幻鉄RAMBLER

~ 未成線・廃線跡・海外鉄道リポート ~

【未成線】立木山鋼索鉄道を歩く(滋賀)

宇治川ライン沿いの知られざる参詣路線計画 ~

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 日本最大の湖・琵琶湖の南端からは、瀬田川が流れ出し、その両脇には石山・南郷地区が広がっている。

石山地区といえば京阪電車石山坂本線の終点があり、関西では名の知れた石山寺がある土地でもあるが、そこから更に南へ行った地区も、至る所に見所がある。

南郷地区なら探偵!ナイトスクープにも珍妙スポットとして取り上げられた南郷水産センターがあり、瀬田川を南下して山間部に入ると、瀬田川から京都の宇治川にかけての通称「宇治川ライン」と呼ばれる一帯では、その峡谷の景観の美しさが名高いと言われてきた。

 

その瀬田川を石山地区より南下して、山間部に入って少し行った所に、通称「立木観音」と呼ばれる、安養寺という寺院がある。

この寺院は厄除けにご利益があるとされ、創建は高野山を開基した弘法大師と言われる。瀬田川の西岸よりおよそ800段の石段を登って辿り着くその山上の寺院は、そのご利益といわれの名高さから、とりわけ年末年始には、関西一円や全国から多くの人が訪れるという。

 

そのような立木観音ではあるが、現状を見てみると、交通手段は専ら自家用車かバスのみで、鉄道駅からは遠く離れている。また、いわれが名高く参拝者も各地から集まるとはいうものの、鉄道から離れた場所に位置するためか、知名度は関西の他の寺社仏閣ほどでもないように感じられる。

しかし、厄除けの主要な寺院として信仰を集めてきたこともあり、かつては参拝用の鉄道が幾つか計画されたこともあった。本記事で紹介するのは、そのうちの一路線であるケーブルカー計画、立木山鋼索鉄道である。

 

★ 概要と歴史 ★

この路線は立木観音のある立木山の北部に計画されていたもので、大正12(1923)~昭和6(1931)年頃に存在していた。

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↑広域におけるケーブル計画と周辺の位置関係図。

 

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↑立木観音を含む路線周辺の拡大地図。

 

区間山麓南郷駅から山上の立木山駅の間を結ぶものだが、上の地図でも分かる通り、京阪の石山寺駅など鉄道駅からは相当離れており、ケーブルの路線の方も立木観音からはやや離れた所に位置するとしていた。

 

このような立地にありながら、どうやら 接続する鉄道路線は予定されていなかった ようで、かつて比較的近くまで来るはずだった大津電車軌道(現在の京阪石山坂本線)の南郷延伸線(石山寺~南郷)も、ケーブル計画が出願される前の大正5(1917)年には既に免許が失効している。

 

その一方、当時の文書によると、同じく立木観音への進出を図っていた 競願路線 は多かったようで、同時期に存在していたものを簡潔に列挙すると、

●立木登山鉄道(大津電車軌道/後の京阪電鉄の計画)

●石山宇治電気軌道

主にこの2つとなり、いずれも立木観音のすぐ近くまで路線を敷設する予定だったようだ。

地元の中小資本だけでなく、関西の大手私鉄までこの立木観音を目指していたというのは、少々意外である。

しかし、いずれの計画も敷設免許を取得することすらなかったようで、実現しないまま終わっている。

 

-路線データ-

●形態:鋼索鉄道(ケーブルカー)

●距離:805 m

軌間1067 mm

●駅数:(起終点)

●線路設備

 ◎軌道:木製枕木バラスト道床

 ◎架線:架空3線式

 

起業目論見書によると、線路設備については、 枕木は栗材  敷石は割栗石 を用いる、などその仕様が事細かに説明されており、路線細部の設計に入る前の出願段階で詳細なところまで想定されていたことが分かる。

