部だった南西部分は別の施設が出来ている。

そのことを頭に入れた上で、現在の操車場敷地内でもレールが埋まっており、過去の操車場南西部分だった所でもレールが埋まっていたとなれば、「それなら市バス操車場の敷地内なら大体(過去の範囲含め)レールが埋まっている(いた)のでは?」と考えたとしても不自然ではないだろう。

そのような推察を前面に据えつつ、市電時代の航空写真 および先の2つの航空写真、市電レールが掘り返された最初の発掘調査(2009年)およびその後の発掘調査(2010年)の模様、そして本記事で取り上げた現在も残るレールを合わせて考えると、以下のようなレール残存状況の推察図が出来上がる。

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「現存」は言うまでもなく本記事で取り上げた、操車場入口に現在も残る線路のことである。

「現存の可能性あり」は先述の「操車場敷地内なら他所にも線路が埋まっているのでは?」という推察に基づくもの。現在および過去の操車場内でのレール残存例から推測したものだが、あくまで「可能性」の域を出ないものであるため、実際に現在も残っている確率は高いとも低いとも言えない。

「過去に残存」は文字通り、近年まで残っていたが現在は撤去されたもので、先述の発掘調査で掘り返された線路のことを指す。範囲は最初の発掘調査(2009年)の状況だけでなく、その後の発掘調査(2010年)の状況も反映させている。ちなみに現在この位置には、中京警察署関連の建物が建っている[*2]。

「現状不詳」は、少なくとも発掘調査前にはレールが残存していたと考えられるが、過去のあらゆる状況を総合的に鑑みると、現存の可能性の高低が全く予測付かない範囲。というのも、この部分は発掘調査(2010年)の際にアスファルトが全て剥がされ砂利の地面となり、その後警察署の敷地に転用されていながら、遺跡発掘の範囲からは外れており、地面を深く掘り下げたようにも見えないため[*3]、これらの要素などから予想が付け難い箇所なのである。加えて、2010年発掘当時の状況資料(写真)がさほど多くないことも判断をつかなくしている。もしかしたら普通に撤去されているかもしれないが、この位置に建物は建てられておらず、現存の可能性はゼロとは言えないのではないだろうか。

 

既に見えている箇所や過去に掘り出された箇所以外は、当然レール残存の有無が見えないため、特に「現存の可能性あり」の部分については、現在でも地中に残っているという確とした保証はない。換言すれば、個人的な願望も多かれ少なかれ混じった推測とも言えてしまうが、それでも市バス操車場内であれほどレールが残っている(いた)となれば、もしかしたら…と考えるのも当然であろう。まだまだ埋まっているかもしれない更なる残存レールの可能性を考えると、非常にロマンが湧いてくる。

 

★【補記】京都市内における他のレール残存箇所 ★

本記事の最初において、壬生車庫跡以外にも市電の線路が埋まっている所が かねてから数ヶ所ある旨を少し書いたが、それら(計2ヶ所)についても幾らか紹介しておこう。

 

七条大橋(東側)-

見出しの通り京阪電車七条駅すぐそばに埋まっているもので、地図で示すと丁度ピンを立てている位置となる。

以前から道路上に亀裂やレール本体が現れていたものと思われるが、ここ最近になって情報が広まり、前よりも比較的知られるようになった。

 

自身がこの遺構の存在を最初に知ったのは2014年。以来数年ごとに何回か不定期に見に行き、その状況を確認してきた。基本的な状態は大きく変化しなかったものの、ほぼ見に行く度に細かい変化があったのが見られた。

本項目では2014年・2017年・2018年の計3年分の状況を紹介し、遺構がどのように変化してきたかを見ていこう。

 

(※なお、本項目で掲載している写真のうち、2014年と2017年のものについては、かつて存在した自身のツイッターアカウントで使用した物を、一部ブログ用に再編集の上で再掲載している。)

 

〈 2014年 〉

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レール埋没部の全体を眺める。矢印で示したように、線路が下に埋まっていることを示す亀裂や割れ目、レールの露出部が路面に見られる。

 

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南側の線路。ご覧のように軌道の形がくっきりと浮かび上がっており、右下ではレール本体も露出していた。

 

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左の写真のように北側の線路では、片方のレールがモロに地表に露わになっており、自動車により付いたと思われる傷が表面に幾つもあった。右写真は南側線路のレール露出部を拡大したものだが、地表面よりもやや引っ込んでおり、レール表面も北側の物より錆び付いていた。

 

〈 2017年 〉

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最初の訪問から3年後の2017年に再訪すると、僅かな変化が見られた。まず、南側線路のレール露出部がアスファルトにより塞がれ、路面が補正されている。

 

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傷だらけのレールが地表に露わになっていた北側線路も、2017年には露出部が埋められている。雨天時のスリップの可能性などが考慮されたのだろう。

 

〈 2018年 〉

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レール露出部が塞がれ もう生のレールは見られないのかと思いきや、この時の訪問時にも僅かな変化が。南側線路において、以前埋められた青丸部分は特に変わっていなかったが、赤丸部分で新たにレールが露わになり始めたのである。

 