また、架線についても車両に照明用などの電力を送るだけとはいえ、架空3線式(3線交流式と思われる)を用いることを想定していたとは、結構特殊な仕様である。

 

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上は当時の文書内に封入されている路線平面図の抜粋。赤丸の中に、ケーブルの線が書き込まれている。

上図の中では、ケーブルカーの路線は一直線状に書かれているが、地形の関係なども考えると、途中でカーブを設ける予定などは無かったのだろうか、とも思ってしまう。

なお、上の図面はここに引用・掲載しているよりも更に大型の広域地図なのだが、これ以上路線を拡大した詳細な図面は、文書内には封入されていない。

 

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次に上に示すのは、線路の予測縦断面図。横倒しとなっているが、題目以外の図中の大半の文字が横書きとなっているため、この向きが正しいようである。

前の図の解説の所で地形と路線の敷設形態について触れたが、この縦断面図を見る限りでは、少なくともトンネルの設置は予定されていなかったようである。

この図面も地形と路線の描き方が随分と大まかであるが、「予測」縦断面図であるゆえ、後で実測の時により精密な図面を作る予定だったのだろう。

 

-略史-

●大正12(1923)年:敷設免許を申請

出願から下記の経過に至るまで随分と年数が掛かっているが、鉄道省側で火災があった関係で焼失書類の再提出があったようで、そのために最終的な決裁を確定させるまで時間が掛かったものと思われる。

免許の是非の判断自体は、下記よりも更に前に下されていた可能性もある。

●昭和6(1931)年:出願が却下される

理由としては「短距離路線であり、目下の状態では敷設の必要を認め難いため」と説明されている。

 

路線距離が800mと実際はさほど短くないながら「短距離」扱いされている点は、更に短い路線距離で敷設免許を取得した他の計画線のことも考えると(本ブログで取り上げた例なら高取鋼索鉄道(543m)がある)、あまり納得がいかない感じもするが、国側が問題にしたのはその需要や実際の必要性だったのかもしれない。

 

文書の最初の方には一時比較的高評価だった旨が書かれており、発起人の資産信用度は高く、敷設の際の成業見込みや路線の効用は認められ、省線等にも好影響があり、風致上も支障が無い、など好意的な意見が並んでいた。

また、滋賀県知事も同様の肯定的な副申を出しており、上記の評価はこれが影響していると思われる。

 

それにもかかわらず出願が却下されたのは、昭和金融恐慌や昭和恐慌など、大正末期から昭和初期にかけての一連の不況も影響しているのだろうか。

 

前向きな評価から一転して、国側から「不要不急」の烙印を押されたこのケーブル計画は幻に終わり、最終的に立木観音に到達する鉄道は、一路線も実現することは無かった。

 

未成線を歩く ★

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【ア】瀬田川の対岸より望む。画面中央の山付近がかつてのケーブル予定地で、山の奥に向かって真っ直ぐ伸びていくことになっていた。

 

【イ】山麓側の南郷駅予定地はこの付近の右側。藪の生い茂る斜面となっているが、実現していれば駅前広場などが造成されていたのだろうか。

 

【ウ】この辺りからケーブルは山中へと突入し、真っ直ぐと山上を目指していく。この背後は現在、住宅地として造成されている。

 

【エ】山上側の立木山駅予定地付近。どういうわけかこの場所は少し開けた所となっている。ここから立木観音までは更に距離がある。

 

【オ】現在の立木観音こと安養寺の境内。見た限りでは山中の閑静な寺院という感じがするが、鉄道が通じていれば更に違った賑わいを見せていたのだろうか。

 

********************

 

由来の名高さと厄除けのご利益から参詣路線が企図されながらも、一路線も到達しないまま終わった、立木観音。

現在でも特段マイナーではないながら、関西在住の人でも知る人はさほど多くはないのではなかろうかと思うのだが、他の有名な寺社仏閣が私鉄の事業展開の一環で知名度を上げていった歴史の一面を考えると、この立木観音も仮に鉄道が通じていたとすれば、関西を代表する私鉄沿線の有名寺院の内に名を連ねていたのかもしれない。

地元の中小私鉄計画だけならまだしも、戦前に「京阪王国」の栄華を誇っていた京阪グループですら進出が叶わなかったのだから、あいにく鉄道が進出するだけの諸条件が相当悪かったということで、半ば偶発的な当時の風向きの悪さは惜しまれるところである。

 

一方、立木観音はあくまで信仰の対象たる「聖なる場所」という事実も考えると、鉄道が進出することによってもたらされるのは果たして好結果ばかりなのだろうか、という疑問を抱く人が居たとしても十分不思議ではない。

鉄道により人が押し寄せ過ぎていたかもしれないし、観光地化が進むあまり周辺風情の陳腐化も招いていたかもしれない。

鉄道が通じておらず落ち着いた雰囲気を保っているであろう現在の状況を考えると、鉄道が通ることによる上記のような影響には必然的に感心しない人々も出てくるであろうし、鉄道があれば良かったのか無くて良かったのかは、一概には言い難い面もある。

 

今回はひとまず路線計画の調査と記事作成だけに留まる形となったが、関西から少し足を延ばせば行ける山中の寺院は行楽・散策スポットとしても惹かれるものがあるため、立木観音はまた機会を見計らって現地にも赴いてみたい。

 

★ 参考文献 ★

鉄道省文書「立木山鋼索鉄道敷設願却下ノ件」(昭和6(1931)年、国立公文書館蔵)https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000385145

(記事中の原資料画像は上の文書より引用・抜粋。)

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(2001年、JTB出版事業局)

●立木観音 公式ウェブサイト http://www.tachikikannon.or.jp/

 

その他ウェブサイト等若干

【未成線】高取鋼索鉄道を歩く(神戸)

~ 長田にそびえる高取山に目論まれた参詣路線 ~

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神戸市長田区の北部にそびえる、高取山。

長田のシンボルと言わんばかりに目立つこの独立峰は、その昔鷹が多く営巣したからだとか、この地区が大水に見舞われ山まで浸かった時に、山頂に居たタコを捕らえたからだとか、山の名のいわれは様々である。

現在では六甲全山縦走路の一部となっており、早朝登山の場ともなっていることから、ハイカーから地元の人まで親しまれる定番の山となっている。

 

また、山頂には高取神社が鎮座しており、創建は1800年以上前とも、いわれは皇族とゆかりが深いともされるこの神社は、国家鎮護・家内安全・商産業の安全発展にご利益があるとして、古来から多くの信仰を集めてきた神社で、整備された参道や登山道沿いにある茶店の多さからも、人々の信仰が昔から厚かったことが伺える。

神社からの眺望も絶景で、神戸市内から淡路島まで望めるその景色は、まさしく壮観と言うに値するものである。

 

さて、この高取山、山麓から山頂までの登山道はその殆どが舗装されており、歩いて30分ほどで登れる山ではあるのだが、山の上まで登る手段は、ほぼ徒歩のみとなっている。

山頂までの公共交通が無いのはもちろんのこと、自動車道路すら整備されていないため、足腰の弱い高齢者や身障者も含めて誰もが気軽に登れる…というわけにはいかない。

 

そんな高取山にも、戦前にはケーブルカーの計画が存在し、参詣の便の向上と共に、周辺の開発を図ろうとしていたことがあった。これから本記事で紹介する、高取鋼索鉄道である。

 

なお本記事では、ケーブル計画と連携する形で計画されていた、神戸市電の未成区間についても触れることにする。

 

★ 概要と歴史 ★

このケーブルは、高取山の裏側に当たる北東部分に計画されていたもので、大正13(1924)~昭和3(1928)年頃のものである。

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(※図中の市電計画線は大まかな経由地と方向を示しただけで、ルートとしては必ずしも正確ではない。)

 