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今回新たに露出した部分の拡大。上に被さっていたアスファルトが剥がれ、すっかり錆び付いたレールが地表に姿を見せている。ここもそう遠くない日に塞がれるだろうが、今なら再び、市電当時のレールの姿をしばらく見ることが出来そうだ。

 

ちなみに、現役当時の七条大橋の市電の姿(および現在の風景)については、こちらの京都市電廃線跡のサイトにも掲載されているが、何故かこのサイトでは、今回の残存レールの件については触れられていない。

京都市電の廃線跡を扱うサイトとしては大御所であり、このサイトを書いた人がこのレールの存在を知らないとは思えないのだが、もしかしてサイト掲載で情報が広まることにより、撤去されてしまうのを恐れているのだろうか。

 

(※この線路が残っているのは交通量の多い道路上であり、遺構は横断歩道から少し離れた所に位置しているため、見に行かれる方は事故に注意されたい。)

 

- 稲荷電停跡 -

かつて京都駅より南下して途中で京阪中書島駅へ向かう線(伏見線)と別れ、東進して伏見稲荷大社の近くに至っていた「稲荷線」の終点だった場所に残っているもので、地図で示すと丁度以下のピンの位置になる。

この遺構については結構昔から各所のウェブサイトにも掲載されており、残存する京都市電の線路の中では最も有名な遺構である。

そのため、本記事においては簡潔な紹介に留めるものとする。

 

このレール遺構を取り上げたサイトを1つ例示するなら、やはり本記事でも何度も取り上げている以下のサイトが代表的だろう。

『稲荷線の廃線跡探訪(稲荷駅終点)』- 京都市電の廃線跡を探る

 このページの一番下の方に写真が載っている のだが、公園に転用された稲荷電停跡のコンクリートの段差の下に、 僅かに当時の線路の一部が顔を覗かせている のである。

 

壬生車庫跡や七条大橋とは違い線路全体が見えているわけではなく、片方のレールの切断された先端部だけがチラリと見えているだけではあるものの、恐らく上に被さっている分厚いコンクリートの下には、当時の線路が眠っているのかもしれない。

というのも、自身も現地を何回か見に行ったことがあるのだが、そもそもこの稲荷電停跡自体、電停施設だった橋をそのまま残し、公園化の際にそこに少し手を加えただけで、かつて電停だった構造物がほぼそのまま残されている模様だからである。

そのため、電停の旧軌道部分はコンクリートで埋められた程度であり、なおかつ当時の線路の一部が露出しているとなると、その埋めたコンクリートの下に線路が残されているかも…と考えても不思議ではないだろう。

 

分厚いコンクリートの下から実際に線路が掘り返されるのは、きっと橋が老朽化で撤去される頃でかなり先の話になるだろうが、僅かに見えているレールの先端から、厚いコンクリートの下に線路がもっと埋まっているかも…と思いを馳せるのは、なかなかワクワクするものがある。

 

********************

 

最後の路線の廃止からも40年が経ち、他の路線となれば半世紀近くも前に京の街から消えた、京都市電。

それほど昔に無くなっているにもかかわらず、道路上を走るという性質ゆえ本来撤去されやすい当時の線路が、分かっているだけで3ヶ所も残っているなど、普通は予想の付かないことだろう。

とりわけ今回写真付きで紹介したそのうち2ヶ所は、現役施設や主要道路の路面に平然と残されているものであり、撤去されずに残ってきたのはもはや奇跡だと言ってもよい。

これらは保存されているわけではないので、いずれそう遠くない日に取り払われる時が来るだろうが、それでも見た限りまだまだ撤去の気配は感じられないので、当面は安泰そうである。

加えて京都市電といえば、保存車両や廃線跡など、残された遺構は他の廃止路面電車よりも比較的多い。

ゆえにもしかしたらではあるが、当時の線路が埋まっている場所も、本記事で取り上げた物以外にまだ探せばあるかもしれない。

決して可能性は高くないのだが、例えば市電時代の面影が比較的残る上に交通局が管理している、バス操車場に転用されたかつての車庫跡となれば、ひっそりと地中などに残っていたとしても不思議ではない。

レールがまだ撤去されずに残っている所が他にもないか、機会があれば京都市電のみならず、他の路面電車廃線跡でも是非探し歩いてみたい。

 

★ 参考文献 ★

●沖中忠順『京都市電が走った街 今昔』(2000年、JTB出版事業局)

●『京都市電の廃線跡を探る』<http://www.geocities.jp/kyototram/index.html>(参照:2018年10月)

●公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター(公式サイト)<http://www.kyotofu-maibun.or.jp/index.html>(参照:2018年10月)

●京都の住民がガイドする京都のミニツアー「まいまい京都」(公式サイト)<https://www.maimai-kyoto.jp/>(参照:2018年10月)

 

その他記事中にリンクを貼り付けたウェブサイト・地図サイト等

 

- 脚注 -

*1:沖中忠順『京都市電が走った街 今昔』(2000年、JTB出版事業局)P.132・133

*2:先述の3つの航空写真参照。

*3:先述の「その後の発掘調査(2010年)の模様」リンク内の写真を参照。