ケーブル自体の距離は短く、麓の口一里山(くちいちりやま)駅から、高取神社のかなり手前である高取山駅までを結ぶものだった。

なぜ終着点を山頂よりかなり手前にしたかは不詳だが、京都の愛宕山鉄道(廃止)など他のケーブル路線にも同じような事例が見られるため、地形や技術の関係もあったと思われる。

 

また、後に詳しく述べるように、このケーブル計画と関連したものとして、ケーブル近くまで神戸市電を延伸する計画や、山麓の駅への取付道路(未成)を含めた 都市計画道路との連携計画 も存在していた。

 

敷設の主な目的は高取神社への 参詣客輸送 だが、計画当時の新聞記事にはこう書かれている。

又山地開発のために計画せられつつある索道電鉄で既に認可申請中にあるものは僅に高取ケーブルだけで、長田名倉町より口一里山まで地上電鉄、それより高取山上までケーブルとなるもので住宅地開発が目的である。

 

――大阪毎日新聞「(下)山地開発の索道電鉄と命が縮まりそうな神戸市将来の電車網」『各郊外電鉄の市内乗入計画(上〜下)』(大正12(1923)年11月13~16日) より引用

そう、単に山に登るだけではなく、ケーブル周辺の 住宅開発 も目論んでの計画だったのである。

現在の高取山北東の山麓付近も既に宅地開発がなされているが、この近辺の開発は大正末期から企てられていたことが分かる。

 

当時の鉄道省文書によると、この住宅開発は山麓部だけでなく、高取山の 山上部にも計画 されており、併せてその高台と眺望を生かし、 遊園地を開設 することにもなっていたという。

現在は多くの自然が残る高取山も、ケーブルカーが通っていれば、今とは全く違う姿になっていたことになる。

 

-路線データ-

●形態:鋼索鉄道(ケーブルカー)

●距離:543m

軌間1067mm

●駅数:(起終点)

 

以下は当時の文書内に封入されている、ケーブル計画を書き込んだ広域地図。

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赤丸の中にケーブルの線が書き込まれているが、これをそのまま現代の地図に投影して計測してみたところ、路線距離などに不整合が見られることから、この書き込みはあくまで概略的な大まかなもので、実測的な観点においては不正確なものと考えられる。

 

また、本来ならケーブルの右側辺りに神戸電鉄の路線が記されているはずだが、この地図には掲載されていない。

実は、このケーブルが計画されていた当時、まだ現在の神戸電鉄は開業していなかった。

高取鋼索鉄道の敷設免許が失効したのは、昭和3(1928)年10月のこと。また、神鉄の前身である神戸有馬電気鉄道が開業したのは、同じ年の11月。つまり、高取ケーブルの計画は、現在の神鉄が開業する前に存在していたことになり、如何に昔の計画であったかが良く分かる。

現代の地図(本記事の冒頭付近参照)で見てみると、ケーブルへのアクセスは神鉄の長田駅か丸山駅から行った方が近そうだが、神鉄(開業時は神有)からのアクセスを想定せず、先述の引用新聞記事に「長田名倉町より口一里山まで地上電鉄」とあるように、わざわざ 独立した平坦線を山麓に敷設しようとしていたのは、当時まだ神鉄(神有)が未開業だったため である。

 

次に示すのは、当時の道路計画と絡めた、ケーブル及び周辺の詳細な図面。

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赤丸の中に、かなりうっすらとではあるが、ケーブルの計画線が書き込まれており、また青丸で示しているように、ケーブルの山麓側までは、ヘアピンカーブを描いた道路で連絡する予定だった。

この図面に書き込まれている道路の大部分は、現代においても現存しているが、 青丸内の連絡道路 は、ケーブルが未成となったこともあり、 結局造成されることは無かった ようである。

 

なお、この図面の場合、一部において少々の地形のズレは見られるものの、前に紹介した物と違い、詳細な図面とだけあり概ね正確であり、ケーブルの線も現代の地図に投影して計測してみても、距離もちゃんと一致する。

 

そして、先にも何度か言及した通り、このケーブル計画は、当時の 神戸市電の路線拡張計画とも連携 していた。

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上の概略図(※私鉄は省略)に示している通り、当時の神戸市電には、長田・湊川大倉山より北に路線網を拡張する計画があり、それに付加する形で、計画線の左上(北西)から更にケーブルの山麓側まで路線を延ばすとされていた。

ケーブル連絡線の起点は名倉町付近。後述の「未成線を歩く」の項で出てくる【イ】の地点付近である。

 

市電計画線との連携の存在については、当時の文書内にも同様の概略図がしっかりと書き込まれている。

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後に開業している平野までの市電路線が計画線として書かれているなど、多少の相違点は見られるものの、当時まだ未開業だった神戸電鉄神戸有馬電気鉄道)の起点が、現在の湊川ではなく平野付近と表記されている点も興味深い。

 

ただ、当時の文書(起業目論見書や広域図面など)には 自動車連絡を基本とする 旨も書かれており、市電の五番町七丁目電停、市電の路線拡張が実現した場合には明泉寺下(名倉町付近)より、ケーブルの山麓の駅までバスによる連絡輸送を行うともしていた。

先述の引用新聞記事には「長田名倉町より口一里山まで地上電鉄」の一文があり、文書内にも市電計画線の存在が書かれていることから、市電とケーブルの間を鉄道で連絡する計画があったことも間違いないようだが、バス連絡と鉄道連絡どちらか一方の計画が有力だったのか、それとも最初はバス連絡で始めて、後に鉄道連絡に移行する予定だったのか、やや不明確な点は残る。

 

-略史-

●大正13(1924)年:敷設免許を申請

●大正15(1926)年:免許を取得

高取神社への参詣輸送や周辺の開発に貢献する点が評価され、免許の交付は無事に受けるに至った。

●昭和2~3(1927~28)年:工事施行認可申請を3度延期

計画は動き出したが、折も悪しくも世は昭和金融恐慌(昭和恐慌の前の不況)に突入。資金集めに難航し、工事に向けた手続きの先延ばしを連発するようになる。

●昭和3(1928)年10月:免許が失効

多くの鉄道計画を淘汰してきた、昭和初期の経済不況。この高取鋼索鉄道も例外なくその煽りを受けることとなり、計画から僅か4年程で、ケーブル計画や高取山の開発計画は、儚くも水泡と帰すこととなってしまったのである。

 

未成線を歩く ★

・現地踏査時期:2018年2月

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【ア】長田神社南交差点で、かつて市電は右へと曲がっていたが、高取山方面へと向かう計画線は、そのまま直進する予定だった。

 

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【イ】名倉町付近で市電計画線は、東方向(右)へ曲がる路線と、高取山方面へ直進する路線に分かれることになっていた。写真中央の道路は戦後造られたものだが、分岐予定地はこの辺りだろうか。

 

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【ウ】高取山北東の山麓付近。長田神社付近からやって来た市電計画線の終点が想定されていたのは、この付近だろうか。

 

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【ウ】先程の場所より少し南下した、鷹取橋東詰交差点。現在の道路はここから直進しているが、本来は青矢印のように右に曲がり、写真中央の山の辺りでヘアピンカーブを描き、ケーブルの山麓の駅へと通じる道路が分かれる予定だった。

 

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【エ】ケーブル口一里山予定地付近。赤丸の辺りから線路は山中へと突入し、山上へと直進するはずだった。戦後の宅地開発でやや地形が変わっているようだが、駅予定地はこの辺りと思われる。

 

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【オ】高取山駅予定地は、図面通りならこの付近ということになるが、平らな場所が殆ど無く右側は急斜面となっているため、駅を造るには少々条件が悪そうにも見える。

 

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【オ】先程の場所から少し上がった辺り。ここから奥に少々降りると多少平らな場所があるので、実際にはこの辺りに駅を造ることを想定していたのかもしれない。

 

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【カ】高取山頂への参道の途中より。御嶽山の分社の上より分かれる左側の道が、かつてのケーブル駅予定地へと通じる道。ケーブルが実現していれば、この道ももう少し立派に整備され、乗降客が行き交っていたに違いない。

 

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【キ】高取山頂に鎮座する高取神社。境内の厳かな雰囲気と共に、そこからの神戸市内の眺望は絶景である。ケーブルカーが通っていれば、現在よりも更に有名な展望の名所となり、同時に造られる予定だった遊園地と共に賑わいを見せていたことだろう。

 

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記事の冒頭でも少し書いたように、高取山の麓から頂上までは、自分で歩いてみても分かったのだが、確かに30分ほどで登ることが出来た。

そのような標高の低い山にわざわざ短いケーブルカーを通すというのは、いくら山麓と山上の両方を開発するとはいえ、果たして本当に採算が採れ得たのだろうか、と思う人もいるかもしれないが、現代の例で考えてみても、戦後に開業した京都の鞍馬ケーブルは、距離も短く鞍馬寺の境内を開発したわけでもないながら、現在でも立派に参拝客の登山交通として機能している。

加えて、現代のバリアフリーという観点で考えてみれば、鞍馬ケーブルもバリアフリー設備の一種という風に考える事も出来るので、仮に高取山にケーブルカーが実現していたとしても、高取神社へ参拝するためのバリアフリー設備として、より幅広い人達が参拝できるようになっていただろう、とも言うことが出来る。

そこに鉄道開業による知名度向上の可能性だけでなく、高取山上の住宅開発や遊園地開設の計画が当時は付加されていたのだから、利用者の数だけで見れば、十分利用率は見込めたとも考えることが出来る。

 

現在、高取山から最寄りの登山交通と山上遊園施設といえば、山陽電鉄が運営する須磨浦ロープウェイ他と須磨浦山上遊園。こちらは、戦後になって開発されたものである。

もし、高取山の方に戦前の段階で登山交通と遊園地が開業していたならば、そちらの方が先に栄え、神戸西部の娯楽施設の勢力図は、今とは全く違ったものになっていたかもしれない。換言すれば、現在の須磨浦山上遊園は、高取山と至近過ぎて開園していなかった可能性すら有り得るのではないだろうか。

 

ただ、現在は自然と静寂が豊かに残り、高取神社や多くのお社が山中に点在する高取山のこと。

この自然と信仰のオアシスが、もし住宅開発や観光開発により今とはかなり違った姿になっていたとしたら、地元の人々や高取山を愛する人達がどう思うかは、賛否が大きく分かれるところだろう。

 

★ 参考文献 ★

鉄道省文書「第十門・地方鉄道軌道及陸運・二、地方鉄道・高取鋼索鉄道・失効・大正十五年~昭和三年」(1926~28年、国立公文書館蔵)https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F0000000000000047655

  1. 「神戸市長田村地内鉄道敷設免許ノ件」https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000387608
  2. 「工事施行認可申請期限延期ノ件」(S2.7.) https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000387609
  3. 「工事施行認可申請期限延期ノ件」(S2.9.) https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000387610
  4. 「工事施行認可申請期限延期ノ件」(S3.3.) https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000387611
  5. 「工事施行申請期限ノ件ニ関スル回答並免許状返納ノ件」https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000387612

(※記事中の原資料画像は全て上の鉄道省文書より引用(および一部は加筆)。)

●大阪毎日新聞「各郊外電鉄の市内乗入計画(上〜下)」(大正12(1923)年11月13~16日、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 電気鉄道(05-056) )http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00097269&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』(平成13(2001)年、JTB出版事業局)

宮脇俊三『鉄道廃線跡を歩く III』(平成9(1997)年、JTB出版事業局)

 

その他書籍、ウェブサイト、街頭説明板等若干